4 シフルⅧ
シフル近郊。
庭の見事なトネリコが、夜風を受けてさざ波にも似た葉音を立てた。
ドビ爺の家である。
窓には暗幕が二重に張られ、部屋は完全な暗闇を作っている。
棺桶の内側からふたを押し開けて、ティアは伸びをした。ぽりぽりと首筋を掻いていると、何もしていなのに部屋の明かりが灯った。
「すごく便利な能力ですね」
若い男の声──棺桶のすぐ側に立っていたバディスが感心した様子で言った。暗闇のなかで、ティアが起きるまでずっと立っていたらしい。
「うん」
と、ティアは両目をこすった。部屋の明かりが勝手に付くのは、レミの能力である。基本的に透明化しているため、いまどこにいるかはわからないが、ティアが起きるのを見計らって明かりをつけてくれたのだろう。
あくびをすると「まだ眠そうですね」とバディスから言われた。
「そうなんだよな」
あまり寝た気がしない。血は足りているから、それほど眠りを必要としないはずだった。自分の身体が自分でもいまいち分からない。
ドビ爺の申し出により、家を自由に使わせてもらっている。
ティアは覚めない頭のまま棺桶から起き出すと、食堂の椅子に座った。すると、バディスが食卓から離れた壁際に立つ。
「なんで座らないんだ?」
訊くと「いいんですか?」と逆に訊き返された。
「いいに決まってる」
「じゃ、失礼します」
言いながら、バディスが対面に座る。四人掛けのため隣にも座れるのだが、『そっちか』とティアが思っていると、すぐにバディスが立ち上がった。なんだろうとティアが眺めていると、バディスはまた元の壁際に戻ってしまった。
「何が起こってるんだ?」
ティアがあらためて訊くと、バディスは「ダメでした」と力なく頭を振った。
「本当に落ち着かないんです」
どうやら遠慮をしているわけではなさそうなので、ティアは「わかった」とだけ答えておく。
しばらくバディスを眺めていたが、バディスは焦点のあわない目をしてその場にたたずんでいる。ティアの解釈するところ、これは『待機』である。
こうしてティアを護っていてくれているのだろう。近すぎず、遠すぎず。棺桶のなかでティアが寝ているときもずっと。
──なんだか申し訳ないことをした。
心の中で思う。
先ほども、ティアが知る本来のバディスなら、嬉々としてティアの隣に座りそうなものである。それが眷属になることによって、ティアとの間に絶対的な上下関係ができてしまった。
しかし、それを直接バディスに詫びるわけにはいかない。
詫びてしまえば、バディスに立つ瀬がない。
思いながらティアがちらちらとバディスを盗み見ていると、
「どうかしましたか?」
逆にバディスから訊ねられてしまった。
「いや、なにも……」
視線をそらし、またしばらくしてからこっそりバディスを見ると、バディスは待機状態を維持している。
「バディ──」
と呼びかけたところで、突然、ばぁん! とドアが開いた。
「あー、腹減った」
カホカがホゴイとともに家に入ってくる。
「お、やっと起きたな吸血鬼!」
カホカはティアの隣の椅子に胡坐をかく。
──カホカはなにも気にしないんだな。
個人の性格なのか、ティアが飲んだ血の量の問題なのか。
思っていると、ホゴイが重い足取りで居間の長椅子に腰をおろした。
「疲れたか?」
ティアが訊くと、ホゴイは深くうなずいた。
「みんなへばってる。終わったとたんに倒れて起き上がれねぇ奴もいた。夏でよかったぜ」
よほどカホカの訓練が堪えたらしい。
カホカとホゴイは偶然、レム島で知り合っていたらしい。
その後、カホカはバディス、ルクレツィアを伴ってオボロ港へ、それからペシミシュタークを回ってシフルに着いた。一方のホゴイをはじめとする元囚人たちはレム島で話し合い、皆でティアのもとへ行く、ということになった。
ほとんど同じタイミングでシフルに到着したらしい。
そこへティアも合流し、ファン・ミリアの前で国を創ると宣言をした……。
