72 シフルⅥ(月とアメジストⅪ)
ティアは、倒れた元シフル兵の男のまぶたをそっと落とした。顔を撫でる。
近づいてくるファン・ミリアに、言った。
「私の民だ。葬ってやりたい」
「馬を引いてくる」
「──いや」
ティアは男を抱き起こした。
「私が背負う。そうしたいんだ」
「わかった」
ファン・ミリアに手伝われ、ティアは男を背負った。重かった。自分が背負うべき重さだと思った。
ドビ爺が、こちらを見ている。
「私が殺した。私はこの者を許すわけにはいかなかった。失われた者のために、私はそうする義務があると思ったからだ」
ティアが言うと、ドビ爺が「はい」とうなずいた。
「彼の死に際は、無様でも見苦しくもなかった。潔く、見事だった。だから、ドビ爺には彼を許してやってほしい。私のかわりに、許してやってくれ」
「仰るとおりにいたします」
ありがとう、とティアは礼を伝える。すると、
「参りましょう。家はもうすぐです」
道を、ドビ爺が再び歩きはじめた。そのかたわらで、彼の服の裾を握ったレミがついていく。ティアの命令を守っているのだ。
「レミ、もういい」
声をかけると、レミがぱたぱたと駆け寄ってくる。
「馬が残っている。まとめてつれてきてくれ」
ティアが頼むと、レミは後方の馬へと駆けていく。旅をしていてわかったことだが、レミは馬を操ることに長けている。操るといっても馬術ではなく、どちらかといえば羊飼いのような能力だった。音によって馬の移動を方向づけるのである。
ファン・ミリアもレミとともに馬をまとめはじめる。
再び歩き始めた一向だったが、ドビ爺の言葉通り、時間はかからなかった。
家は、森小屋とさして大差がない。
なだらかな草原の起伏が続くシフルでは、森が各所に散在し、そこには農具や狩りの道具を納めるための小屋が設けられている。いってみれば納屋だが、雨宿りにも使われる。
この家もまた別の森の入口に建てられているため、ドビ爺が改装したのかもしれない。
家のわきに一本の大樹がある。
ドビ爺の提案で、ティアが背負った男はその根元に埋めた。
「この木は……トネリコだな」
埋葬が終わり、ティアはその大樹を見上げて考える。
「……懐かしい木だ」
「思い出の木か」
ファン・ミリアに訊かれ、ティアは見上げたまま、言った。
「屋敷の裏庭に、トネリコがあった」
「シフルか?」
「いや、ちがう」ティアは頭をふった。「いいんだ……行こう」
戸口でドビ爺が待っている。家に入ってすぐが居間になっていた。
ひととおりの調度がそろっており、ティアとファン・ミリアは椅子に腰をおろした。レミは部屋の隅にぼうっと立っている。そこが落ち着くらしい。
ワインを勧められたが、ティアは断った。
「私とレミは普通の食事はしないんだ」
ティアが告げると、ドビ爺はただ「わかりました」とうなずき、言った。
「お三方は寛いでいてください。しばらく家をあけます」
「朝になると私は眠らなければならない」
ティアが言うと、ドビ爺は「それほどはかかりません」と請け合った。
「必ず戻ります。お待ちくだされ」
そう付け加えて、ドビ爺は出ていった。
夜の静寂に包まれて、時折、狼の鳴き声が聞こえた。森々の残るシフルでは、狼も出る。
ティアがとりとめのないことを考えていると、視線を感じた。
「体調はどうだ?」
ワインを飲みながら、ファン・ミリアが横目に訊いてくる。
「悪くない」
ティアは答え、そして気づいた。ファン・ミリアの表情が堅い。こちらの体調を気遣っているわけでもなさそうだ。心当たりは、あった。ティアは苦笑する。
「私が吸血鬼であることが怖くなったか?」
「怖いとは思わない。だが、聖騎士として見れば脅威だ」
ファン・ミリアの物言いは率直で、好ましかった。率直ゆえに本当のことを言っているのだろう。
