65 オルバサスにてⅡ
「無駄に広いな」
呆れて出た言葉が反響する。
大浴場である。
だが、カホカ以外に人はいない。貸し切りだった。
広い浴槽に湯が張ってある。
「北は寒いからな」
ひとりで納得して、お湯をかぶる。身を清めてから、浴槽につかった。
ここで、カホカは不思議なことに気がついた。
「お湯が浅い」
小振りなカホカでさえ、胸に届かない高さである。湯が熱めなので寒いとは思わないが、わざわざ浅くする必要があるのだろうか。節約のためかとも思ったが、それなら浴槽をちいさくするのがまず先だ。
「金持ちの考えてることはわからん」
両手でじゃぶじゃぶと顔を洗っていると、人の気配を感じた。ふたり。そのうちのひとりが、浴槽に入ってくる。顔を洗っているカホカの横を通り過ぎて、向かい側を背にして座る。
「私、鴉なのよ。すぐにのぼせてしまうと、話ができないでしょう?」
間延びた声が大浴場に響く。
カホカは、顔をふった。
「アンタが北の親玉のアルテンシア三世だな」
湯気の向こうに告げる。
「面白い言い方ねぇ。そう、私が北の親玉よぉ」
ばあ、と女は両手をこちらに広げてくる。ゆったりと身体を寛がせ、裸の女が不敵な笑みを作っている。すぐ後ろでは薄衣に眼鏡の従者が、主人の黒金髪を丁寧にまとめていた。
「これがペシミシュターク流の歓待ってわけ?」
屋敷に入る前、ウィノナの言っていた『驚くなよ』というのはこのことらしい。
「裸の付き合いよ。虚心坦懐にお話しましょうって感じかしらねぇ」
「ふーん」と、半眼になってカホカ。「で、どんな話がしたいわけ?」
しかしアルテンシアは答えない。顔に笑みを貼りつけたまま、じっとカホカを見つめてくる。
「あんだよ?」
「居場所を見つけたルーシ人は幸せね」
「……どういうことだよ?」
「昔、知り合いから教わったの。まつろわぬ民(国家に従わない民)は大別して二種類あるらしくってね。一つ目は、まつろわぬことが己の存在証明であること、もう一つが、すでにまつろう対象を見出しているもの」
「ありがたい講義はよそでやってよ」
「あら、残念だわぁ。ティアーナ=フィールとの恋を成就してあげようかと思ってたのにぃ」
むぐ、とカホカは唇をへの字に曲げる。
それを見たアルテンシアが「あらぁ」と、目を丸くした。
「ウィノナからカホカ=ツェンが恋煩いしてるみたいって聞いたけど、本当なのね。しかもティアーナ=フィールが相手だったなんて」
「は?」
意味がわからないカホカに、アルテンシアは口元を隠して笑う。
「カマかけてみたのよぉ。他に該当者が見つからなかったからぁ。消去法ね。カホカ=リュニオスハートとタオ=シフルは元許嫁同士だっていうじゃない」
カホカは無言で唇をとがらせた。
「まぁま、その話はいったん措きましょうか」
アルテンシアは柔和な笑みを浮かべる。
「ソムル様の護衛を引き受けてくれたこと、東ムラビアの公女として感謝の念に堪えないわ」
瞳を細めるアルテンシアに、カホカはそっぽをむいた。その態度が気に入らなかったのか、後ろの従者が何かを言いかけようとしたころ、アルテンシアが「気にしないわ」と手で制した。
「私がいつもしていることだもの」
「アンタたちの恩を受けるかどうかは、アタシが決めることじゃない」
「ええ、聞いてるわ」
アルテンシアは、カホカをぶしつけなほどに見つめてくる。
「だから、なんなんだよ? こっち見んな」
「元気な黒猫って感じねぇ。妾腹の子とはいえ、自らの意思で貴族の家を出たあなたのこと、気になっていたのよ。もしあなたが高祖母のマイヨールに受け入れられず、またティアーナ=フィールに巡り合わなければ、私が声をかけていた自信があるもの。生きていてくれていれば、という話だけどねぇ」
「知らんけど。後から言っても意味ないだろ、それ」
「その通りなのよぉ。いいところに気づくじゃないの」
アルテンシアは、にっこりと笑う。
「後でね、この私が、『あちゃ~』って思ったものだわ。『こんなことになるなら、もっと早くに手をつけておけばよかったわぁ』なんてね。気づいた時にはカホカ=ツェンの価値は暴騰していたのよ。本当にね、どれだけ潤沢な種銭があっても、買い時を逃すと二度と手に入らないものはあるんだなぁって、反省したの」
「へぇ」と、カホカは皮肉っぽく笑う。
「アンタみたいな賢い女でも反省するんだ?」
