71 シフルⅤ
黒い霧に閉ざされ、頭上の夜空さえも見えなくなった。
「なんだこれは……!」
盗賊の頭目がつぶやく。
なにかの力に閉じ込めれた。黒く、暗い力だ。
怯える者たちの喧噪を、頭目が一括した。
「黙れ! こけおどしだ!」
叫びながら、自分の言葉がなんの慰めにもならないことを、本人が一番よくわかっていた。なぜなら……。
目の前に、赤い瞳の女がたたずんでいる。
──人間ではない。
女と真向かい、頭目は気づいた。なぜすぐに気づかなかったのか。いや、なぜ気づいてしまったのか。
「お前たちは、逃げられない」
感情の読めない声音で女は告げてくる。長い黒髪と、白い肌。整いすぎた顔立ち。無造作に立つ女の姿が、背筋が凍るほどに恐ろしい。
「てめぇ……」
頭目はうめくように背後の、髭面の男を睨みつけた。
「何がいい女がいた、だ。仲間にしてやったのに、とんでもねぇ貧乏くじを引かせやがって!」
「俺だって何も知らなかったんだ!」
髭面の男の顔が青ざめる。
「今まで、あんたにだっておいしい思いをさせてきただろう! 俺のおかげでシフルでの仕事がやりやすかったはずだ!」
必死の形相で弁解すると、頭目はするどく舌打ちした。
「てめぇはあの女を殺った後だ!」
頭目が剣先を女に向ける。が、髭面の男は気がついた。
いつの間にか女が消えていた。先ほど立っていた場所から。
「あ──」
と、髭面の男が間抜けた声を漏らした。馬上の頭目の真後ろ、宙に魔法陣が描かれている。
そこから──
女の手が、足が、頭が現れた。
その顔の開いた口から、ざらりと鋭い牙が並んでいる。
女が、頭目の首筋に食らいついた。
「ぐぅおおおお!」
すらりとなまめかしい女の手が、暴れる頭目の口をそっとおさえた。頭目は女の手を引きはがそうとするも、宙を掻く仕草をするのがやっとのようだった。抵抗が弱まっていく。
どくり、どくりと。
心臓の鼓動にあわせるように男の身体が痙攣し、女の喉が大きく動く。頭目は虚空の一点を見つめ、抵抗するのさえ忘れてしまったかのようだ。
そう──頭目は血を奪われていた。
みるみるうちに頭目の肌つやが失われ、一回りも二回りも身体がちいさくなった。対して女の赤い瞳はますます強く輝きを帯びる。
命が、頭目から女に移っている。強制的に。
やがて、頭目の動きが止まった。鼓動も。血を飲みつくされ、空っぽになった命の残骸が、ひらりと風に流れるように落馬していく。
「……久しぶりだ」
地に落ちたそれから女は自分の手のひらへと目を向ける。
「力が充実していく」
すでに成り行きを目撃した者たちは恐慌状態に陥っている。我先にと逃げ出そうとするものの、黒い霧の外に出ようと飛び込んだはずが、逆向きになってこの空間に戻ってきてしまう。
人が、馬が、無意味な衝突を繰り返しては傷ついていく。恐怖と混沌があたりを支配していた。
その最中、
「──元シフル兵」
女に呼ばれ、髭面の男はうつろな表情から、はっと視線を上げた。
「いまは別の村で衛兵をしつつ、裏では盗賊稼業か」
男は、答えることができない。
「私の民を何人殺した?」
責めるのではなく、確認するような口調だった。
血の口紅を引き、馬上の女は悠然と足を組んでこちらを見つめてくる。
緊張で男が唾を飲んだ。すると、女の背から翼が広がった。巨大な蝙蝠の翼だ。
「この霧は私を戦闘不能にするまで消えることはない。お前は最後の餌だ。私が戻るまでに、選べ。──戦って死ぬか、餌として死ぬか。お前が、お前自身の正しさを証明する者であれば、私を滅ぼすことができるかもしれない」
馬の背を蹴り、女が霧のなかへと消えた。
◇
「これは、ティアなのか」
もう一方の黒い霧に包まれ、ファン・ミリアはつぶやいた。こめかみを冷たい汗がつたう。
間欠的にティアの力が増幅していくのが伝わってくる。
──ティアが血を飲んでいる。
明らかだった。しかしながら、血と力。それを受け入れるティアという器の大きさが、予想外だった。
──これほどティアは餓えていたのか。
吸血という力の補充が不足しているのは、感じてはいた。いま思えば旅の道中、ティアが吸血している場面に遭遇したことはない。
──脅威だ。
邪を祓い、人外を打ち滅ぼす任を負う聖騎士としてみれば、ティアの存在は危険すぎる。
不死に属する頂点の種族であり、しかもティアは真祖である。
──真祖……。
よくよく考えてみれば、吸血鬼において真祖かそうでないかの具体的なちがいを、ファン・ミリアは知らない。吸血鬼のはじまり──吸血鬼に依らない吸血鬼化が一般的な認識だが、では、能力や存在においてのちがいは?
