17 幸と不幸
「お主はやはり坊主じゃな。人の心の機微がまるでわかっておらぬ」
頭ごなしに言われ、思わずティアがむっとすると、
「たしかに憎くもあろう。が、実の父親でもある。あの娘が蓮っ葉なのは儂も認めるところではあるが、その実、脆くもある。ミハイルを許すことはできぬが、憎みきることもできぬ。ならばこそ、一縷の望みをかけたのだろう」
「一縷の望み?」
「父親から認められたい、といったところか。健気にも心のどこかでミハイルが己の非を改め、迎えにくることを待っておる」
そこでイヨ婆は重い溜息をついた。
「がしかし、その願いが叶うことはないだろう」
ティアは、まじまじとイヨ婆を見つめた。
「人は容易には変われぬ。変わることを嫌い、変わろうともせぬ。儂も、お主も、カホカも、ミハイルも」
「それはどういう──」
「お主に頼みがある」
ティアの言葉を遮って、イヨ婆が言った。
「あの娘の心の依り処になってはもらえぬか? 肉親の贔屓目なしに、あれの度量は一族でも群を抜いておる。あの若さで、本来ならば目の敵にされるべきリュニオスハートの者でありながら、農民たちから信頼を得ておるのもその度量ゆえじゃろうて。ここで朽ちるにはいかにも惜しい。お主が何事かを成し遂げる者ならば、あの娘を持っておいて損にはならぬ」
「何事かを、成し遂げる者……」
ティアがつぶやくと、イヨ婆はかすかに笑ったようだった。
「なに、卜占のようなものじゃ。お主はそういう星の下に生まれついておる。お主の星は自らが輝きを持つ恒星だが、あの娘はそのようには生まれついておらぬ。お主のような者の傍でこそ、輝きを得よう」
ティアはイヨ婆をうかがいながら、
「ひとつ聞きたい」
「言うてみよ」
「カホカをオレに預けて、彼女が幸せになると、貴女はそう思っているのか?」
「そうさな……」
しばらくの沈黙のあと、イヨ婆は杖を握り直し、
「あれは今、運命の岐路に立っておる」
はっきりとそう言った。
「儂にできるのは、あれがそう思えるような未来になるよう、ほんの少し助力をしてやるだけじゃ。幸か不幸かは儂が決めることではない。こうすれば幸せ、ああすれば不幸と割り切ることができるほど、人も、人の世も単純ではあるまい。儂は人より長生きをした分、将来を見通すことができる。けれども見通すことができるだけで、その良し悪しを判断できるわけではない。お前を凶相だと言うたが、吉相と取る者もあろう。……それに気づいたのは、あれがここに来てからじゃな」
「──カホカが?」
「儂はな、あれの母親をずっと不幸だと思っておった。が、カホカを一目見た時、そうではなかったのかもしれんと思った。畢竟、幸、不幸とは入れ子のようなものなのじゃろうて。その時、その局面によって同じ物があたかもちがって見える、その両義性こそが──」
そこまでイヨ婆が言ったとき、酒場の方で人の叫ぶ声が聞こえた。
「なんだ?」
ティアが外に顔を向けると、
「時間じゃ。儂はここを終の棲家と定めておる。カホカはお主に託した。往け。往ってお前自身の目と耳で確かめよ……」
その言葉に押し出されるように、ティアは部屋を出た。中庭に出ると、ちょうど酒場の裏口から兵士たちが現れ出てくる。その鎧の胸元には、リュニオスハートの家紋が刻印されていた。
「この店は反乱に加担しているとの情報を得ている。改めるゆえ、責任者を出せ」
ティアは無表情を装いながら、その言葉に内心で驚く。
蜂起は明日の朝のはずだ。にも関わらず領兵が来た、ということは……。
──情報が、漏れている?
