1 コードウェル蠢動(上)
海と、月と、城と。
ネブ海峡を形作る断崖絶壁の突き出た岬に、明かりを灯した幾十もの尖塔がそびえている。
夜天を刺すかのごときその威容に、しかし目敏き者は気づくだろう。
東端の城から岬をくだるにつれて広がる王都の、その明かりのすくなさに。
東ムラビア王国、王都ゲーケルン。
王城ウル・エピテスの威容に対して、家々は夜に圧されたように暗い。
脅え、うずくまるように。
実際のところ人々は脅えているのだ。
いまや怪異は怪異と呼べぬほどに巷間かまびすしい。
蛇──それは人が蛇の面をかぶったようにも見えたが、そうではないらしい。蛇は本物としか思えぬほどに動き、それに引っ張られるように人も動く。
助かった者もいたが、殺される者もいた。幸い足は速くないらしい。大人の足であれば逃げ切れる。が、運悪く捕まれば殺される。
その生々しさと目撃者の多さに、人々は夜ともなれば家々にこもり、出歩く者はごくわずか。余程の事情のある者か、命知らずの猛者か、はたまた狂者か。
多くの者たちは夜に脅え、遠ざけたいがゆえに夜を強く意識するようになった。
──夜が近くなった、と誰かが言った。
◇
白波がくだけ、光のなかでしぶきが舞った。
王城ウル・エピテス。昼。
開け放たれた東の窓に、蒼い海と空とが切り取られている。風のなかに、夏の気配が強い。
ウラスロ=ディル=ムラビアの頭は澄み渡っていた。
以前は霧が立ったように思考が重く。いや、重いどころか何を考えていたのかさえ、記憶が定かではなかった。そのときの行状はどうだったかと近臣に訊ねてみても、いつも通りだった、という回答しか得られなかった。
──しかし、とウラスロは窓台に手をのせた。
眠っている夢のなかで、あるいは、執務中のふとしたときに、突然、人々の顔が浮かぶことがあった。恐怖。怒り。絶望。血に濡れ、炎に焼けた人の顔。それらがまなじりを裂いてウラスロを見つめている……。
「あれは──」
なんだったのだろうか。自分は地獄を垣間見たのか。
気がかりは他にもあった。
自分の近臣のうち、ひとりについての記憶がすっぽりと抜け落ちている。
いた、というのはわかるのだ。長身で、男で、後ろ姿のシルエットだけは頭に浮かぶ。どうやら執事らしいが、それが何者で、どんな名前かもわからない。
その者のことも訊いてみるのだが、やはり知らないという。
すべてが霧のなかで生まれ、霧のなかに消えていってしまったのか。
そもそも──霧とはなんだったのか。
失われた記憶のなかで、自分は何をしていたのか。
「──ウラスロ殿下、会議の準備が整いました」
思い出そうとしていると、名前を呼ばれた。
振り返ると、室の入口に小太りの男が立っている。
「ヒースノックか。わかった」
この男も近臣のひとりで、主にウラスロの使者としての役割をこなしている。ウラスロの記憶が失われた期間の、そのすこし前から侍るようになった者だった。
「香が消えております」
気づいたヒースノックが下女に指示を出す。
本来の役ではないのに関わらず、ヒースノックは何くれとなくウラスロの世話を焼こうとする。いささか暑苦しさを感じるが、見た目に反して気が利くのも事実なので、好きにさせていた。
「それでは殿下、私は一足先に伝えて参ります」
ヒースノックは服の袖で汗をぬぐいながら室を出ていく。
「気忙しい男だ」
苦笑してウラスロも室を出る。会議が行われる本城に足を向けると、待機していた特務部隊が足音も立てずについてくる。
これも、ウラスロには身に覚えのない変化だった。
もともと、ウラスロの身を守るのは親衛隊の役目だった。気がつけばその役が特務部隊に変わっていたのだ。親衛隊と特務部隊では管轄する部署がちがう。親衛隊は王直轄であり、その一部が王子護衛の任を受け持つが、特務部隊は軍に属している。その隊長の名はユリウス=アービシュラル。アービシュラルの現当主ネオンの息子である。
ウラスロは背後の特務部隊をちらりと見やった。隊長も副長も不在らしい。もっとも、ふたりがウラスロの前に顔を出すことは滅多にないことではあった。
特務部隊を一言でいえば不気味に尽きる。隊員たちには表情がなく、一切の無駄口も叩かない。護られているウラスロでさえそう思うのだから、傍からみれば幽鬼かなにかに見えるかもしれない。
そのため先日、宰相のコードウェルに遠回しに親衛隊を戻すよう依頼したが、認められなかった。これは王であるデナトリウスの命令だという。同時に、特務部隊は特殊な訓練を積ませているため、通常の兵とはちがうのだと諭されたのだった。そのかわり、まちがいなく腕は立つ者たちだから、と。そこまで言われてしまえばウラスロに返す言葉はない。
回廊を曲がると、視線の先に本城の荘厳な扉が見える。
この本城がウル・エピテスの最奥であり、国政の中枢である。上層階が王の私的空間であり、下層階が謁見の間をはじめとした王の執政空間である。宰相府も本城の内にある。
宰相府はいわゆる上級貴族の合議制によって運営されており、その意見のとりまとめ役が宰相ということになる。ウラスロは王族であり、東ムラビア王国において貴族とは別にされている──つまり宰相府の構成員ではないのだが、ウラスロ自身の希望で臨時的に参加している。父王デナトリウスが病に臥せっているため、本来はその代理として上奏を受ける側の立場ではあるものの、できる限りその経緯を把握しておきたいという考えからだった。よく理解していないものを裁可したくなかった。
空白の時間の後で、城内の雰囲気が大きく変わった気がする。
いま、こうして歩きながらもすれ違う人の数は減り、またその表情も暗い。活気がないのだ。それ以前も徐々に活気が失われている実感はあったものの、これほど急速ではなかった。
──国が傾いているのではないか?
