19 苦艾の公女Ⅳ
ひじ掛け椅子に頬杖をつき、アルテンシアは煙管をくゆらせる。
ティアもまたゆったりと足を組んだ。
一面がガラス張りの貴賓室である。ふたりは隣り合って座りながら、眼下に広がるケェクの夜景を眺めていた。
──何から話そうか。
ティアは内心で思いつつ、かといって気まずさを感じているわけでもなかった。話すことがないなら無理に話す必要もあるまい、そう思っていると、
「ティアーナ=フィール」
呼ばれてティアはアルテンシアを見た。アルテンシアは夜景を眺めたままだ。
「一度、死んだのですってねぇ。タオ=シフルとして」
「そう」と、ティアが返事をすると、
「どんな感じだったのかしら、死んでみて」
訊かれ、「そうだな」とティアはその時のこと思い浮かべながら、言った。
「シフルを焼かれ、私は怒っていた。それでウラスロの特務部隊に斬りかかっていって、返り討ちにされたんだ」
「無謀なことねぇ」
歯に衣着せないアルテンシアの物言いに、「違いない」とティアも苦笑するしかない。
「しかし、故郷を焼かれれば誰だってそうなる。今だってそうなるだろう。そして──私はウラスロから致命傷を与えられた。そこからの記憶はほとんどない。次に目を覚ましたときは、教会だった。ああ──その前に」
ティアは思い出して続ける。
「目を覚ます前に、イスラの呼び声を聞いた。夢のように」
「そしてあなたは蘇った。吸血鬼として。その声があなたを現世に引き戻したということかしら」
「多分……」
「その時は、もうティアーナ=フィールだった……」
「正確には、名を与えられて吸血鬼となったのはその後だな。わずかな間、私は本当の意味で何者でもなかったのかもしれない」
「興味深いわねぇ」とアルテンシアは微笑む。
「とにかくタオ=シフルとして死んでいるときの記憶はないということかしら」
「そう。しかし、言われて気がついた。私は……」と、そこまで言ってティアは頭を振った。「いや、なんでもない」
「気になるわねぇ」
アルテンシアが紫煙を吐く。ティアは夜景に目を向けた。
「タオ=シフルは失われた。しかし、私は生きている。私が生きているなら、タオ=シフルは死んではいないのかもしれない、とふと思っただけだ。根拠はない」
そして、ティアはアルテンシアに目を戻した。
「死んだあとに興味があるのか?」
「ええ、とっても」
煙管を噛んだアルテンシアの口の端が上がる。
「人間にとって、いえ生物にとって死後の世界は永遠の謎でしょう? 私も死んでみようとしたことがあるけど、結局わからずじまいだったのよ」
「なぜ死んでみようと思った?」
「さぁ、そんな時もある、としか」
「考えすぎじゃないのか。頭がいいのも考えものだな」
「ええ、まったく」
「どうせ人は死ぬ」
「吸血鬼は死なないものね」
「いや、吸血鬼だって死ぬ。実際に死にかけたしな」
「エクリ。そうだったわねぇ」
「よく知ってるな」
「あなたが思っている以上に、あなたは注目されているのよぉ」
アルテンシアがサイドテーブルに置かれたワインのグラスを手に取った。
「なぜ?」
ティアはアルテンシアを見つめる。アルテンシアはグラスのワインを眺めながら、言った。
「いったいあなたが何者であるのか。あなたという存在が異質であることはまちがいがない」
「私は、この国を奪い、国を創る」
アルテンシアのハシバミ色の瞳がティアを映す。値踏みをするように。ワインを戻して、言った。
「近頃の吸血鬼は気が狂っていっらしゃるのかしら? いやねぇ」
「かもしれない」ティアは笑う。「しかし本気だ」
「どうやって?」
言われてティアは考え込む。
「仲間を増やす」
「それで」とアルテンシアはワインを戻した。
「仲間を集めてどうするのかしら?」
「みんなで考える」
「ああ、なるほどぉ。ティアーナ──これは提案なんだけどぉ」
ぽん、とアルテンシアはにこやかに両手を打って、
「太陽の光を浴びればもっとマシな考えが浮かぶんじゃないかしらぁ」
「だめかな」
ティアは苦笑する。アルテンシアに馬鹿にされても頭にこないのは、自分が馬鹿げたことをしようとしているのがわかっているからだと自分でも思う。
そんなティアを見ながら、「でもぉ」とアルテンシアは振り返った。扉の脇に立つカホカとダビドを見やる。
「私が手に入れられなかったものを、あなたはふたつも持っている。カホカ=ツェンとダビド=サルーニ。仲間を増やす能力に関しては私の家もそれなりに自負はあるけれど、あなたに及ばないみたいねぇ」
「運がいいんだ、私は」
