73 シフルⅦ(月とアメジストⅫ)
──ティアは、王となるべき素質を備えている。
王から民へと注がれる無限の愛情。その上で、たとえ愛する民であっても罪を犯した者には峻厳な態度でもってのぞむ。
外敵に対する尽きぬ闘争心。ひとたび干戈を交えれば勇をふるって味方を鼓舞し、相手を滅ぼすほどの激しさを見せる。
無論、戦をしない王であることが望ましい。けれど、それが許されない時代もあるのだ。
領民の赤子をわが子のように抱くティアに、王の姿を見た。
聖女の直観だったのかもしれない。
自分だけではない、とファン・ミリアは思う。
その場にいたシフルの人々も、何かを感じたにちがいない。無意識のうちに、ティアが自分たちの庇護者と感じ取った者もいるだろう。
だからこそ、彼らはティアの話を熱心に聞いた。
ティアはドビ爺の居間を借り、シフルの人々と対話することを望んだ。大人から子供まで、全員と。そうして自分が何者であるかを、包み隠さず伝えた。
最初に打ち明けたのは、ドビ爺だった。
「そうでしたか。まさかあなたが……」
言葉を失った様子で、ドビ爺はまぶたの裏を何度もこすった。それが落ち着くと、ドビ爺は居住まいを正して、言った。
「タオ様の……いえ、ティア様のご帰還をお喜び申し上げます」
向かい合って座るティアに、ドビ爺は深々と頭を下げた。
「疑わないのか、私を?」
かえってティアのほうが驚いて訊くと、「あっさりと信じるには私は歳を取りすぎておりますが……」とドビ爺は前置きして、ファン・ミリアをちらと見た。
「この場で、このような嘘を聖女殿と示し合わせてするとは思いません。何より、ティア様がどのような方かは、おぼろげながらもわかります。すくなくともティア様のシフルに対する深いご慈悲は、ティア様がシフルゆかりの者でなければ納得いくものではありません」
「そうか……」
ティアが安堵の息を吐く。肩の力が抜けるようだった。
「お聞きしますが、ティア様は、タオ様のご記憶もお持ちなのでしょうか」
「ああ、持っている」
「では昔、この家に来られたことも?」
「もちろん」
うなずいて、ティアは室内をぐるりと見回した。
「幼いころに父と、馬に乗れるようになってからは兄とも来たことがある。こっそり私ひとりで来たこともある。間取りは変わっていないようだが」
言いながら、ティアは棚の上を指さした。
「前に来たときはなかったように思う」
「はい、息子夫婦の物でした」
「すまない。余計なことを言ってしまった」
「いえいえ」とドビ爺はほがらかに笑う。
「女性になったからでしょうか。タオ様はずいぶんと柔らかくなられた」
「そうかな」
「おつらい経験をされたのでしょう。同時に、厳しさもお持ちになったように見受けられます。御父上のノルド様のように」
「兄弟姉妹のなかで、私が父上にもっとも似ていないと思っていたんだ、本当は」
「私はもっとも似ていらっしゃると思っておりました。そう思う者はすくなくないでしょう。──感謝いたします。神はシフルに最後の希望を残してくださった」
「……恨まないのか、私を?」
「恨みません。これまでのお話を聞くにつけ、恨むという発想さえ湧きません」
ドビ爺は頭を振り、言った。
「ただただ、よく生きておいでになられた、と思います」
「……そうか」
ティアが顔を伏せた。膝の上の手が拳を作る。
──たいしたものだ。
ふたりの会話を聞きながら、ファン・ミリアは思う。
これは、ティアだけに対する信頼ではないのだろう。これまでシフルを治めてきた代々の領主たちへの信頼なのだ。幾代も積み重ねた領主たちの行い。それに対する民の信頼が、時のふるいにかけられてもなお、残り続けている。
ティアが顔を上げた。
「私がすべきこと、私に望むことはあるか?」
訊かれ、ドビ爺は考え込む。
「私のような老いぼれがいまさら望むものなどありませんが……」
ぽつり、ぽつりとドビ爺が話しはじめた。
「これからを生きる者に、豊かなものを……子供が飢えることなく、その命が脅かされることもなく、よく遊び、よく学び、幸福に生きることができるように、と」
はっとして、ドビ爺は申し訳なさそうな顔を作る。
「勝手なことを申しました」
「いや、よくわかった」
ティアは深くうなずいた。
「約束しよう」
それからドビ爺とファン・ミリアが立ち合い、ティアはシフルの民ひとりひとりと対話をした。みな一様に驚きをあわらにしたが、最終的にはほぼ全員が話の内容には納得したようだった。半信半疑の者もいたが、ドビ爺とファン・ミリアがティアの話を保証するかたちとなったことも大きかった。対話する者に、タオでしか知りえない内容の質問をティアにするよう促したのもドビ爺である。
「すぐに信じられなければ、時間をかけて判断してくれればいい」
