69 シフルⅢ
雨上がり、星の出た夜──
シフルの街を一望できる丘の上に、三つの人影が立った。
ティアとファン・ミリア、レミである。
三人ともが薄い外套のフードを目深にかぶっている。
ちいさな円形の城壁に囲まれた、シフルの街。
タオの記憶が、まざまざと蘇った。
タオの記憶──あの日に見た赤い夕焼けは、いまは星々の光にとってかわられ、大地の下に眠りについている。それでも。
夜のなかでさえ、ティアの瞳は燃える街の残影を映している。
丘を這いあがる生ぬるい風に、ティアはぶるりと身震いを起こした。
「シフル……」
ゆっくりと斜面を下りる。そのすぐ後ろをレミが追い、さらに遅れてファン・ミリアが続く。
半開きのままの門をくぐり、ティアはシフルの街へと足を踏み入れた。
いまはもう炎もなく、黒煙もなく、夜に沈んだ街は、ただ無機質に冷たい。
静かだった。
風が、瓦礫の隙間を通り抜け、時おり耳鳴りのような音を立てる。
あの時の、道々に転がった死体の数々。冷たい幼子を掻き抱いたまま朽ちた母親もまた、冷たかった。自分の吐瀉物がその脇に落ちている──かつての光景が浮かび、次の瞬間に消え、また闇に沈む。
ティアはゆっくりと左右を見渡しながら歩く。その間、ファン・ミリアは何も話しかけてこなかった。ただティアの歩調に合わせてついてくる。
当時は散乱していた家具や什器は見当たらなかった。盗賊や火事場泥棒に持っていかれたか、風に運ばれたか。あるいは壊れ、砕けて塵となったか。
なだらかな坂をのぼってすぐ、ティアは足を止めた。
門先に立つ。
伸びた石畳の通廊の先に、星々の下で、燃え崩れた屋敷の残骸が見えた。
串刺しにされた影はもうない。
「父上……みんな……」
ティアは両手を強く握りしめた。
いまはもう、死んでしまった街、屋敷。
「みんな、行ってしまった」
声が震えぬよう、つぶやく。
タオには父がいた。母がいて、兄がいて、姉妹がいた。シフルから、シフル以前から連綿と続く血があり、だからタオが生まれた。他にも家人がいた。いたのだ。間違いなく存在していた。
「もういない」
自分に言い聞かせるように、言った。
家族を失い、その血を失った。失われた街。失われた領民。すべてなくなった。なにもない。故郷などどこにもない。
「タオも、タオの夢も」
すべてが終わってしまった場所。
自分が逃げ出した場所に、ようやく帰ってきた。
鉄門をくぐり、石畳の通路から中庭に接する場所で、ティアはしゃがみ込んだ。芝生の上に、手のひら大ほどの小石が置かれていた。
「そこだ」と、ファン・ミリアがようやく口を開いた。
「タオが尽きた場所だ」
「ああ」
ティアは言って、手を伸ばした。指先が石に触れた。夏前なのに、その石はひどく冷たく感じられた。タオの冷たさだと思った。
「これはタオの墓石か」
「私は置いてない」
ファン・ミリアがのぞき込んでくる。ティアがぼんやりと顔を上向かせると、
「知らぬ誰かが置いたものだ」
「誰か?」
訊きながら、ティアは考えるでもなくつぶやく。屋敷の者は誰も残っていない。ひとり残らず殺された。
「ウラスロ殿下がするとも、させるとも考えられない」
言い、ファン・ミリアは身を引いた。
「では誰が?」
ティアがもう一度訊くと、ファン・ミリアは首を横に振った。
「私は知らない。だが、タオの死を悼む者がしたのはわかる。墓とはそういうものだろう?」
答え、ファン・ミリアは促すように中庭へと視線を移す。
芝生のあちこちに、同じように石が置かれている。
「これはすべて墓石か」
ティアの家族だけではない。石の数が多すぎる。
すると、ファン・ミリアが言った。
「人が死んでも骨は残る。草は手入れしなければ野放図に生える」
「墓守がいるのか」
寂しくも整然と並べられたその墓石は、レミの村の教会に並べられた白骨を彷彿とさせた。
「私が祈る必要はなさそうだ。余さず天に召されている」
ファン・ミリアは軽く両手を組み、すぐにほどく。
「ここにいたるまで、道には何もなかったな」
「ああ」
ティアはうなずく。誰かが、村人の死体をここへ葬り、街に散乱したものを片付けたのだと思い至ったからだった。むなしい光景だったが、不浄ではなかった。
