68 シフルⅡ
立ちつくすティアの手を、ファン・ミリアが取った。
「宿を出よう。逃げた衛兵が仲間を呼ぶかもしれない」
返事はなかった。ファン・ミリアはティアの手を取り、いそいで宿を出た。
馬は宿に預けた。身軽になれば村から出るのはたやすい。
できる限り後を追わせぬよう、草の上を選んで歩いた。
もとより雨中の追跡は難しい。とはいえ、
──運がいい。
などと安易に考えることはできない。そもそも雨でなければ村に立ち寄ることはなかった。
「さて、どうするか」
足早に歩きながらファン・ミリアは考える。
夜明けが近い。ここから全速力で走ってシフルに辿り着いたとしても、先ほどの宿で『シフル』という言葉は聞かれている。ティアが消えていれば、追手がシフルに手がかりを求める可能性はある。
ファン・ミリアは、ちらりと背後を見た。
手を引かれ、ティアがぼんやりとした足取りで後をついてくる。
「このままでは──」
焦りを覚えてファン・ミリアが言いかけた時、ふと、ティアが前方を指さした。
遠目に森が見える。草原のなかに点々と見える森のひとつで、全体がこんもりと半円をつくっている。
「あそこに小屋がある」
「なに?」
「子供のころ……遊んだ小屋だ」
「わかった」
ファン・ミリアは応じる。
さすがに故郷だけあって、ティアには土地勘がある。
──森へ。
ティアの手を握り直し、濡れた下草を急いだ。
◇
獣道をかきわけた先に、空間を見つけた。
森の中央部だろうか、ひっそりと小屋が建っている。
ファン・ミリアは入ってすぐ部屋の内部に目を配る。窓はなかった。奥にドアがあり、物置きらしい小部屋になっていた。
そこにティアを放り込むように入れて、ようやくファン・ミリアは安堵の吐息をもらした。
「また濡れてしまったな」
部屋の隅に立っているバンシーのレミを見て、ファン・ミリアは苦笑する。なにか拭くものはと部屋のなかを見回して、ちょうど手ごろな布を見つけた。清潔な布だった。
そう。
ファン・ミリアはすでに気づいている。
布は埃をかぶっていない。掃除が行き届いているというほどではないが、この森小屋には明らかに人の出入りしている痕跡があった。
──まだ最近だろう……。
ファン・ミリアはそう判断した。『子供のころ』とティアが言っていたから、現在は使われていないだろうと思い込んでいたが、そうではないらしい。ティアに確認をしたいところだが、すでに眠りについているだろう。室内は薄青い。
「ティアが目覚めるまで待つしかない」
行動しなければならないときにできないのは吸血鬼の大きな制約だろう。本来ならば恐ろしい存在のはずが、知れば知るほど弱点の多さに気づく。
ファン・ミリアは軒先に出て、空を見上げた。鬱蒼と生い茂る木々ごしに、朝まだきの暗い曇天から雨が落ちてくる。雨と汗とで濡れた服がじとりと重い。雨脚が強くなった気がする。
この雨が、夏への慈雨となるのだろうか。
隣にレミもきたが、すぐに飽きたらしい。部屋に戻っていく。戻りながら、そのちいさな後ろ姿が透けて見えなくなった。バンシーは透過する。自分のテリトリーと定めた領域に限った能力だが、その領域とはつまり、主としてのティアが住む『家』なのだそうだ。
化け物の能力には何かしらの制約がつきものらしい。
ファン・ミリアは見えないレミを追って小屋のなかへと入っていった。
◇
ティアが目覚める日没まで、ファン・ミリアはほとんど眠って過ごした。いつ追手に小屋を見つけられるかもわからない。予期せぬ事態に備えて体力は温存しておくべきだろう。
時折、レミが実体化してファン・ミリアの様子を見にくることがあった。それに気づいたファン・ミリアが笑ってやると、レミは無表情ながら満足した様子でまた姿を消す。それが自分の仕事であるかのように。そうやって、ファン・ミリアだけでなくティアをも守っているのかもしれない。
そうして翌夕、そろそろティアが起きてくる頃だろうとファン・ミリアが腰を上げたとき、外に、茂みを掻く人の気配を感じた。
ファン・ミリアは素早くドア脇の壁に背をつけた。雨は降り続いている。
ぬかるみを近づく足音はひとつだけ、足取りに不自然さは感じられなかった。
