70 シフルⅣ
星が輝いている。
夜が更けるにつれて、うすい雲間から月がのぞくようになった。見えたかと思えば雲に隠れ、またのぞいたかと思えば隠れるを繰り返している。
その星月の明かりを打ち消すように、カンテラをかかげたドビ爺が先頭を歩く。
ティアとファン・ミリアとレミ、そしてドビ爺を加えた四人は、シフルの街を出てドビ爺の住処へと向かう。雨宿りの森小屋を貸してくれた男は準備をと先に駆けていった。
「準備?」
草原の道を歩きながらファン・ミリアが訊くと、ドビ爺は「いやなに」と表情をなごませた。
「むさくるしい場所なので、せめてファン・ミリア様をお迎えできるようにしておかなければ」
「気遣いは無用だ」
「ファン・ミリア様には御恩があります」
「どういうことだ?」
「ファン・ミリア様は、ウラスロ王子の非道に異を唱えてくださいました」
ファン・ミリアは首を横に振った。
「抗議はしたが、シフルを守れたわけではない」
「そうしていただければどれだけよかったかとは思いますが──」
言ってすぐ「いや、失礼しました」と、ドビ爺は謝る。
「この老いぼれにもいまだやりきれない思いはあるのです。お赦しください」
「あなたが言うことはもっともだ」
「王家に逆らうことは国に逆らうに等しい。誰もウラスロ王子の暴挙を止めることはできなかったでしょう。感謝しております」
そうしてゆっくりと歩きながら、ドビ爺はぽつりと付け加えた。
「……ファン・ミリア様は、タオ様を看取ってくださった」
その言葉に、みなが口を閉ざして歩く。
歩きながら、ティアはレミを背負いなおした。レミはティアの背の上で目を閉じている。バンシーは夜に眠ることはないが、子供のレミがいつまでも目を爛々と開いていたら不自然のため、ティアがそうするよう命じたのだ。
黙々と歩くティアを横目で見つつ、ファン・ミリアが口を開いた。
「あの日、屋敷で起こったことを見ていた者がいたと?」
「実際に目撃した者はすでに怪我を負って亡くなっています。その後、幾人かの又聞きで私の耳に入りました。紫の瞳に青いマントの女性武人といえば、この国で思い浮かぶのは御一人だけ」
ファン・ミリアは無言で肯定する。
「ですが、ウラスロ王子が去られた後のことが判然としません。黒い狼がタオ様を連れていってしまったとか。にわかに信じがたい話ですが、たしかにタオ様の亡骸はなかった。タオ様を看取ったのはファン・ミリア様とお聞きしておりますか、これはいったいどういうことでしょう?」
ファン・ミリアはやや間を開けて、言った。
「……その話を聞いて、どうする?」
「タオ様のご消息を知りたいのです」
「あなたは、私がタオ=シフルを看取ったと聞いた、と。そう言ったな」
「たしかに……」
ドビ爺が目を伏せた。
「どちらにせよ、タオ=シフルがすでにこの世にないと、あなたはそう思っているのではないか」
「身罷っておられる。そう考えべきなのでしょう」
ドビ爺はシフルの元家人で、街の相談役だった。何か住民間で揉め事や困りごとがあれば、それを領主に伝えるのが役割で、差配を待つ。職名は相談役ではあるものの、実体は仲介役と呼ぶのが近い。
退職後、ドビ爺は街から離れて隠棲していた。すでに妻は病没し、ひとり息子は独立して家族を持っている。息子夫婦から一緒に住むようにも誘われたが、身体はよく動いた。当分はひとりで暮らすことにしたらしい。
運が良かったのか、悪かったのか。隠棲していためドビ爺は難を逃れることができた。だが、息子の家族はシフルの街に住んでいた……。
「私はよいのです」
ドビ爺は大きく溜息を吐いた。
「すでに老い先短い身です。息子夫婦も孫も失くし、この世に未練はありません。ウラスロ王子に恨みはあるが、果たすことができようはずもない。せいぜいが殺された者たちの墓を作ってやることです」
思えば、とドビ爺は続けた。
「この戦乱の世のなかで、シフルはずっと平和だった。ご領主に恵まれたのでしょう。私は幸福な時間を生きたと思い切るようにいたします。ですが──」
疲れた顔を上げ、ファン・ミリアの目を見つめる。強く。
「ファン・ミリア様は慈悲深い御方であると聞き及んでおります」
「それは──」
ファン・ミリアは言葉を詰まらせた。
「そうありたいと思っている。が、私ではシフルの惨状を止められなかった」
「もとよりシフルの民を苦しめるは本位ではない?」
「当然だ。わが身の無力を認めないわけにいかないが、シフルだけでなく、この国のすべての民に危害を加えるのは本位ではない」
「ご自身の神に誓えると?」