だからティアも思っていることを伝えることができる。
「はじめて血を飲んだのは、カホカだった。でも、その時のことを実はよく覚えていない。私は血に酔い、一種の酩酊状態になったらしい。今回はその感覚がない。サティに言うのは憚れるが、人が食事をした状態なんだと思う」
「満腹になったわけか」
「強いて欲しいとは思わないが、満腹ではない。空腹でもないが」
「まだ力を血を飲むことができるのだな。そうすればより強くなる」
「そうだな。吸血鬼として──」
ティアは指先で上唇をめくった。牙をファン・ミリアに見せつける。
「吸血鬼として強くなりたければ、血を飲むのが手っ取り早い。はじめ、イスラからも血を飲め飲めと言われていた」
「だが、飲まなかった。すくなくとも、見境なく飲んではいないのだろう?」
ティアは目線で認めた。ファン・ミリアがワインを置き、見返してくる。
「なぜ、飲まなかった?」
「……なぜだろうな」
ティアは自問する。
「どんなふうにも答えることはできるが、結局、私が弱いからだと思う」
「ティアは自分が弱いと思っているようだが」
「弱いよ、私は。人の命を奪って自らの糧にする。その責任が怖かったんだ。吸血鬼である自分も、怖かった」
「私はそれをティアの優しさだと思っている」
「そう言ってくれるサティの優しさだな」
ファン・ミリアが微妙な表情を作った。
「だが、ティアは変わったんだな」
「変わらなければと思ったし、それはいまでもそう」言って、ティアはくすりと笑う。「人は性根を変えるのが難しいというが、吸血鬼も同じみたいだ」
「……ティアのいう強さとはなんだ?」
「『なにをもって強いとするか』──これもイスラの言葉だ。戦闘で強い、というのはひとつの強さだが、ではエクリやイグナスのようになりたいかと聞かれれば、私は違うと答えるだろう。彼らに負けたくはないが、負けない強さがあればいいとも思う」
ファン・ミリアが首肯するのを見て、ティアは続けた。
「私は以前よりも多くの血を力に変えることができる。できるようになっていた。それは私が多少なりとも変わったからだと思う。私がこうありたい、と思うこと。こうなれると信じること。その夢、その目標が正しければ、自ずとその力も見合ったものとなる。いまはそんな気がしている」
「その夢とはなんだ?」
その質問にティアは腰を上げ、ファン・ミリアの前に立った。座っているファン・ミリアの股ぐらに膝を置き、乗りかかるように見下ろした。
「サティには感謝している。そして、ファン・ミリア=プラーティカは聖騎士団筆頭であることを承知で言う。これは以前の私であれば言えなかった言葉だ」
ティアはまばたきもせず、ファン・ミリアを見下ろす。
「職を辞し、私のもとに来てほしい」
落ちかかる黒髪の下から、ファン・ミリアもまた、ティアを見上げる。
しばらく見つめ合った。
ティアがファン・ミリアの頬に触れようとすると、その手を取られた。
「……断ると言ったら?」
「どうもしない。サティの好きなようにするといい。私も、そうする」
「私が聖騎士団に残った場合、どうなるか考えているのか?」
「もちろん──」
ティアはファン・ミリアの手を握り直した、顔を近づける。
「サティの信じるままに」
唇が、触れ合った。
◇
ドアが叩かれ、ティアは立ち上がった。
ファン・ミリアから視線を移すと、レミは薄く目を開いたまま、部屋の隅でじっとしてる。警戒すべき者ではない、ということだった。
「どうぞ」
声をかけるとドアが開き、ドビ爺が立っていた。その背後に、雨宿りの森小屋を貸してくれた農民の男が控えている。
ティアはその姿に思い出した。
男はティアたちに先行していたはずだ。しかし、家に男はいなかった。──ではどこにいたのか?