ティアの仲間たちにとっても寝耳に水だったはずだが、特に驚きはなく、ホゴイたち元囚人たちは「そうこなくっちゃな」という感じだし、バディスは「了解です」という感じだった。よほど肝が太い連中なのか、何も考えていないのか。
唯一、カホカだけはきょとんとした様子だったが、むしろ、
「ファン・ミリアとの旅を話せ」
と、興味の対象は別にあるらしく、あれこれと聞き出そうとしてきたので、
「私が振られたんだ」
と、ティアは億劫になってそれだけ伝えた。はじめは不満そうなカホカだったが、なにを訊かれてもティアが「振られた」の一点張りでいると、そのうち機嫌がよくなった。よくわからない。
そのカホカだが、ホゴイたちに対してかなり打ち解けているようで、今後を考えて訓練を頼んでみたところ、「いいよ」とあっさり返ってきた。
そして今日、実際に訓練をさせてみたのだ。
カホカいわく、
「根本的に基礎体力がない」
ということらしかった。
「自分を基準に考えるなよ」
念ためにティアが言うと、カホカは「わかってるってば」と面倒そうに言ったあと、「でも」と楽しそうに続けた。
「やる気と根性があるのは認める。誰も脱落しなかったからね」
「そうか」
「アイツらは強くなると思う。アタシやティアが思うよりも」
自分が褒められた気分でティアはうなずき、
「食事は?」
振り返ってホゴイに訊いてみると、ほかの皆は野営のため狩りをするらしい。
ホゴイは精神的に成熟しており、前職が守備兵長だったこともあって、すでに元囚人たちのまとめ役になっている。
「ホゴイの分は私が作ってやろう」
ティアが立ち上がると、ホゴイが目を丸くした。
「いいのか? つーか、ティアは料理ができるのか?」
「料理というほどでもないが」
「アタシのもお願いー」
話を遮ってカホカが手を上げるのを、ティアは「わかった」と調理場に立つ。すると、竈の火が勝手についた。レミだろう。どこまでも便利だ。
「修行中は当番制だったが」
カホカの当番のときもよくやらされたものだった。
ホゴイとバディスがしげしげと厨房をのぞき込んでくるのを、
「味見もできないから期待はしないでくれ」
髪を結びながらティアは苦笑する。
肉を焼いて、卵を炒る。かたいライ麦パンに切れ目を入れ、野菜、卵、肉を挟み、上から肉汁とまざったタレをかける。パンが水気をふくんで食べやすくなる。
特に添え物もなく、できあがったふたり分のパンを大皿に乗せ、木杯に葡萄酒を注いだ。
「男料理だな」
言いながらホゴイが一口食べる。
「うまいか? うまいと言え」
ティアが要求すると「うまい」と返ってきた。ティアはほっとした。
「そうか、うまいか。もっと作ってやろう」
「いや、そんなにたくさんは──」
「遠慮するな。男だろう」
自分が食べることができない分、自分の料理を誰かが食べてくれるのが、なんとなく嬉しかった。
ティアはいそいそともう一皿作りはじめる。すると、
「んで、行くの?」
食卓のほうからカホカに訊かれた。
何についてかは、すぐにわかった。
「……ペシミシュタークか」
ティアは料理をしながらつぶやく。
まさかティアが旅をしている間、カホカたちがペシミシュタークと関わっていたとは思ってもみなかった。
「旅をしているとき、当主のアルテンシアは見かけたな」
「アルテンシアは当主じゃないよ」
「そうだったか」
「当主は父親のクドゥン。アルテンシアは一人娘の公女。まぁ、実質、家を回してるのはアルテンシアなんだろうけど。親父のほうは大したことないらしいし」
さすがに社交界に関してはカホカが詳しい。
「んで──ティアはどこで会ったの?」
「山賊を退治しているところを見かけたんだ。知恵者だな。自分を囮にして罠をしかけていた」
時間的には、カホカよりもティアのほうが早くアルテンシアに会っていたらしい。カホカたちにはそのことは言わなかったそうだ。
「カホカはアルテンシアをどう見た?」
「賢いんじゃない? アタシが会ったときは好意的だったとは思う。もともと接触してきたのはむこうだし。訳ありなんだろうね」
「どんな訳だと思う」
ティアが訊くと、カホカは肩をすくめた。
