10 聖乙女の憂鬱Ⅳ
『──それがお前の限界だ』
団長室でジルドレッドから言われたとき、ファン・ミリアは言い返すことができなかった。
もっともだとさえ思った。
すぐ家に帰れと言われていたファン・ミリアだったが、気がつくと図書館の前に立っていた。重厚な石造りの建物で、聖騎士団本部からも遠くない。
前回は、とファン・ミリアは考え、思い出した。
ファン・ミリアが信奉する神、シィン・ラ・ディケーについてだった。シィン・ラ・ディケーに姉神がおり、それがイスラである、と。
その関係を調べに来たのだ。
それから随分と時が経ってしまった気がする。
とはいえ、いまは神についてを調べる気分ではなかった。
だが、館内の静謐さとここちよさに惹かれて、ファン・ミリアはつい館内に足を踏み入れていた。
本のにおいに包まれ、あてもなくゆっくりと館内を歩く。
こうして何を考えるでもなくぼんやりとしている時、シフルで見たティアの姿がまざまざと蘇ってくる。
シフルにて、領民の赤子を抱くティアに王の姿を見た。
そのときの感動は、衝撃となってファン・ミリアの魂をさえ震わせた。
──ティアが、私の思う通りにまことの王の才を持つ者であれば……。
タオがシフルで命を失くしたとき、ファン・ミリアが感じたこと。
『この国はとてつもなく大きなものを、絶対に失ってはならないものを失ってしまった』
ファン・ミリアの直観が正しければ、東ムラビア王国が失ったのは、次代の王ということになるのではないか。
しかし、この国の玉座はムラビア家によって占められている。であれば、ティアが自らの国を指向するのはごく自然なことなのか。さらに考えると、タオを殺したのがムラビア家のウラスロであることにも意味があるように思えてくる。
「お久しぶりですな」
おだやかな声に、ファン・ミリアは振り返った。
腰の折れた老人が立っている。館長のリージュである。
ちらりとファン・ミリアは周囲を見回す。
奇しくも、前回話しかけれた場所と同じだった。
「お悩みがありそうですな」
ほがらかな笑顔のリージュに言われ、ファン・ミリアは苦笑した。
「そう見えますか?」
多少は、とリージュは本棚を見上げる。神に関する本が集められた書架である。
「いえ、神についてではなく」
ファン・ミリアが言うと、リージュはちいさく首を傾げたようだった。
「王とは、何によって王とされるのか、と」
「神の次は王でお悩みとは、さすがは聖女であらせられる」
何かを言いかけたファン・ミリアを制し、「皮肉ではありません」とリージュは笑う。
「常人は王について思い悩みません」
言い、リージュは「王ですか」と考え込む。
「王は神より与えられた権能であり、すなわち神の代理人とされます」
ファン・ミリアはうなずく。
「それが個人であるのか、血筋であるのか、個人であれば建国者ということになりますが、たいていはその建国者に連なる者、その血を受け継ぐ者が次の王となる。我が国に限らず、これが通底ですな。そうでなければ、王が崩御する度に内乱が起こりかねない」
ファン・ミリアはまたうなずき、言った。
「ムラビア王家も、建国者がバアルパードを信奉していた」
「それによって、ムラビア家の者たちは王であることの正当性を唱えることができる。同時に、ムラビア王家はその信奉する神──バアルパードを国の主神と定め、教えることになりますな」
「神と王、どちらにとっても利がある……」
「つまり神と王との契約ですな」
「どの国でも同じなのですか?」
「ほとんどは。例外もありますが」
「というと?」
「メルキゼデク」
西の内海に浮かぶ島国である。
謎の多い国であり、現存する王朝ではもっとも歴史のある国とされている。永世中立を謳っており、現在は女王が統治しているという。
「彼の国では政教が完全に分離しておりますな。とはいえ、そういった要素がまったくないわけではなく、魔法の管理者たる者が国の長になるとか」
「はい、私も聞いたことがありますが、いまいちよくわからない」
「秘儀とされるものがあるようですからな。もともと閉じた国ゆえ、伝わってくる情報も定かではないのでしょう」
ファン・ミリアはすこし考え、
「では、神との契約なく、国を興すことは不可能ではない?」
「はい。国によってはその途中から特定の神を定め、信奉する、ということもありました。統治という観点では、奉じる神を定めることによって民をまとめやすい」
「しかし、数としては──」
「はい、建国者はいずれかの神を信奉することが多かった」
「加護のためですね」
「おっしゃる通り。ファン・ミリア様もご同様でしょう。神への信奉によって人は奇跡を得る。その代表が魔法です。古い国が潰え、新たな国が興る過渡期において、それら神から授かった力が大いに役に立つ」
「戦乱ですね」
ファン・ミリアの言葉に、リージュは無言で首肯する。
「では──」とファン・ミリア。「神の加護を得た別の王が現れ、新たな国をつくった場合、それまでの古き国はどうなるのでしょうか?」
「さて、すべて新たな王次第、ということになりましょうが。神と神という意味では、駆逐されるでしょうな。駆逐、という言い方が正しいかはわかりませんが」
「駆逐、ですか」
「新たな王は当然、その奇跡を与えた神を国の宗教の中心に据えるでしょう。古い王と新たな王の信奉する神が同じであればこの限りではありませんが」
「つまり、神の代理戦争が起こっている」
「言い得て妙ですな。しかし、神と神とが争う、というのは神話ではよくありますが、私にはよくわからない。あくまで人、という気もいたします。神の関係をも人が決め得るならば」
難しい話になってきた、とファン・ミリアは眉根を寄せる。以前、ファン・ミリアはリージュに対して『神は人に先立つ』と言った。リージュの前提──すべては人が決める、という考えはその逆である。
その表情を見て取ったリージュがファン・ミリアに笑いかける。
「ファン・ミリア様の疑問ですが、一般的には王は神との契約、その加護によって自身の正統性を補完する。しかし、別の例もある以上、必ずしもそうではない」
「では、王は何によって王とされるのか」
「それを口にするのは私にはためらいがあります」
たしかに、とファン・ミリアも気づいてうなずく。
現状、東ムラビアにおいてはバアルパードが王家に正統性を与えている。これに異議を唱えるのは国の体制に異議を唱えることに等しい。
──人。
つまりそういうことになるのだろうか。
しかし現実には神の加護を得て王として起つ者もいる。
その時、ふとファン・ミリアの頭に疑問がよぎった。
──神が加護を授ける人間を間違えることはないのだろうか……?