67 シフルⅠ
レミの山村を出て、シフルを目指す。
馬の背にレミを乗せ、ティアとファン・ミリアは歩きの旅である。
街道を南に折れて野道に入る。
人目がないのをたしかめてから、ティアはフードを上げ、やや乱暴に手ぐしで髪をといた。春のさかりを過ぎ、月はうすい雲に隠れている。芽吹いた草はすでに高く、深く息を吸えば、野花のかおりが濃い。季節は夏にむかっている。
もともと話すことができないレミを別にして、これまで他愛もない会話をしていたふたりも、シフルが近づくにつれて口数が減っていた。
──すべてがはじまったシフルへと帰っていく。
その言葉ばかりが浮かぶ。
シフルで死に、朽ちた教会で吸血鬼として復活した。亡きタオの夢の欠片にすがって王都を目指した。失われたタオの夢と、新たに得たものと……。
自分が逃げ出した場所へと帰る旅だ。
同時に、ティアがティアとして世界を見る旅でもあった。
◇
明け方ごろ、細かい雨が降った。
予定通り最後の村に到着した三人は、早々に投宿する。
貧しい村らしく、木組みの寝台には敷きつめた藁に敷布がかけてある。ティアは湿った上着を脱いで、まずレミの身体を拭いてやった。
バンシーがそういうものかは知らないが、レミは大人しい。言葉を失っているため静かなのは当然として、表情自体も変化にとぼしい。
ティアにはきわめて従順で、座れといえば座るし、立てといえば立つ。ファン・ミリアに対しても味方と認識しているようだ。
「仲のいい姉妹に見える」
ティアの背後で、着替えをしながらファン・ミリアが言った。
「タオには姉も妹もいたからな」
ティアが何気なく返すと、背後の衣擦れの音が止まった。
「お会いしたかった」
ファン・ミリアの言葉に、ティアは振り返った。うすい肌着に、ファン・ミリアのほどいた髪が無造作にたれている。
「姉と妹に?」
「他にも御家族と」
まじまじと見返すティアに、ファン・ミリアは怪訝顔を作る。
「何かおかしなことを言ったか?」
「いや──」とティアは笑う。「もしサティを紹介したら、天地がひっくり返る騒ぎになりそうだ」
「過言だ。私のほうが緊張する」
「普段、団員の家を訪ねることはあるのか?」
「あると思うか?」
思わない、そう言って、ティアはファン・ミリアに手を伸ばした。その手を、ファン・ミリアが掴んでくる。ティアが引き寄せようとすると、ふいにレミが立ち上がった。扉に顔を向ける。その後で、ティアとファン・ミリアも気づいた。
「さすがに家のなかではバンシーが早い」
鎧兜のがちゃがちゃとせわしない音が、こちらの部屋にむかってくる。
「衛兵か。サティは寝台に隠れていたほうがいい」
「わかった」
ふたりの意思疎通は早い。
ドアが叩かれた。
「開けろ。旅券を改める」
威圧する声に、「いま」と、ティアはファン・ミリアが隠れるのを待って、ゆっくりと扉を開いた。
「何か?」
髭面の男と、それよりも一回り若い男のふたり組である。
ティアの髪先から水滴が落ちた。先にレミを拭いてやったためだ。袖のない両肩から、白い腕があらわになっている。
目の前の男にティアが顔をあげると、男の瞳孔が広がった。同時に、喉仏がこくりと動くのもわかった。生唾を吞んだ、というやつだろう。
「何か?」
重ねて訊くと、衛兵は我に返った様子でティアの手首をつかんできた。
「旅券を改める」
「手首をつかむ必要はないはずだが」
言い返すと、髭面の男が迫るように部屋に入ってきた。
「もうひとり女がいたはずだ」
後から入ってきた別の男が、レミを見ながら後ろでにドアを閉める。
「出かけている。──部屋に入るのを許した覚えはないが?」
非難をこめて告げたものの、衛兵は「それがどうした」と、もう一方の手首も掴んでくる。
「問題になるぞ」
警告を伝えてやっているにも関わらず、衛兵に動じた様子はない。
「はじめからそのつもりで来たらしいな」
ティアの言葉に衛兵がにやりと笑った。体臭に酒のにおいが混じっている。
「これがお前たちの仕事か?」
「黙れ。ここに残って俺の女になれよ」
「女を口説く文句には聞こえないが」
ティアが冷たく言うと、胸を鷲掴みにされた。酔って気が大きくなっているのか、これがもともとの本性か。どちらにせよ不快である。
ティアは男の手首を掴み返した。
「な──っ!」
男が宙を回り、背中を床に打ちつける。
「貴様!」
もうひとりの男が襲いかかってくる。ティアの灰褐色の瞳が、にわかに赤く変じはじめる。男の瞳が、そして全身が固定されたように動かなくなった。
『そこに立っていろ』
低く命じておいて、床の男に視線を転じた。
「民にすることか?」
氷肌の顔貌に怒りをにじませ、ティアが問うた。
「お前たちはいったい何を守っているつもりだ」
男はうめき声を漏らし、引きつった表情でティアを睨みあげてくる。
──恐怖。怒り。
そして……。
ティアは男の瞳の奥に、絶望を見た。
「お前……」
するどく息を吞んだ。ティアの赤く染まりはじめた瞳が、灰褐色に戻る。
「ば、化け物だ!」
力が解けたのか、立たせておいた男が部屋を走り出ていく。が、ティアは目の前の男から視線を外すことができなくなっていた。
「お前は、シフルの……」
間違いない。
髭のせいでいくぶんわかりにくくなってはいたが、シフルの領兵だった男だ。
シフル、というティアのつぶやきに、男がぎょっとする。
「……なぜだ」
ティアの声は震えていた。
ティアの脳裏に、いつか見かけた男の笑顔が浮かんでいた。シフルの領民から、彼は慕われていた。
「絶望がお前を変えたのか」
相手に言うでもなく、ティアはつぶやく。
「私の……せいなのか……」
呆然としたティアの表情に、男は我に返ったようだった。ティアを乱暴に払いのけ、先の男同様、部屋を走り出ていく。
よろめいたティアは、背中を壁に預けた。
「ティア……」
ファン・ミリアが心配そうに敷布の下から出てくる。
座り込みそうになるのを、耐えた。
「私のせいだ……」
絞り出すような声音でつぶやく。
タオではなく、自分の。
激しい悔恨に襲われた。
シフルに戻らなかったツケが今、ようやく自分に追いついてきた気がした。
「ティア、ちがうぞ」
ファン・ミリアが声をかけてくる。
「シフルの人々を傷つけたのは、ウラスロ王子だ」
「ちがう」
ちがうことを、ティア自身が一番よくわかっている。
「私が弱かったからだ……」
両手をゆるゆると持ち上げ、顔面を覆う。
敵がいれば戦える。
何度でも立ち上がってみせる。
だが──
自分の弱さと戦うには、どうすればいいのだろう。