「アタシより、ティアから見てどうなのさ。そっちのが重要でしょ」
「……そうだな」
ティアは考える。
「苦しんでいるように見えた」
「どういう意味よ?」
「色々なものを抱えている、ということかもな。公女なら当然かもしれないが」
正直なところ、ペシミシュタークと関係ができるのはありがたい。
シフルは国の庇護は望めない。
いってみれば周りは敵ばかりの状況なのだ。ペシミシュタークに庇護を頼むことができれば渡りに船だろう。
しかし、それではダメだ、という直観がティアにはある。
「器、か」
ぽつりと独り言ちる。レム島で、そんな話をヘインズとした。
援助を当てにして行ったところで、失望を誘って門前払いされるのが関の山だろう。カホカたちがあちらに貸しを作ってくれたようだが、そんなものは相手の気分次第でどうにでもなる。たとえ多少の施しを受けたとして、根本的な問題が解決されるわけではない。
ペシミシュタークが──アルテンシアがこちらにとって本当に必要な存在であるなら、大切なのはティア自身の在り方だ。そして、自分が彼女の目にどう映るかだ。
国を創る。
それが到底かなわぬ願いか、それとも成し遂げられる力があるのか、早くも試さている気がした。
「会いにいってみるか」
ティアがおかわりの大皿を食卓に置きながら言うと、カホカがうなずいた。
「決まりだね。んじゃ、セリーズに使いを出そう」
「セリーズ?」
「ペシミシュタークに行くなら迎えをよこすってウィノナから言われてんの」
「しばらく会わないうちに顔が広くなったな」
「ぜんぶペシミシュターク関係だけどね」
「んで、誰が行くんだ? ティアだけか?」
ホゴイが訊ねてくる。
「アタシも行くよ」
カホカの申し出に、「いや」とティアが首を横にふった。「カホカはみんなをレミの村に連れて行ってほしい。ホゴイたちの訓練を続けてほしいしな」
レミの住んでいた山村であれば、ある程度まとまった人数が生活していくことも可能だろう。
村を狙っていた霧の化け物はすでにティアたちが退治しているが、噂がまだ生きていれば人が近づかないという期待もできる。もし近づく者がいてもバディスに脅してもらえば時間稼ぎにはなる。
ということでカホカにお願いしたところ、料理を取ろうとしていたカホカの手がぴたりと止まった。ティアを見上げ、にっこりと笑顔を作る。
「い や だ」
瞬間、すさまじい殺気を感じ、ティアはごくりと唾を呑みこんだ。ホゴイもただならぬカホカの雰囲気を感じ取ったのだろう。顔をひきつらせている。
「わ、わかった。カホカもペシミシュタークだ」
「ういうい」
何事もなかったようにカホカは料理を食べはじめる。
──なんだったんだ、いまのは。
ティアが恐れ戦いてホゴイを見ると、ホゴイも『わからない』と全力で手を振っている。
「しかし──」
ティアは悩んだ。
カホカにホゴイたちの訓練を頼めない場合、他に腕の立つ者がいなくなってしまう。とりあえずバディスも行かせるが、それはどちらかというシフルの民を護ってほしいからだ。首無し騎士として戦う能力はあっても人間としての戦闘技術を習得しているわけではないだろう。もともとバディスの古巣である鷲のギルドでの役割は、情報収集や伝達が主だったと聞いている。
「師匠に頼みたいところだが」
以前に鷲のギルドの一部を送ってしまっている上、さらにその前にはカホカの弟分であるシダも送っている。これ以上、人をやると「面倒みきれるか」と愛想を尽かされてしまいそうで怖い。
カホカをちらりと見たが、黙々と料理を食べている。もうこの件について関わるつもりはないらしい。
「仕方ないか」
ティアはあきらめ、
「悪いがホゴイがみんなを鍛えておいてくれ」
「俺でいいのか?」
「とりあえず、馬術や剣術の基礎を徹底的に。私も考えておく」
「わかった」
「……ペシミシュタークか」
もう一度つぶやき、窓から夜空を見上げる。
次の目的地は決まった。
ティアは以前に見た、川の向こう岸からこちらを見つめるアルテンシアの姿を思い出していた。