話の終わりに、ティアは必ずそう付け加えた。
◇
「サティに話がある。付き合ってくれないか」
全員との対話を終えた次の夜に、ファン・ミリアはティアから誘われた。
馬を一頭借りて、ティアが手綱をにぎった。ファン・ミリアはその後ろに座る。
雲のない、よく晴れた日の夜だった。
風は夏を予感させた。
月は高く、星々が天蓋を彩っている。
「よい夜だ」
ティアに言うでもなく、ファン・ミリアはひとりごちた。
馬は並足で進んでいる。
「どこにむかっている?」
ファン・ミリアが訊くと「シフルの街だ」とすぐに答えが返ってきた。
「迎えにいく」
誰を、とはティアは言わなかった。ファン・ミリアも尋ねなかった。かわりに、
「この旅も終わりなのだな」
「サティには感謝してもしきれない」
「いや」と、ファン・ミリアは馬上で頭を振った。
「私も礼を言わなければならない。この国の姿を見ることができた。ティアを知ることもできた」
「サティがいてくれて心強かったし、楽しかった」
「そうだな、楽しかった」
何を話せばいいか、ファン・ミリアにはわからなかった。すると、馬を操りながら、ティアが言った。
「恋というものを教えてもらった」
「それは、タオとしてか? ティアとしてか?」
ファン・ミリアが訊くと、一瞬の間があった。
「……すくなくとも、私は男だ」
「ああ」と、ファン・ミリアは笑う。「そうだったな」
いま、前のティアは仏頂面をしているだろう。
お互い無言で、馬の背に揺られた。
丘を越え、シフルの街が見えた。
ふたりの乗る馬は城門をくぐり、街へと入っていく。
ファン・ミリアは言った。
「私も恋をしている。だが、本音をいうと、それがタオなのか、ティアなのか、もしくは両方なのか、よくわからない」
「私はティアだ」
はっきりと、ティアが言った。
「……それでいい」
ファン・ミリアは、額をティアの背につけた。
「私はこの旅のことを何度も思い出すだろう」
そして、ファン・ミリアは目を閉じた。祈るように、言った。
「あまり無茶をしないでくれ……」
屋敷の前で馬が止まった。
ティアが先に、ファン・ミリアが続いて門をくぐる。すぐに、ファン・ミリアは足を止めた。ティアだけが前へとすすんでいく。この後ろ姿を覚えておこう、とファン・ミリアは思った。
かつて屋敷のあった場所。いまは多くのシフルの民が眠る場所。
石畳の通路の先に、人だかりができていた。カホカ、首なし騎士のバディス、そして、黒い服に身を包んだ集団は、ホゴイをはじめとするレム島の船で出遭った元囚人たちだった。
その人の群れのなかから、ひとりの女性が歩いてくる。背筋を伸ばし、腕を前に組んで歩く姿はファン・ミリアがよく知る人のそれだった。
「ご無事で何よりでした」
旅装姿のルクレツィアが笑顔を浮かべる。
「心配をかけた」
ファン・ミリアが言うと、「まったくだわ」とルクレツィアは肩をすくめた。そして、ファン・ミリアの背後につく。
ティアがこちらを見ていた。カホカたちもまた、ティアの背後からファン・ミリアと向かい合う。
「ここまでだな、サティ」
「ああ」
ファン・ミリアはうなずく。
ティアもわかっているのだろう。二度とこの距離が埋まることはないのだと。
お互いに、背負うものがある。
「イグナシウスを調べろ。ミドスラトスには弟がいた。彼が預けられた屋敷の裏庭に、トネリコの木がある」
「……わかった」
もう一度、ファン・ミリアはうなずいた。
「サティに──ファン・ミリアに言っておく」
ティアが声を大きくさせる。その瞳に鮮やかな赤が宿るのを、ファン・ミリアは見た。旅の途次、ファン・ミリアには向けられなかった瞳を。
「私はこの国を奪い、新たな国を創る」
宣言するように、ティアが言った。
「シフルに災いをもたらし、なお民を虐げ続けるムラビア家に、もう任せてはおけない」
「馬鹿げたことを──」
ファン・ミリアは一笑に付した。しかし内心では、ティアなら、という気もした。ティアに王の姿を見たのは、他ならぬファン・ミリア自身だ。
「これ以上、この国が荒れるのを私が許すと思うか? 聖騎士団の筆頭として吸血鬼の存在を捨て置くことは断じてできない」
ファン・ミリアの紫水晶の瞳に、闘志が宿った。
「次に会えば、お前を討つ。手加減はしない」
言い放ち、ファン・ミリアは踵を返した。
「行くぞ、ルクレツィア」
「……サティ、あなた」
ファン・ミリアを見て、ルクレツィアが息を吞むのがわかった。
──自分はいま、どんな顔をしているだろう。
思ったものの、ファン・ミリアは構わず歩き出した。
【第四章・完】
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