その疑問を口にする前に、
「揃いました」
ドビ爺が半身にずらして言った。外へ、ということらしい。
促され、ティアが足を踏み出した。その瞬間、感じた。ドビ爺と男のむこう、すこし離れた森の入口に、多くの息遣いを感じる。その全員が息を押し殺すように……そう、固唾を呑んでこちらに向かって立っている。
ティアの心臓が大きく鼓を打つ。
ドビ爺と男が、立ち止まったティアを見つめている。
恐る恐る、ティアはもう一歩進む。緊張で、全身から汗が噴き出る心地がした。
──裁きを受けるときが来た。
元シフル兵のように。今度は自分の番なのだ。
彼は逃げなかった。自分も逃げるわけにはいかない。
ドビ爺と男が脇にどいて、ティアは夜へと踏み出した。
その瞳に映ったもの。
やや離れて位置に、人の群れが見える。
五十人ほどの老若男女だった。見覚えのある顔ばかりだった。
「みんな……」
まばたきを忘れてつぶやく。
ウラスロの受難から生き残ったシフルの人々が、そこに立っている。
彼らの視線を一身に浴び、ティアはゆっくりと近づいていく。
そのなかで、ひとりの若い女性に目が止まった。その隣には同じ年ごろの男性が立ち、女性の肩に手を置いている。おそらく夫婦なのだろう。
緊張した面持ちでティアを見つめながら、両手で大切そうに抱くもの。
赤ん坊だった。
「その子は?」
ティアは若い女の前で立ち止まり、訊いた。
「三カ月ほどになります」
「そうか」
ティアはうなずき、その子に視線を落とす。
まだ二十かそこらだろう若い妻は、隣の夫を見上げた。
「どうぞ、抱いてやってください」
若い夫が言った。
「私が?」
ティアは驚いて見返す。
「ドビ爺から、盗賊たちを退治していただいたと聞いています。ありがとうございました」
「しかし……」
妻から赤子を差し出され、ティアは戸惑う。それでもと言われ、ようやくティアは赤子を引き受け、抱いた。
「小さいな、とても」
赤ん坊の匂いがした。ミルク交じりの、みずみずしい匂いだった。小さくても赤子は思った以上に重く、どこを見てもぷっくりと丸かった。
ティアは赤子をあやしながら顔を上げ、もう一度、周囲の人々を見回す。
「……ずいぶん少なくなってしまったな」
ティアが告げると、うなずく者、つらそうな顔を見せるもの、様々だった。
ふと、髪を掴まれる感触があった。抱いた赤子がちいさな手が、ティアの髪を掴んで引っ張っている。
きょとんとくるみのような目に、ティアは不意に目頭が熱くなるのを感じた。
母親が止めようとするのを、「いいんだ」とティアは微笑み──
「でも……」
赤子に目を落としながら、ティアはさらに顔を伏せた。髪で自分の顔を隠す。こみ上げてくるものがあまりに多く、あまりに突然で、とうてい抑えることなどできなかった。
「みなが生きていてくれて、私は……」
瞳から雫が落ちる。その雫が赤子に落ちぬよう、ティアはあわてて手の甲で受けた。自分の涙などで、赤ん坊を汚したくなかった。
ティアを見守る皆に動揺が走るのがわかった。
「私……は……」
耐えねばと思う。そう思えば思うほど、涙が止まらなかった。
赤子の顔の横を、涙は一粒、二粒と落ちていく。
うぅ、とティアは嗚咽を押し殺すように、背後を振り返った。
そこにはファン・ミリアが立っている。紫の目を大きく見開き、驚いた表情で、じっとティアを見つめていた。
「見てくれ、サティ……」
涙が頬をつたう。泣きながら、ティアは笑っていた。
「シフルの……子なんだ……」
抱いた赤子をファン・ミリアに見せる。失ったものと、新たに得たもの。
「シフル……で……生まれた……子なんだ……!」
ひときわ大きく嗚咽が漏れ、じきに泣き声へと変わった。
「ああ──そうだな」
ファン・ミリアが目を見開いたままうなずく。そして、
「ティアがなぜ黒狼から選ばれたのか、その理由がわかった」
驚き、息をするのも忘れた様子で、ティアの姿を瞳に映し続けている。
「……王だ」
ファン・ミリアがつぶやくように言った。
「ティアは、王の心を持っている」