「誓おう」
ファン・ミリアが力強くうなずくと、ドビ爺は満足した様子でうなずいた。
「タオ様はもうすでに身罷っておられる。ですが、どこかで生きておられるかもしれない。それだけが生き残った者たち、未来ある者たちの希望なのです。──たとえまやかしの希望であったとしても」
その言葉に、ぴくりとティアが反応した。
ファン・ミリアはその動きを目で制し、
「『未来ある者たち』とは、先ほどの男性のことか?」
雨宿りの森小屋を貸してくれた男は、先行している。
しかし、ドビ爺からの返答はなかった。
それが明確な答えになっていたが、おいそれと口にできることではないのだろう。生き残ったシフルの民が他にもいるのであれば、存亡がかかっている。
「……生き残ってくれてよかった」
沈黙のなか、ふと、ティアが小声で言った。
ドビ爺が振り返る。ティアはフードの奥から見返した。
「あなたの心境ではそうは思えないかもしれないが」
子に先立たれた親はつらい。タオが──ティアが言える立場でないのも、自分がシフル受難の原因となったことがわかっていても、そう言わずにおれなかった。
「シフルの民がひとりでも多く生き残ってくれていれば、私は嬉しい」
切実な響きに、本音であることは伝わったのだろう。「そう思うようにします」と、ドビ爺は笑みをのぞかせた。
「ティア殿は、シフルに縁のある方ですか?」
「縁はあります。あなたにも何度かお会いしたことはある」
「はて」
老人は本当にわからないといった様子で顔を振った。「申し訳ないが、覚えてはおらんようです」
「当然です。誰も私を見て私とはわからないでしょう」
ティアは自嘲するように笑う。
「ですが、私が何者かを知ってもらわなければならない。その上で、あなたがたの裁定を受けることになる」
ティアの口調は、冗談を言っている口ぶりではない。ドビ爺は不思議そうにティアを見つつ、どう答えていいかわからない様子である。
「彼女の正体はおのずと明らかになるだろう」
ファン・ミリアが言った。
「彼女自身に明かすつもりがあるならば、の話だが」
ファン・ミリアの視線にティアはうなずいた。
また歩いた。
月が、雲に隠れた。風に揺れるカンテラの明かりが強まる。
ティアは立ち止まった。ドビ爺に背中に声をかける。
「そろそろか──ドビ爺?」
ティアの口調が変わった。ドビ爺の足取りがぴたりと止まった。
「はい、家はもう近く──」
「そうじゃないだろう?」
ティアが否定すると、ドビ爺がゆっくりと振り返った。
「そうじゃない、とは?」
ドビ爺がこちらをうかがう。ティアは遠く草原を見渡した。それからドビ爺をひたと見据える。
「ドビ爺は盗賊を避けるために住処に案内すると言った。なぜカンテラを掲げる?」
「それは……」
「歩くのも遅すぎる。老齢だとしても、ドビ爺は元気な人だった。自分でも言っていたな」
ドビ爺は黙っている。ティアは重ねて言った。
「まるで誰かに私たちの居場所を伝えているようだ」
「申し訳ありません」
ドビ爺は、まぶたをしばたかせた。苦しそうに表情をうつむかせる。
「──この愚かな老人をお赦しください」
すでに、ティアの耳は遠くから響く馬蹄の音をとらえている。ドビ爺の不自然な言動により、街を出るあたりから蝙蝠を分離して周囲を調べさせてもいた。
「ティア、何人だ?」
「三十から四十。盗賊のようだ──レミ」
呼ぶと、背中におぶった銀髪の少女の目がぱちりと開いた。
ティアはレミをおろしてドビ爺を見た。
「私たちを盗賊に売るつもりか?」
「滅相もありません。いや、しかし──」
ドビ爺は肩を落とした。
「それ以上の罪なのかもしれません」
申し訳ありません、とドビ爺は繰り返す。
「ファン・ミリア様は救国の聖女であらせられる。その強さは人智の及ばぬほどだとか」
ティアは眉根を寄せた。ドビ爺の言いたいことがわからない。
「ああ──」
と、先に理解したのはファン・ミリアである。
「私に盗賊を退治してほしかったのか」
ドビ爺は悄然とうなずく。
ティアはまだ腑に落ちない。
「なぜ、こんな手の込んだことを? 退治してほしいならそう言えばいい」
「言えぬのだ」
ファン・ミリアがティアに言った。
「彼の立場と、私の立場。国の庇護を失ったシフルの民と、国に所属する聖騎士団の私とでは」
そうしてファン・ミリアはドビ爺を向く。
「あなたは賢い。シフルの民であるあなたが私に直截、要請すれば角が立つ。だが、私と盗賊がたまたま居合わせれば、私は盗賊を排除しなければならない。これはシフルとは関係のない問題だからな」
