5 サスとシィルⅠ
王都ゲーケルン。貧民街。
日増しに強くなっていく陽ざしが、とある集合住宅の一室にも濃い影をつくっている。
サス(サーシバル)は羊皮紙を読み終えると、火をつけて燃やした。埃と肉の焦げる匂いがした。
カホカからの手紙だった。カホカが王都を発つ前、お互いの近況がわかるよう、手紙を送り合うことを決めたのだ。情報を守るため、特別なルートを使う。
シフルでティアと落ち合い、再びペシミシュタークを目指すという。ティアがアルテンシアと会うために。またシフルの民とバディスたちは山村に向かう。
読みながら、大がかりになってきたな、とサスが思っていると、手紙の最後に、
──ティアが国を創る。
という一文があった。その淡泊さが、かえって真実味を帯びていた。
さすがのサスも驚いたが、無茶ではあっても無理とは思わなった。むしろ、ティアが本気なら力になりたいとさえ思えた。
ティアは吸血鬼だ。
だが、伝承や物語に出てくるような、単純な化け物としての吸血鬼ではない。
もっと特異な存在であり、この世界で、何事かを成すために現れた者だという気がする。
──恩を返すのに不足はない。
とも思うし、そもそも、自分が鷲のギルド員で、その壊滅の憂き目から生き延びた、ということにも意味があるように思えてならなかった。
──その証拠に。
サスはちらりと寝台の方を見やる。
今、サスのいる入り口側の日陰とは対照的に、寝台には明るいひだまりができている。
立ち上がり、ゆっくりと寝台の前に立つ。
輝く白金の髪と長い耳。草色の服からすらりと伸びた足。
エルフのシィルがうつぶせに転がって、熱心に本を読んでいる。
──こんな奴が俺に関わってきやがる。
これでもエルフの皇女らしい。
ちゃんと隣に部屋を用意してやったのに、なぜかサスの部屋にきては寝台で本を読むのだ。
サスは無言でシィルが読んでいる本を取り上げた。シィルは取り上げられるままに、上目で本の行方を追う。
題名は『俺だけの聖剣(上)』。
はっきり言って嫌な予感しかしない。
試しにサスが開かれている頁を読んでみると、
『伍長、こんなところにいきなり呼び出してどうしたんですか?』
中略
『このクソッタレな戦場では誰もが平等にクソッタレだ。脱げよ、お前も豚みてぇにピィピィ鳴かしてやるぜ。おっと、こいつぁ……いいモノもってんじゃねぇか、へへ、何も驚きゃしねぇよ。なぁ』
「……」
本を持つサスの手がぷるぷると震えはじめる。
このエルフの言葉の汚さはこういう本を読んでいるかららしい。
サスが読み進めていくと、
『待てよ、お前ら。ふたりだけで楽しそうだな』
『『あなたはエクスカリバー軍曹!!』』
「……」
サスは無言で本を閉じると、無防備なシィルの尻めがけて思い切り叩きつけた。本は、ばいーん、と弾かれて床に落ちる。
「ちょっと、いきなり何するんですの!」
馬鹿エルフが抗議の声を上げてくる。
「いくら低知能のサスとはいえ横暴が過ぎますわ! 家庭内暴力ですわ!」
「家庭じゃねぇ! 人の部屋でいかがわしいもん読みやがって! 俺の寝台が腐るだろうが!」
「いかがしいものではありませんわ! 教養小説です!」
「ああん?」
「新米軍人の主人公が、上官たちに気に入られて出世していく話ですわ! 人の社会を学ぶのにこれ以上の適した本はありません!」
「掘られまくってるだけだろうが!」
「憐れなサス。おお、憐れなサスよ」
シィルは尻をさすりながら起き上がってくる。
「あなたのような尻の穴のちっちゃいドチンピラは、一度入隊でもして上官から気に入られればいいのですわ。謙虚さという名の尻の穴を拡張してもらえばいいのですわ」
「……お前、確実にナニされてんのかわかってんだろ」
「いいえ、教育的指導ですわ。まったく──」
言いながら、シィルは本を拾う。
「このような名著で私の尻を叩くなど、常軌を逸しておりますわ」
「俗本だろうがよ、どう考えても」
サスが吐き捨てると、ずずい、とシィルが表紙を向けてくる。
「探しておりますわ」
「ああ?」
「この本の下巻を探しておりますが、稀覯本らしくなかなか手に入らないのです。サスにこの本の下巻を探すことを許可します」
「誰が探すか。おおかた誰も読まねぇから続きが出てないだけだろ」
「このような名著が完結していないはずがありません」
「んじゃ、まだ出てねぇだけだな。死ぬまで待ってろ。尻の穴でも広げながらよ」
手をひらつかせながら、サスがシィルに背を向ける。
すると、う、とサスが立ち止まった。
いつの間にかドアが開いており、その隙間からディータが覗き込んでいる。
「……兄貴、エルフといったいナニを」
ごくり、と禿頭の大男──ディータ(ディードリッヒ)が唾を呑む。
「馬鹿、勘違いすんな。何もありゃしねーよ」
サスは言い、ディータを待たず、すぐに言葉を重ねる。
「で、どうかしたのか?」
ドアを開けると、「あ、そうだそうだ」と、中腰だったディータがすくりと立ち上がった。サスも長身だが、ディータは頭一つぶん高い。
わかった、とサスは肩越しに部屋を振り返った。すでにシィルは寝台に寝転がって本を読みはじめている。なにが面白いのかは知らないが、気に入っているのは本当らしい。
「お気になさらず、私は気にしません」
サスの視線に気づいたらしく、言ってくる。
──こんな馬鹿エルフだが、巻き込むわけにはいかねぇ。
なし崩し的に一緒にいるが、本来、シィルはサスの住む世界の住人ではない。鷲のギルドは義賊と言われてはいるが、暗殺ギルドであることに変わりはない。
「中庭だ」
サスは小声で告げ、部屋を出た。その背後をディータがついてくる。
ふたりで階段を下りる途中、
「しかし、エルフってのはキレイなもんだな」
ディータがそんなことを言ってくる。
「否定はしねぇよ」
サスはつまらなそうに返事をした。
実際、シィルの見てくれは悪くない。悪くないどころか、美人なのだろう。特に都の生活に慣れ切った者から見れば幻想的にすら映るかもしれない。
残念すぎる中身を知らない者から見れば、だが。
すでにディータにはシィルとの出会いの経緯は伝えてある(エルフの皇女であることは隠しているが)。エルフと関わったことをサス本人はらしくない行動だったと悔いているが、ディータから見れば、
「さすがサスの兄貴だ。エルフを恋人にしちまうなんて」
ということになってしまうらしい。
違う、ぜんぜん違う。とんでもねぇ誤解だやめろやめてくれ、と何度も否定したサスだったが、もともと『女っ気のない硬派な独り者』で通っていたこともあり、ディータは照れているのだろうと思い込んで変えようとしない。
ギシギシと階段の踏み板が音を立てる。
「そのうちいなくなるだろうよ」
その音にまぎらせて、サスは言った。本音だった。
最近、シィルは友人ができたらしい。詳しくは言わないし、サスも聞かないが、夜ともなればその友人のもとへ酒を飲みにいっているらしく、朝方に帰ってくることもあった。王都の夜は物騒なことになっているが、シィルは愛弓をちゃんと担いで出て行く。多少酔っていようと、シィルの弓の腕前があればなんとでもなるだろう。
一階の裏戸を抜け、ふたりは中庭に出た。