「まだ残っている者がいるのか」
「──おりません」
応える声に、ティアはゆっくりと振り返った。
◇
街に入ったあたりから気配は察していた。ファン・ミリアもとうに気づいていただろう。それでも捨て置いていたのは、明らかに素人のそれだったからだ。
気配はふたり。
門の影から、カンテラを灯した男がまず姿を現した。
「貴方か。先ほどは世話になった」
先に声をかけたのはファン・ミリアである。森の小屋を貸してくれた男だった。
「私たちを追けていた、というわけではなさそうだが」
素人に追跡されれば否が応でも気づいただろう。
「俺は、あんたのことを伝えただけだぁ。そうしたら、この爺さんが会いたいと言うもんだから、ここまで連れてきた」
ほら、この女性だ、そう男から促されて光に現れたのは老人だった。うすい白髪に腰がやや曲がっているものの、杖は持っていない。
どこか疲れた雰囲気をまとう老人を見た瞬間、ティアの顔が緊張で強張った。
「ド──」
言いかけた言葉をあわてて飲み込み、フードを目深にかぶりなおす。もちろん知っている。ドビ爺と呼ばれていた老人だった。かつてシフル家に仕えていたらしく、タオが物覚えのつくころにはすでに街から離れた場所に隠居していたが、馬の遠乗りをした際には立ち寄らせてもらったこともある。
「貴女は、ファン・ミリア様でしょうか?」
ドビ爺もまた緊張の面持ちを作っている。ティアを素早く一瞥してから、ファン・ミリアに身体を向ける。
「そうだ」
フードを上げたファン・ミリアの紫水晶の瞳が、カンテラの光に輝いた。
「やはり」と、ドビ爺はうなずく。
「ウラスロ王子にシフルが襲われた日、一部始終とまでは言わずともこの屋敷で起こったことは伝え聞いておりました。ファン・ミリア様のお姿もあったと……」
「私もシフルに降りかかった災禍の一部だと思う」
ファン・ミリアが申し訳なさをにじませて言うと、
「そうは思っておりません」
ドビ爺はきっぱりと首を振った。
「ですが、その方は?」
ティアを向く。正体が知れないという意味で、ファン・ミリアよりもティアのほうが気になるのかもしれない。
「あなたがたにとって彼女の姿ははじめて見るだろうが……」
だが、とファン・ミリア。
「誰よりもシフルを想う者だ」
「はてそれは」
「彼女が、あなたがたにとっての福音であると私は信じている。とにかく──この者があなたがたに仇なす者でないことは私が保証しよう」
ファン・ミリアは言って、
「ティア、フードを取るべきでは?」
ティアだけにわかるよう、かすかに微笑む。
「ああ」
ティアは、フードを上げた。
長い黒髪と灰褐色の瞳があらわになる。
その目を静かに伏せた。
「ティアーナ=フィールと申します。ティアとお呼びください」
「これはこれは、ファン・ミリア様に負けず劣らず佳人じゃ」
年若の娘を不安にさせまいとしてだろうか。つとめて明るく振る舞うドビ爺の笑顔に、ティアは胸を衝かれた心地がした。
自分に向けられた笑顔に責められている気がして、痛かった。四肢をもがれ、身体を刻まれてもこれほどの痛みは感じまいと思った。
「不肖者です」
「御謙遜を」
「本当に、不肖者なのです……」
ティアはドビ爺を見、そしてカンテラの男を見て、深く頭を垂れた。
ドビ爺と男が怪訝そうに顔を見合わせる。
ティアは、いつまで経っても頭を上げない。
「これは?」
困惑したふたりが、助けを求めるようにファン・ミリアをうかがう。
「……」
ファン・ミリアは驚いた表情でティアを見つめる。
「頭を下げるか、ティア」
自分の領民に領主が頭を下げるのか、と問うているのだ。
「当然だ。この首を切り落としてもらっていい」
「しかし、それだけでは無理だろう」
死ねない、ということをファン・ミリアが暗にほのめかすと、ティアも返答に窮したらしく、黙っている。
「考えての言動ではないのだな」
苦笑してファン・ミリアが独り言ちる。すると、
「ここは盗賊が出ます。ファン・ミリア様に満足していただける自信はございませんが、我々の住処にご案内しましょう」
ドビ爺が言った。