「……レミ」
ファン・ミリアがささやくように呼ぶと、すぐにレミが姿を現した。
「昨日の衛兵か?」
ファン・ミリアが訊いたものの、レミは閉じたドアを食い入るように見つめたまま、微動だにしない。
「家の外はわからないか」
仕方ない、そう思っているうちに足音が小屋の前で止まり、ドアが開いた。ファン・ミリアは入ってきた人影の背後へと忍び寄り、素早く相手の首に腕を回した。
ひっ、と男の声がした。知らぬ男だった。
「驚かせてすまないが、危害を加えるつもりはない。雨が止んだら出ていく」
ファン・ミリアに静かに、けれども毅然として告げる。
「もう一度言う。危害を加えるつもりはない。物取りでも空き巣でもない。雨が止むまで小屋に置かせてもらえないか?」
繰り返し説明すると、男が二度、三度とあわててうなずく。それを確認して、ファン・ミリアはゆっくりと男の首から腕をはずした。
「あなたがこの小屋の主か?」
顔だけで振り返ってくる男に尋ねる。中年の、やや腹の出た農家ふうの恰好をしている。服は粗末だがさほど汚れてはおらず、野卑な印象は受けなかった。純朴そうな瞳を見開いてファン・ミリアを凝視してくる。
「いいや」
と、男は首を振った。
「誰の物でもねえ、昔からここらへんの者が共同で使ってる」
「そうか」
ファン・ミリアはあえて笑みをこぼすと、男は照れたように顔をそらす。
「ここらへん、というのは、シフルということか?」
すると、男は気まずそうに「知らねぇ」と声を落とした。今度はおびえたような表情を浮かべる。
「安心していい」
ファン・ミリアは声をやわらげる。
「私はあなた方、シフルの者たちを悪くするつもりはない。むしろ、シフルには知り合いがいるんだ」
女ふたりと子供で旅をしている。自分以外は奥で休んでいる。そう伝えると、男はとりあえず安心したようだった。
「このご時世に旅なんて酔狂なことだなあ」
言いながら男は灯かりをつけた。ファン・ミリアから離れた壁際に腰をおろす。
聞いたところ男はやはりシフルの者だった。ウラスロ王子の異端征伐によって街は壊滅の憂き目に合い、男は親戚の伝手を頼って近傍の村に移り住んだという。
「他にもシフルの生き残りがいるのか」
ファン・ミリアが訊くと、男は「わからない」と答えた。仮に知っていても、ファン・ミリアに消息を伝えたりはしないだろう。さらに誅罰の手が伸びる危険があるからだ。
「ここにはよく来るのか?」
別の問いを投げると、
「たまに。また誰かに会えるかもと思うとなあ」
そうして、男は時間を見つけてはこの小屋をのぞきに来るそうだ。何をするわけでもないが、せめて小屋を維持させたいのだろう。
「私の知り合いも、シフルを愛していた。心の底から」
ファン・ミリアが伝えると、男は嬉しそうに頬をかいた。
「なんてえ名前だい、その知り合いってのは?」
「絶対にあなたが知っている者だ。でも、悪いが言えない」
「そうかあ」と、男は神妙そうにうなずく。
「みんな、無事だとええなあ」
「あなたはシフルが好きなんだな」
「好きっちゅうか」と、男は照れたように笑う。「俺はシフルで生まれてずっと育ったからなあ。シフルがいいなあ、やっぱり」
この時代、人々の大半は自分の土地から離れることはなかった。多くの者が世界の広さを知ることもなく生涯の幕を閉じる。そういうものだった。
「しかし──」
ファン・ミリアは意を決して訊いた。
「ご領主はもうおられない」
「ノルド様なぁ」
男は深い溜息を吐いた。
「あんなことになっちまって」
ノルド=シフル。タオの父親である。
「ノルド様が異端信仰なんて、そんなことあるはずがねえ」
語気を荒げる男に、「そうだな」とファン・ミリアは相槌をうって、
「シフルはいまどうなっているんだ」
「どうもこうも、ウラスロ王子にめちゃくちゃにされて、そのまんまだ。はじめは残ったのもいたらしいけども、近ごろは賊が出るようになって、誰も住んじゃいねえ」
「誰がシフルを治めているんだ?」
「隣のコベットつう領主様かなあ。でもあんまり何もしねえなあ」