それ以外には考えにくい。
『どうやら待ち人が来たようじゃな』
『待ち人?』
イスラの声に、ティアは目を見開いた。
『この領兵たちがか?』
『待ち人がひとりとは限らぬよな』
可笑しそうにイスラが嘯く。
『……そういうことか』
ティアは兵士たちの前に進み出た。ちいさく苦笑する。本来は敵ではない兵士に囲まれるのは、これで何度目だろう。イヨ婆の言う通り、たしかに自分は稀有な星の下に生まれついている。
「オレが責任者だ」
毅然としてティアが告げると、
「嘘をつくな」
たかが小娘がと、嘲笑う者もいた。それに対してはティアも同じように笑い返してやった。
「本来の責任者は老いているため動くことができない。オレが名代を受けている。領主にはオレの口から伝えよう。聞きたいこともある」
「偉そうに何を言うか!」
「込み入った話だ。領主ミハイル=リュニオスハートの娘の話と言えばいいか?」
ティアの言葉に、兵たちの間に動揺が走ったようだった。対面にこう言われてしまえば、主君に仕える身としては放置できるわけがない。
「……よかろう。ではお前が来い」
決心したように兵士が言うのを、ティアは無言でうなずいた。
◇
半刻も経たぬうちに、ティアはリュニオスハートの屋敷前に立っていた。
──やはり来ることになったな。
予感がした、という言葉が適当かどうか。むしろ、必然と感じられた。カホカと向き合おうとするなら、きっとこの場所を避けては通れない。
ティアは兵士たちに背中を押されるように、屋敷内へと足を踏み入れた。戦時にも使えるよう、外壁は耐火性の強い薄茶色の煉瓦造りになっていたが、玄関ホールは絨毯敷になっており、灯の数も多い。暖かみを出すためだろう、壁には原色が際立つ壁掛けがかかっていた。
開け放たれた背後の扉から風が流れ込み、ティアの黒髪がゆるやかに揺れるのを、先導する若い兵士が食い入るように見つめてくるので、
「何か?」
と、ティアが髪を押さえながら見つめ返すと、「いや」とあわてたように眼をそらした。その様子に、ティアはちらりと白い歯をのぞかせた。
「ここが、領主の部屋なのか? 私はここで待っていればいいのか?」
ティアが瞳の力をそのままに訊くと、兵士は「いえ」と今度は怯んだ様子で、
「こっちだ。来い」
と、正面の階段を上りはじめた。これを傍から見る者がいれば、まるで貴人を案内する下男といった印象を受けたことだろう。それほどにティアは落ち着き払っていた。
『怒っておるのか?』
ふと、イスラから訊かれ、ティアが『怒ってはいない』と返すと、
『良い。お前にしては堂々としておる』
『堂々か……』
そうしているつもりはなかったが、自然と身に力が入る心地はしていた。領主ミハイルに謁見することは、ティアにとっても望むところである。
『他者に関しての方が、お前は真価を見せるようじゃな』
『……他者じゃない』
ティアはきっぱりと否定した。
『カホカだからだ』
正面階段を途中の踊り場で左に曲がって二階へと上る。そこから伸びる通路の右奥の扉の前で、兵士が足を止めた。
「こちらです」
緊張しているらしい兵士に敬語で告げられ、不覚にもティアは笑みをこぼしてしまう。
「私は客人ではないぞ」
そう言うと、気まずさからだろう、兵士が頬を紅潮させた。ティアは廊下に誰もいないのを確認すると、
「お前の名は?」
出し抜けにティアが訊くと、兵士は「は?」と口をぽかんと開ける。
「お前の名を聞いている」
ティアがじっと見つめると、その兵士はますます頬を赤くさせた。
「男子たるものが、私のような小娘を畏れて名を隠すのか?」
白けた口調で挑発するように言うと、兵士は気分を害したように「セイネス」と名乗った。
「……セイネス……いい名前だ……」
ティアは静かに両手を持ち上げ、セイネスと名乗る若い兵士の顔を包み込む。一瞬、セイネスはその手を振り払うような素振りを見せたが、すぐにその手が力を失ったように、ゆっくりと落ちていった。
ティアはセイネスに顔を寄せていく。灰褐色の瞳が、かすかな赤味を帯びる。
「セイネス……お前に頼みたいことがあるんだ……聞いてくれないか……」
瞬きもせず、ティアがセイネスの瞳に自分の瞳を映し込んでいく。
びくり、とセイネスの身体が一度大きく跳ねた。
「……はい……何なりと……」
譫言のように、セイネスがつぶやいた。