18 貴族の務め
セイネスが覚束ない足取りでその場を離れていく。
ティアは自分の胸を押さえた。動悸が激しい。まるで身体を流れる血が薄くなったような感覚を覚えた。
「やはり、血が必要なのか……」
その場に倒れ込みたくなる衝動をこらえ、萎える脚を拳で打つ。
しかし肝心なのはこれからなのだ。
セイネスの姿が見えなくなるのを確認してから、ティアは扉を開け、室のなかへと入っていく。
室のなかは書斎のような造りになっていた。
扉の脇の壁際に衛士の男が立っている。その身なりからおそらく隊長格だろうと見当をつけながら、ティアは室の中央に視線を走らせた。
机の椅子に、ひとりの男が座っている。
──この男が……ミハイル=リュニオスハート。
身長はやや低め。癖のない金髪を撫でつけ、やや暗い茶の瞳は、どこか神経質そうな印象を受けた。
「私はマイヨールを呼んだはずだが」
低く、淀みのない口調で言われ、ティアは額に脂汗をにじませながら、
「彼女は高齢ゆえ私が名代として来た。──私では不服か?」
たとえ虚勢だとしても、ここで気を呑まれるわけにはいかない。
「不服と言えば不服だが、よかろう」
ミハイルは鼻で笑う。
「私の娘について話があるそうだな」
そうだ、と言いかけたティアの言葉は、「だが──」とにわかに語気を強めたミハイルによって遮られた。
「私には娘などいない。思い当たる節がない」
「貴様ッ!」
思わず飛び出しかけたティアの喉元に、横から剣が突きつけられた。想像以上に鋭い抜剣に、ティアはごくりと喉を鳴らす。
それでもひるまずにミハイルを睨み据えた。
「カホカは、お前の娘ではないというのか」
「その者が此度の反乱における首謀者の疑惑がある、と私は聞いているが?」
あくまでカホカを他人のように扱う物言いに、ティアは喉元に剣を押し当てられても尚、一歩前に進み出た。首に赤い線が浮かぶ。隊長格の男はわずかに動揺したようだった。
「カホカはお前に捨てられた今でも……迎えにきてもらいたい、そう望んでんいるとイヨ婆が言っていた」
ミハイルの表情に変化は認められなかった。ティアは願いを込めて続けた。
「お前は反乱というが、そもそもの発端はお前がリュオスハートを再び戦争に巻き込もうと画策している、という噂が立ったからだ。もし噂が真なら、ただ考え直してほしいという、それだけのことであって、反乱でさえない。カホカも、首謀者となることでお前に伝えたいことがあるんだ」
自分の存在を。ミハイルが己の非を認めることを。
「つまり──」
しばらくの間のあと、ミハイルがふと笑みを浮かべた。
「そのカホカという者は、嘘か誠かもわからぬ噂に振り回された挙句、それを利用し、私に意趣返しをして恥をかかせたい、そういうことか?」
「ちが──」
「もういい」
ミハイルが指を鳴らす。剣が首から離れた、そう思ったのも束の間、剣の峰がティアの後頭部に振り下ろされた。
「ぐ……っ」
痛みとともにティアが両膝をつく。そのまま剣で首裏を押さえつけられ、ティアは地面を舐める格好を取らされた。
「小娘が、偉そうに何を言うかと思えば」
立ち上がったミハイルが歩いてくる。その顔には歪んだ笑みが張りついていた。
「戯れに妾に産ませてみたが、それでも役には立ったようだ」
「……どういう意味だ」
「お前らは、阿呆だ。噂ごときに踊らされて」
ミハイルは吐き捨てるように言って、
「かつての戦争は、確かに金にはなった。だが、お前らは勘違いしている。戦争によって一時的に儲けることができたとして、それが続くわけもない。むしろ本質は逆だ」
ティアは黙ってミハイルを見上げる。
「戦争は続けなければ意味がない。終わってしまえば商人どもは仕事を失くす。奴らは金の匂いには敏感だが、欲にまみれて将来を見なかった。作りすぎ、雇いすぎた。愚かな連中だが、領地を守るという高貴なる役目を負う私には、それを捨てては置けぬ。商人どもが去ればどうなる? よりリュニオスハートから金が失われるのだぞ」
ミハイルは唇を噛み、それから「なぜ……」と、声を震わせた。
「なぜ、私が馬鹿者どもの負債を払わなければならぬ!」
ミハイルの怒りが爆発したようだった。ティアの頬に、ミハイルの靴が押し当てられる。
「貴様は、下賤の分際で、私に意見するつもりか!」
怒気をあらわにしてミハイルは何度もティアを踏みつけてくる。
踏みつけられるままに、ティアはミハイルを睨み続けた。
「なんだ、その眼は?」
「それが、お前が噂を流した理由か?」
ようやくティアは理解した。気になっていたのだ、誰が情報をミハイルに売ったのかを。
「武具の同業者組合の長と、お前は裏で繋がっていたんだな。お前に不満を持つ者たちに武器を売って儲けさせた、そして──」
「ほう。小娘にしてはなかなか鋭いな」
ミハイルはティアを小馬鹿にしたように嗤う。
「その通りだ、私は同時に不満分子を叩き潰すことができる」
「お前の領民だぞ」
「放置しておくことができると思うか?」
「……いや」
ティアは言い淀む。ミハイルは、確かに歪んでいる。歪みきっている。それでも元貴族だったティアには、ミハイルの心のすべてを愚かだとは思えなかった。
「たしかにお前は貴族の務めを果たしている。借金から街を救おうとしている。だが、それでは駄目だ。そこに心がなければ、決して領民に伝わることはない」
「偉そうに何を──」
ティアは無言でミハイルを見つめる。
「何を見ている?」
それでもティアが何も言わずに見つめていると、
「私を憐れむつもりか!」
ミハイルの靴先がティアの眉間を蹴り上げた。赤い華が咲くように鮮血が舞う。
「こいつを牢屋にぶち込んでおけ! 反乱を企てた農民ともども縛り首にしてくれる!」
ミハイルの怒声が室内に響き渡った。