気がつけば、ティアの力を得る間隔が長くなっている。
──残されている者はすくない。
すでにティアは盗賊たちを全滅に近い状態まで追い込んでいる。
外に気を取られていたファン・ミリアが、鋭く振り返った。
同じ空間、同じ霧のなかに閉じ込められているドビ爺が、ナイフを握っていた。
その刃先を自らの胸に向けて。
「自死か……」
「まがりなりにもこの国の聖女であるファン・ミリア様を罠に陥れようとした。シフルに恩のある方を……お赦しくだされ」
ドビ爺のナイフを持つ手が震えている。
「赦すも赦さぬもない」
ファン・ミリアは穏やかに告げる。
「そもそも私は怒っていない。私に対して責任を感じてすることなら、それこそが私に対する最大の侮辱だ」
「しかし──」
ためらうドビ爺に、ファン・ミリアはふっと相好を崩す。
「ナイフをおろしなさい。あなたが自害すると、いま彼女のしていることが無駄になる。下手をすると私が恨まれかねない」
言って、ファン・ミリアは霧の外、その先にいるであろうティアを示す。
「あなたが生きていてくれた。それが彼女にとってどれほどの救いになるか」
「……ティア殿が?」
「あなたは善きシフルの民であり、彼女の宝なのだ」
すべてを明かすわけにはいかない。それはティアがするべきことだから。
それでも、伝わるものがあったのだろう。ナイフを握るドビ爺の拳の力が弱くなっていく。
その時──
誰かが、ドビ爺の服のすそを引っ張った。
レミだ。
はっとレミを見下ろしたドビ爺に対して、銀髪の少女は無表情のままゆっくりと首を横に振る。
「そういえば」
と、ファン・ミリアは気づいた。
「レミはティアから命令を受けていたな。ドビ爺を守るようにと」
つぶらな銀の瞳に見つめられ、ドビ爺の全身から力が抜けた。重責から解放されたかのように、両膝が地面についた。
「ファン・ミリア様……」
うつむいたまま、ドビ爺が言った。
「ティア殿はいったい何者なのでしょうか?」
「じきにわかる」
霧が薄くなっていく。
◇
両膝立ちになり、元シフル兵の男は絶望でうなだれていた。人の声は絶え、馬のいななきだけが響いている。それが妙に耳障りだった。
男の視界に、剣が落ちてきた。
「追いつめられて人は真価を発揮する」
剣のすぐ先に、女のブーツが見えた。声が降ってくる。
「だが──そもそも、平時であればお前が追いつめられることもなかった。お前を追いつめたのは、私の罪だ」
拾え、と女から命じられた。
男はほとんど思考の停止した頭で、剣を拾うべきか考えた。拾えば自分は殺されるだろう。しかし、拾わなかったとしても殺されるだろう。
男は、緩慢な動作で剣に手を伸ばす。
その間にも女の声は聞こえていた。
「お前が盗賊に身を落としたことを、私は責められない。それでも、お前がシフルの民を傷つけたことを、許すわけにはいかない。たとえお前が元シフルの民であったとしても、だ。私はそう決めた。私は私の責任を果たす。だからお前も果たせ。ひとりの意思ある者として」
自分を殺す呪いの言葉のようだ、と男は思った。しかし同時に、その口調は女の懺悔のようでもあり、男を鼓舞するようでもあった。
男は剣をつかんだ。そうしてゆっくりと、おそるおそる顔を上げる。
女が、こちらを見下ろしていた。
静かな灰褐色の瞳だった。女の肩越し、薄れゆく霧のむこうに、月が見えた。白銀の月だ。
「あなたは……」
見覚えがある。その瞳の色に。
男は剣の柄を握り、立ち上がった。構えた。男が構えると、女の瞳がわずかに赤く輝き、袖の下から黒い剣が滑り出てきた。柄も鍔もない、影の剣だった。
自分は死ぬ。
にも関わらず、なぜか逃げようという気は起きなかった。
恐怖よりも、それが自分のしなければならないことのような気がした。
──責任。
そう、責任を取る時がきたのだろう。ツケを払う時がきたのだ。
盗賊たちを手引きしてシフルの領内へ招き入れ、その分け前に預かった。賄賂を払って別の村の衛兵の任に就き、旅人の金品を奪い、女を襲った。子供も殺した。
人の心を守り続けたドビ爺と、人の心を捨てて化け物に成り下がった自分と。
男は、剣を大きくふりかぶった。女めがけて踏み込む。
ゆらりと女の身体が左右に揺れた、そう思ったときには、男の心臓は黒い剣によって貫かれていた。
一瞬の強い痛みのあとで、四肢が動かなくなった。振り下ろした剣の勢いのまま、男は前のめりに崩れ落ちていく。
「逃げていれば、血を奪っていた」
最期に女の、いや、懐かしい少年の声が聞こえた気がした。
「すまない……」