「オルバサスでは、他人の失敗を嘲る者には死罪をくれてやるの」
「……まじ?」
「もちろん冗談よぉ。でも、そういう気概を持ちなさいということね」
アルテンシアは笑いを噛み殺して、言った。
「結局、ティアーナ=フィールがそれだけ強い引きを持っていた、ということね」
アルテンシアは機嫌よさげに水を掻く。ふたつのゆるやかな波紋が起こった。
「時代が巡り合わせるのかしらねぇ。ティアーナ=フィールは、カホカ=ツェンが必要だったということね」
その言葉に誘われて、カホカはアルテンシアを見た。
「組織というものを飛躍させるにはね、その頭である人間の素養はもちろんのこと、二番目にあたる人物の助力が必要不可欠なのよ」
「……二番目」
「特に吸血鬼であるティアーナは、昼間に動きが取れないのでしょぉ? その間、自分を守ってくれる存在が必要だったというわけねぇ。絶対的に信頼できる者、場合によっては、自分自身よりも信頼できる者、そして、自分が不在の間も安心して組織を任せることができる者、そういった人物が、どうしても必要だったということ。この二番目を見つけることができれば、組織はたいていうまくいくものなの」
「もし、二番目がいなかったら?」
「そういう事態にならないように、あらかじめ序列を設けておくのが通常よねぇ。国であれば、公・侯・伯・子・男、かしらねぇ。爵位は国に対する貢献度、ひいては王に対する忠誠度とも考えられる。あるいは、その体制を維持する寄与度といったところかしら。だから、これが小組織の場合、一番目と二番目がなんらかの理由によって不在になると、即座に機能不全に陥る危険が高い」
カホカは黙り込んだ。すると、
「あなたが考えている通り、鷲のギルドがまさにこの状態だったというわけ」
こちらの思考を読むように、アルテンシアは説明する。
「レイニー=テスビアとサーシバルが幽囚の身となり、鷲のギルドは壊滅寸前だった。幸運だったのは、三番目であるディードリッヒの尽力によって瓦解をわずかに遅らせることができたこと。その間に、カホカ=ツェンという助力者がサーシバルを奪回したこと」
ここで、とアルテンシアが人差し指を立てた。
「ひとつの問い掛けができそうねぇ。──鷲のギルドと敵対関係にあった蛇のギルド。私たちが蛇と呼ぶこの集団。ティアーナ=フィールによってその首魁は斃されたと聞いたけれど、視点を変えて組織としてはどうかしら? 頭を失ったことにより、即座に機能不全に陥ったのかしら」
しばらく考えて、カホカははっとした。
「まさか、二番目がいるってこと?」
「どうなのかしらねぇ」
アルテンシアは、うつむき加減にお湯で遊ぶ。
「最近になって──といっても、『レイニー=テスビア脱獄事件』の直後という話なのだけど、王都では影のような蛇に操られた者が、住民を襲う事件が頻発しているらしいのよねぇ」
「それって、蛇のギルドの奴らの?」
アルテンシアの腕が止まった。榛色の瞳に光が宿る。
「被害者に、いまのところ明確な相関は見えていない。──あなたから見て、暴漢の行動は計画的に見えたかしら?」
訊かれ、カホカは考える。
「あー……たしかに」
心当たりがあった。
「蛇の奴らはたぶん、あたしたちを狙っていた。でも、実行犯ってやつ? は、その蛇の影に無理やり操られている奴らだった」
カホカがかいつまんで説明すると、アルテンシアはすぐに理解した様子でうなずいた。
「計画した者が他にいるということね」
「そうだと思う」
「でもねぇ」
アルテンシアは思案顔である。
「これまでの被害者は明らかに蛇との関連のない住民もいた……」
「それって、つまり──」
カホカは気づく。
「本当に狙ってる人を隠してるってことじゃないの? 無関係な人も襲って」
すると、アルテンシアが意味ありがに微笑んだ。
「試すなよ」
カホカは不機嫌そうな表情を作る。
「別にアンタに認められなくたって、アタシにはどうでもいい」
「促してみたのよぉ。組織の二番目はきちんと見ておかなくちゃねぇ」
べぇ、とカホカは舌を出す。
笑みを残したまま、アルテンシアは続ける。
「まったく大した集団じゃない。ここにいたっていまだ一番目が何者だったのかが明らかとなっていない上に、二番目の情報さえもが出てこない。いいえ、むしろ一番目の存在をちらつかせることで、二番目こそを隠すのが真意なのではと疑いたくなるくらい」