「運か実力かを判断するには、同じ条件で何度も試してみなければならない。検証するのは難しいわねぇ」
言って、アルテンシアは意地悪そうな笑みを浮かべる。
「たとえあなたが蝙蝠並みの知能しかなかったとしても、侮れないのよねぇ」
「蝙蝠か」
ティアがつられて言うと、「あらぁ」とアルテンシアは心外そうな顔を作る。
「蝙蝠だって人間らしい面もあるのよぉ。群れの別の個体が飢餓状態におちいった際、自らの血を分け与えたりしてね」
「へぇ」とティアは感心する。「それで?」
「それでぇ?」
「なぜ私と会いたいと思ったんだ?」
「核心的な質問ねぇ、それは」
アルテンシアは煙管をくわえた。深く思案するように押し黙ってしまう。
──アルテンシア=ペシミシュターク。
痩せすぎてはいるが、美しい女性だと思った。表情や振る舞いは上品だが、権高でもある。それ以上に、ぎりぎりまで研ぎ澄まされた刃のような鋭さと脆さを感じた。
「私は──」とティアは話しはじめた。「国を創る。人が人を虐げることのない国を。シフルの民のひとりがこう言った。『──これからを生きる者に、豊かなものを』と。『子供が飢えることなく、その命が脅かされることもなく、よく遊び、よく学び、幸福に生きることができるように』と」
かり、とアルテンシアは煙管に歯を立てる。
「……曾祖父様の遺言よ」
ごくちいさい声だった。
「遺言?」
「これ以上は明かせないわねぇ。そもそもティアーナ、あなたの言っていることは立派な国家反逆罪よぉ。私がいまここであなたたち三人をひっ捕らえて断罪したほうが、公爵家としては正しい行為なのではなくって?」
「そう思うならそうすればいい。しかしアルテンシア、時間的にみて、接触してきたのはそちらからだし、私が国を目指すことを知った上でここに来たのだろう?」
アルテンシアはにやりと笑う。
「あらぁ、意外に頭が回るじゃない。でもぉ、知った上で捕まえに来たとは思わないのかしらぁ?」
「だから、そうしたいならすればいい。おとなしく従うつもりはないが」
「判断はぁ、保留といったとこねぇ。そろそろ──」
アルテンシアが身体を前のめりにした。「本題に入りましょうか」
ティアも組んだ足をほどいて同じ姿勢を取った。お互いの靴先が近づく。
「私の家を含めた三公爵家──ペシミシュターク、コードウェル、アービシュラルが三すくみの関係にあるのはご存じ?」
声を落として話すアルテンシアに「ああ」と、ティアもちいさくうなずく。
「この三すくみが近々壊れそうなの。いえ、もう壊れていると言ったほうがいいのかもしれない。それが明るみにでた時がこの国の大きな転換点になりそう」
「勝算はあるのか?」
「……私がいれば負けることはない。しかし、負けないことが勝ちではない」
アルテンシアが、ティアの目を見た。じっと見つめる。
「ティアーナ、あなたは理想のために罪を背負うことができるかしら? たとえば……あなたの大切な仲間から誹りを受けることになったとしても」
「できる」
迷わずティアが答えると、アルテンシアは目を伏せた。それは逡巡のようにも見えた。しかしすぐに顔を上げ、
「では、ノールスヴェリアに渡りなさい」
「わかった」
「ヘインズに会ってきなさい。すべてはそれからね」
「わかった」
「それと──覚えておきなさい」
ぎらり、とアルテンシアの双眸に強い光が宿った。
「あなたを切ると判断したら、私は一切の躊躇をしない。あなたを切るということは、あなたの愛するすべてのものを犠牲にして、わが家の潔白を証立てるということ。その結果、あなたが私を恨もうと、私の知ったことじゃない」
「わかった」
「そうでない限り……」
「いや、言わなくていい」
ティアが遮ると、アルテンシアは「そう」と、満足した様子で椅子の背に身体を戻した。ワインを手に取る。
「あなたからも言いたいことがあれば、どうぞ」
ティアは考える。
「アルテンシア、お前の望みはなんだ?」
ティアの質問に、アルテンシアは一瞬、きょとんとした顔を作った。「そうねぇ」と、ワインをあおる。口に含んでゆっくりと飲み干し、ふ、と笑みを漏らす。
「家の繁栄のために、というのはあるわねぇ、もちろん。でも、それだけではないわねぇ」
ティアは何も言わずに待つ。
「かつての……己の愚かさが許せないのかしらねぇ」
「失敗はペシミシュタークのお家芸と聞いたが」
「他人の目にはそう映るのでしょうね。でも、失敗することが許せないから、そうならないようにするのよ。特に私は」
「そうか」と、ティアはちいさくうなずいた。