しかし、とファン・ミリアは続けた。
「これは危険を伴う。この考え方は、私がシフルに敵対、もしくは助けないことを前提とした苦肉の策であるはずだ。そうでなかったとしても、私のあなたに対する心象が悪化する。ハメられた、ということになるからな」
「ファン・ミリア様のおっしゃることはもっともです」
ようやくティアは理解した。
ドビ爺が、いつの間にかナイフを握りしめている。
「老いぼれですが、身体は動きます。せめて盾としてお使いくだされ」
「ドビ爺……死ぬつもりだったのか」
「ファン・ミリア様のおっしゃる通り、シフルの民がシフルの民でいる限り、国に庇護を求めることはできません。せめて盗賊どもの脅威だけでも取り除いてやりたかった」
ティアはドビ爺から足元に視線を落とした。
「そうか……そうだな」
切なかった。
すでに隠棲したはずの老人を、ここまで追いつめてしまった。家族を奪われた彼が、それでもシフルを想って命を擲とうとしている。
追いつめたのは、自分だ。
素晴らしい民を持っていた。誇らしく、自慢したくなるほどの民だ。
それなのに。
自分は真っ先に帰らず、壊れた夢にすがって王都へ上った。これまで出会った人々、仲間、得たものが無駄だとは思わない。思うわけにはいかない。
けれども──
「ずいぶん待たせてしまった」
ティアが、ドビ爺に告げた。
「もう、二度とあなたがたを傷つけさせない。私の命に代えても守ろう」
ドビ爺はナイフを持ったまま、意味がわからないといった表情を浮かべる。
「レミはドビ爺を守っていてくれ」
命じると、レミはドビ爺のもとへぱたぱたと駆けていき、その脇に立った。
馬蹄の足がすでに間近に迫っている。
ファン・ミリアが外套の下から剣を引き抜こうとする。
「サティは何もしないでくれ」
「しかし──」
「サティが動けは事が大きくなる。何より、私がしなければならないことなんだ」
灰褐色の瞳が赤い輝きを持ちはじめる。
ファン・ミリアが抜きかけた剣をおさめた。
「……わかった」
矢が、ティアのすぐ足元に射かけられた。威嚇だろう。
ティアは手を振って三人を退がらせる。
自らは、道を塞ぐ位置に立った。
盗賊のうち、先頭のひとりが馬を棹立ちに止めらせた。
すでに剣を抜き、剣身を見せびらかせるように振りかざす。
「女か」
頭目らしき男が、それからファン・ミリア、レミ、ドビ爺へと視線を移す。
「女が二人。子供と爺か──おい」
剣を振ると、一団のなかから馬に乗った男が前に進んできた。
「こいつか?」
「ああ」
頭目から訊かれ、ああ、と男がうなずく。髭面の男だ。
「間違いない」
髭面の男がうなずく。酒で頬が痩けた顔に、ティアは見覚えがあった。
「お前は……」
目を見張った。
髭面の男は、ひとつ前の村でティアの宿に押しかけていた男だった。
突然──
「貴様! シフルの恥知らずが!」
ドビ爺が血相を変えてこちらに駆け寄ろうとする。それをファン・ミリアが腕を伸ばして押しとどめた。
「ご領主に……ノルド様に取り立てていただいた御恩を忘れおって!」
激高するドビ爺に対して、髭面の男は馬上から地に唾を吐いた。
「ふざけるな! シフルに仕えたせいで肩身の狭い思いを強いられているのだ! お前らこそ愚かだとなぜ気づかぬ!」
「盗賊に身を落とした分際で!」
ファン・ミリアの腕に静止をかけられながら、それでもドビ爺は暴れるようにもがいている。
「同胞に手をかけておきながら……!」
皺の刻まれた頬に、涙がつたう。
その時だった。
『──城へと続く深い森』
ティアの全身から黒い霧が噴出した。
霧は風に逆らい、意思ある動きでファン・ミリア、ドビ爺、レミの三人を包み込む。その一方で、霧は分離して別のかたまりを作り、盗賊の一団を覆いはじめる。
同じ性質の霧でありながら、片方は強固な防御の結界となり、もう片方は敵を閉じ込め、逃走を許さぬ闇の檻となった。
「ティア、力を使いすぎだ」
霧の隙間から、ファン・ミリアが言った。
「大丈夫だ。力はすぐに補給できる」
赤い瞳を輝かせ、鬼気迫るティアの表情に、ファン・ミリアが息を吞んだ。
「ティア、待──」
言い終わるのを待たず、黒い霧が完全に覆う。
同時に、驚き、あわてる盗賊たちをもう一方の黒い霧が覆い、閉じた。
「人の世は難しい」
故郷のために命を懸ける者、捨てる者。
ふたつの閉じた空間の狭間で、ティアは雲間からのぞいた月を見上げる。
フードが落ちた。
「──血を飲み、血にまみれ、多くの命を奪うだろう」
月に向かってつぶやいた。