「……本当に二番目はいるわけ?」
「よくわからないのよねぇ、それが。けれど、私たちは二番目が『いる』と踏んだ。その仮定で考えたほうが、つじつまが合うのよ。でも何かが……何かがこの組織はおかしい。私がまだ見えていない部分がある。だからこそ、ソムル様をオルバサスにお招きしたというわけ。言葉としておかしいのだけど、表向きは『お忍び遊学』としてね」
「……アタシたちは、鷲の味方だからね。蛇は気に入らない」
カホカは、ざばりと立ち上がった。
「でも、何度も言うようだけど、決めるのはアタシじゃない。アタシはアンタに恩を売ったけど、返してもらうかどうかを決めるのも、アタシじゃない」
「ええ」
「なら、話はそれからでもいいでしょ」
一方的に話を終えて、カホカは浴槽から上がって大浴場を出ていこうとする。
「──約束通り、あなたの恋を成就させる助言をしてあげるわねぇ」
アルテンシアは、むしろ機嫌よさげに告げる。
「時間をかけなさい。一年でダメなら十年、十年でダメなら二十年。二十年でダメなら五十年。五十年でダメなら百年。投資でもっとも確実に勝つ方法は、時間を味方につける、ということ。苦しみを胸の底に沈めて、いつか浮かぶ瀬もあるでしょう。あなたたちの守護者はとても賢い女性よ」
カホカはそのまま大浴場を出ていく。
◇
アルテンシアは、浴槽の縁にもたれかかった。ちいさく声を漏らして笑う。
「アル様?」
ここまで上機嫌な主は珍しい。プラム=リーが尋ねると、
「あの子、すこしプラムに似ているわねぇ」
「私に、ですか?」
「権力が大嫌いなのよ。というか、権力を笠に着てふんぞり返っている連中が気に入らないのね。過去にずいぶんと嫌な目にあったのでしょうね」
その言葉に、プラムは渋面を作る。図星ではあった。
──でも、と内心で反論しかけたところ。
「でも、相手を認めると一途なのよねぇ。口ではなんのかんのと言いながら」
アルテンシアが、顔を逆さにこちらを見上げてくる。
「どうでしょうか」と、プラムは主の視線から逃げた。
そうしながら、プラムは思い出していた。アルテンシアにはじめて出会った時、プラムはたしかに、アルテンシアに敵意を剥き出しにしていた。それに対して、アルテンシアはひどく楽しそうだった。嬉しそう、と言えるくらいに。
プラムの生まれた国は貧しく、戦争が絶えなかった。
貧困と絶望のうちに難民となり、行く先々で激しい差別を受けた。
他者を信じることは自身の生命を危険に晒すのと同義だった。
だまして、盗んだ。傷つけて、奪った。自分の身体さえ使った。
そうすることで日々の生きる糧をつないだ。
『──弱き者よ』と。
権力者だけではない。
すべての者に不信を抱かずにはいられなかったプラムに、アルテンシアは詩を吟じるように言ったものだ。
『呪うのではなく戦いなさい、己の運命と。
恨むのではなく誇りなさい、己の生い立ちを』
何度も。プラムがうんざりするくらい、アルテンシアは折りに触れてその言葉を口にした。プラムが暗い目を主に向けるたび、何度も言い聞かせられた。
プラムの頭に、胸に、魂にしみ込ませるように、何度も、何度も。
やがて、暗く澱んだプラムの目が、明るく澄みはじめたころ、アルテンシア専属の付き人に取り立てられた。
『──あなたには素質がある』
その初日に、プラムは主からそう告げられた。
『虐げられた者は、その理不尽さ、不条理さを身をもって知っている。どん底から這い上がったあなたなら、その方法を他人に教えることができるでしょう。あなたは多くの人を救うことができる。私はそう信じている』
その榛色の瞳に迷いはなかった。
『だから、私の側で多くを学びなさい』
今ならわかる。アルテンシアは、自分に人間の尊厳を与えてくれたのだ。
「カホカ=ツェン。アル様の気に入りそうな者ではありましたね」
今度はプラムがつついてみると、
「まあねぇ。でも、私はウィノナとちがって人のものに興味はないの」
それでも楽しそうに返してくる。
「──恐れながら」
と、ここでプラムは意を決して聞いてみる。
「アル様は、ティアーナ=フィールになぜあのような扱いを」
さきほどのカホカに対する鷹揚な態度とは対照的である。
「どうしてかしらねぇ」
アルテンシアは、ゆったりと二の腕に湯をかける。
次の言葉を期待したプラムだったが、結局、アルテンシアは何も言わなかった。