男もよくわかってないらしい。おそらくウラスロ王子の直轄領となって、放置されているのだろう。ウラスロ王子からの沙汰がないにも関わらず、別領主が独断で手を出して翻意ありと思われてはたまらない。
賊が出ることからも推測するに、シフルは政の届かぬ無法地帯化したということだ。レミの山奥の村と何ら変わるところがない。先の宿での衛兵もそれで職を失ったのだろう。治安が悪化すれば、それにつけ込んで賊が出る。賊だけではない。果ては瘴気が立って魑魅魍魎の類が出ないとも限らない。
本来、この憐れなシフルの民を慰撫しようとファン・ミリアが封土を願ったが、ウラスロの横槍によって希望通りに進む保証はない。
ひとつの村が死に、街が死に、それが燎原の火のごとく国全体に拡がっていき……。
ファン・ミリアは身震いがする心地がした。
──それでも。
このまま手をこまねいているわけにはいかない。王都に戻ったら何か手を打たななければ。
そうファン・ミリアが考えて込んでいると、
「タオ様が戻ってきてくださったらなあ」
感慨深げな男の言葉に、ぎくりとファン・ミリアは身を固くさせた。
「どういうことだ?」
まじまじと男を見る。
男はそんなファン・ミリアの視線には気づかず、
「ノルド様も奥様も、御家族ぜんぶ殺されちまったけども、タオ様だけは死体が見つからなかったそうだ。でっかい狼が持ってっちまったって噂もあるが」
そういうことかとファン・ミリアは納得した。
全体の一部分が切り取られて、それが定かではない噂となっているらしい。目撃者がいたのか、事実を知る者のうちの誰かが漏らしたのか。
「タオ=シフル」
ファン・ミリアがその名をつぶやくと、
「タオ様が生きておいでであれば、シフルもなんとかなるかなぁ」
男はぼんやりと宙に視線を投げかけている。
「タオ=シフルは、あなた方にとってどういう存在か?」
訊くべきか迷った。しかし、ファン・ミリアは訊かずにはいられなかった。
「なんともはや」
男は指で頭をかいた。
「お屋敷にいないことが多かったからなぁタオ様は」
「そうか」
ファン・ミリアは朗らかに笑う。聖騎士となるため、タオは長く修行に出ていたと聞いている。
「ただ、子供の頃はよく妹御と遊んでらっしゃった。元気なお子だったなぁ、犬みたいに……」
「犬?」
「いんや、犬っつうのは失礼なんだけどな」
男は照れたように笑う。
「犬っつうのは、一緒にいるときにひょいと場違いなほうを見つめることがあるだろ? そういうところがタオ様にもあったなあ」
「遠くを見ていた?」
「そんな感じかなあ。妹御とはしゃいでるときも、どこか静かだった。御父上のノルド様も物静かな方だから、そういう気質が似ていらっしゃるんだろうと話したことがあったなぁ」
なんちゅうか、と男は付け加えた。
「ここにいるようでいない人だったなぁ、タオ様は。放っておけないちゅうか、放っておかなきゃいかんっちゅうか。あんまりお屋敷にいなくても話に出ることは多かった」
「不思議な魅力があった?」
「まあ、そういうことなのかなぁ。跡目はタオ様でなく御長男なのはみんな知っていたけども、それじゃあタオ様はもう戻ってこられないのかと心配しとった」
そこで男はいったん言葉を切り、指先でぐいと乱暴に目頭をぬぐった。過ぎ去った時を想っているのだろう。ひょっとしたら男も身近な誰かを失っているのかもしれない。
「たしかに、あんたの言う通り不思議なお人だった。シフルがこんなふうになっちまって、タオ様もいなくなった。もしかしたら、タオ様がいなくなったからシフルがなくなっちまったんだろうか。……またお会いしたいなぁ、タオ様に」
ファン・ミリアは軒先から男を見送った。
どうせ誰も使わない小屋だから好きなだけ使っていい、そう言い置いて、男は雨のなかを帰っていった。
ゆっくりと息を吐き、振り返ると、奥に続くドアの前にティアが立っている。
「話は聞いていたか?」
ファン・ミリアが訊くと、ティアは黙ってうなずいた。
「彼のことをティアは知っているか?」
「ああ」
「会わなくてよかったのか?」
「私はタオじゃないから──でも」
ティアが、胸の上の服をつかむ。
「つぐなう方法が、思いつかない」