19 自由
顔をぬぐうと、手のひらには血と汗がべたりとこびりついている。
敷地内の円塔に閉じ込められたティアは、気だるさに吐息を漏らした。
「息苦しい……」
壁際に座り込み、鉄格子のむこうの松明をぼんやりと眺める。黴くさい空気を吸い込み、もう一度、溜息をつくように吐いた。
『空の状態で力を使えばそうもなろう』
『……らしいな』
イスラの声に返す。蹴られた眉間の痛みよりも、息苦しさに顔をしかめた。
実のところ、力は今も使い続けている。全身を掻きむしりたくなるような不快感があった。
「……貴族、か」
ミハイルとの会話を思う。
貴族として、リュニオスハートの当主として、彼の肩には重圧が圧し掛かっている。それはわかる。傍から見れば羨ましい身分であっても、それを当人がどう思うかはまた別の話だ。
責任感が強い者ほど、その苦しみも大きいものだ。
「父上も、きっとそうだったんだろうな……」
弱小貴族でありながらシフル家は領民からの信頼は篤かった。しかしそれでも時折、父親は怖いような表情を見せることがあった。食事中、食べ物が喉を通らない様子でぶつぶつと何事かをつぶやいていたこともある。
人を治める、ということ。
領地を守る、ということ。
カホカがそうであるように、ミハイルもまた血に苦しんでいるのかもしれない。
怒り、ティアを踏みつける彼の顔は、ティアの眼には癇癪を起こした子供のように映った。
『お前は甘いのう』
『そうでもないさ』
憐れだとは思うが、やはりカホカに対する扱いを許すことはできないし、貴族の務めを果たすために領民をないがしろにしては意味がない。同情はしても、断じて認めることなどできない。
『人の上に立つのは大変なことなのだろうと思っただけだ』
ティアはもう一度、はぁ、と大きく息を吐いた。
『なぁ、イスラ』
『うむ?』
『国とは、領地とは……何なんだろうな』
それがなければ、人は生きてはいけないのだろうか。
『さてのう』
イスラは言葉を探すように、
『人は群れる。そういう生き物ではある。群れの生き物ではない獣とて縄張りを持つ。人が群れ、縄張りを作る。それが国となる』
『人の性、ということか?』
『国を持たぬ者もいるようだがな』
『ルーシ人か?』
ティアの問いに返答はなかった。
「オレの街は焼かれ、ルーシ人は国を持たず、酒場の女たちは互いに扶け合い、リュニオスハートの領主は苦しむ、か……」
ティアは背を壁に預けながらよろよろと立ち上がり、
「不思議な世界だ」
そして微笑う。なぜか、おかしかった。
『それが自由ということだ』
イスラが言った。
『自由?』
それを自由と呼ぶ発想はティアにはまるでなかった。いや、ティアはおろか、この国でそれを自由と思う者がひとりとしているだろうか。
『お前は自由じゃ、心赴くままに進むがいい』
『自由……か』
神であるイスラならではの言葉だと思った。その言葉を味わうようにティアは口にする。
『心惹かれる言葉だ』
ティアは鉄格子を掴む。しばらくそうしていると、階段をコツリ、コツリと誰かが上ってくる足音が聞こえはじめた。
『なるほどのう』
イスラも気づいたようだ。
『力の使いどころは間違っておらぬ』
『褒められたと思っていいのか?』
『良い。その調子で己を磨け』
そうして足音が止まる。松明の明かりに照らし出されたのは、屋敷の若い衛兵──セイネスだった。
「……鍵を」
ティアが言うと、セイネスは手に持った鍵をこちらに差し出してくる。
「いい子だ……」
ティアは受け取った鍵で鉄格子を開け、牢屋を出た。瞬間、ティアはセイネスに拳を放った。顎先のスレスレをかすめるように当てると、セイネスの脚が力を失い、その身体が鉄格子をつたってずるずると落ちていく。
『容赦ないのう』
『茶化すな。こうしないと彼に咎が及ぶ』
セイネスを一瞥して、ティアは螺旋階段をおりはじめた。
円塔を出ると、屋敷に続く通廊からはずれて庭のなかへと入っていく。木々に身を潜めながら進むと、すぐに正門が見えてきた。ティアは躑躅の生垣から様子をうかがう。
詰所の明かりに、衛兵がふたりと、先ほどミハイルの室にいた隊長らしき男がなにやら話し込んでいる。
「三人か……間が悪いな」
『せめてあの男が去ったあとがよさそうだの』
あの男とは、隊長格を指しているのだろう。同感ではあった。すでにセイネスを解放したことでティアは力を解いていたが、それまでの消耗は残っている。しかも相手は手練れである。ミハイルの室での剣さばきから判断すると、腕前はタオよりも上かもしれない。
「自由にやるさ」
ティアはつぶやくと、茂みの陰から身を起こした。