ふと浮かんだ疑念に、ウラスロは足を止めた。昼下がりの強い日ざしに、風は熱気をはらんでいる。にもかかわらず、ウラスロの背に冷たいものが走った。
◇
宰相府会議は通常、本城の二階、円卓の間で行われる。
天井は高く、一面がガラス張りになっており、薄いレース越しに光が降り注いでいる。
会議中、宰相ナジーム=コードウェルは伏し目のまま、右隣に座るウラスロを盗み見た。
輝く金髪に、すずしげな碧い瞳を資料に向ける次代の王に、ナジームは口元をほころばせた。するとそれに気づいたウラスロが目を上げ、すぐに視線を落とす。
「余の顔になにかついているか?」
小声で訊かれ、ナジームは「はい」とうなずく。
「正義が殿下のご尊顔に」
「つまらぬ世辞はよせ」
「最近はお顔の色もよろしゅうございますな」
満足する様子のナジームに、ウラスロはちいさく鼻を鳴らした。
「宰相ほどではない」
「じき六十になる爺におっしゃるとは」
「欲は人を若く見せるらしいな」
資料に目を落としたまま、ウラスロが皮肉の笑みをこぼす。
「光栄にございます」
含み笑いするナジームに、「褒めてはおらぬ」とウラスロは返す。
軽口を叩くほどに慣れた関係である。
ウラスロが物覚えのつくころからナジームは宰相だった、前の宰相は父親のラシード=コードウェル。先々代のヴァシリウス王の御代、ラシードはヴァシリウス王の妾腹の子、ミドスラトスを援けて謀反を起こし、その功労によって宰相の地位を得た人物である。
それまでのコードウェル男爵家は下級貴族に過ぎず、政に参与できるほどの力はなかった。それでも当時、男爵の地位を与えられていたのは、王族の虚領(支配権は持つが領主が直接治めていない土地)を任せられていたためだった。王族とのつながりが家運をひらくきっかけとなったのである。
そのラシードの子であり現コードウェル家当主のナジームも齢六十に近い。長く、コードウェルは二代にわたって宰相の地位を独占し続けてきた。
「では次──元帥」
言って、ナジームはウラスロを挟んで逆側にすわる者──胸に元帥の記章をつけ、口ひげを整えた男に視線を向けた。
男の名はネオン=アービシュラル。アービシュラル公爵家の現当主である。
コードウェル家のナジームがアービシュラル家のネオンに話しかける。それだけで室内の緊張が一気に高まったようだった。
「王城襲撃事件におけるティアーナ=フィール一党と鷲のギルドなる者たちの調査はいかがでしょうか」
「鷲のギルドに関しては芳しくはないね。ギルド員たちはこの王都内にうまく隠れているようだ」
「治安部には負担をかけております」
王都の警護を司る治安部は軍に所属している。
ナジームの気遣いに、ネオンの表情も柔らかい。
「いやいや、成果を出せず不甲斐ないばかりだ。だが、ティアーナ=フィール一党に関しての情報は上げているはずだよ」
「これに関しては注意を払う必要があるため、私から──」と、ナジームはそこまで言って、ウラスロに目配せをする。「後ほど殿下にご相談申し上げたい」
「私もそれがいいと思う」
ネオンも口ひげに触れながら同意する。
「余に?」
一方のウラスロは怪訝な表情を浮かべている。ナジームはウラスロにうなずきかけ、それから宰相府の面々を見回した。
「さて、今日の会議はここまでとしましょう。ああ、フーノック卿には残っていただくよう」
ナジームに声をかけられ、離れた場所に座る老人──フーノック卿と呼ばれた男は「わかりました」と、ごく平生の調子でうなずいた。その隣に座る男が席を立ちあがり、無言でフーノック卿の肩を軽く叩いた。しかし何も言わず、さっさと室を出ていく。
フーノックはその者を目で追うこともなく、ぽつねんと座ったまま、他の者たちが室を出ていくのを待った。