62 月とアメジストⅩ
夜明け前。
寝台から起き出したファン・ミリアが教会に向かうと、衝撃的な光景を見た。
ティアが、両手を樽のなかにつっこんでいる。
手でも洗っているのか。
当然、そう思った。
しかし、水は魔物である。いかに吸血鬼といえども賢明とは言えない行為だ。
これは注意を与えなくてもならない。
指導だ。
指導の時間だ。
うきうきした心持ちでティアに近づいていくと、目が合った。
ティアが両手を持ち上げる。
次の瞬間──
ばっしゃあ! と。
水しぶきを上げ、両足首を掴まれたレミが逆さに吊り上げられた。
「な、にぃ!」
だらりと両腕を伸ばし、逆さになったレミの大きな瞳が、ファン・ミリアをすんと見据えている。
絵的に怖い。
「なぜだ。罰か?」
ファン・ミリアが身構えて訊くと、
「いや」
と、再びティアはレミを水のなかに沈める。
「おい、やめろ」
ファン・ミリアが止めに入ると、
「いや、ちがうんだ」
ばっしゃあ! とバンシーが吊り上げられる。
「レミを洗っているんだ。ずいぶん汚れていたから」
「言い訳が苦しいぞ」
「本当なんだ」
ティアは淡々と答える。逆さになったレミが、にたりと笑った。
「なんだその表情は? うすら寒いぞ」
「楽しいらしい」
ティアが、疲れたようにレミを床におろした。
「樽のなかにレミの声をぶつけた。この樽のなかの水は無害だ。で、思いのほか水が澄んでいたので、飲んでみたら真水だった。水は貴重だろう?」
それでレミを洗うことを思いついたらしい。
レミはふるふると顔をふって水気を払っている。たしかに汚れを落とした少女は、銀髪ともあいまって、輝くような愛くるしさをまとっている。
少女が、にたりと笑みを浮かべた。大切な愛くるしさが不気味さに反転する。
「ティア、この笑いをやめさせろ」
「いや、私がさせているわけじゃないし」
声も出さず、レミはくつくつと肩を揺らしている。
驚愕してファン・ミリアが見つめていると、
「私は眠る」
ティアがあくびをした。
「レミには力の配分を教えたから、むやみに泣くことはないだろう」
夜通し教えていたらしい。ティアはかなり疲れた様子で、おやすみ、と教会を出ていく。
残されたのはファン・ミリアと、うつむき加減に肩をふるわすバンシーである。
「……まだ笑っているのか」
あの水責めにどれほどの魅力があるかは不明だが、本人が楽しいなら仕方がない。
ファン・ミリアは溜息を吐いて、
「せっかく綺麗になったんだ。服を着なければな」
レミは裸の上に襤褸をひっかけているだけである。
もとは人間である。しかもここはレミの生家だから、彼女の服を探すのに苦労はなかった。
一番新しい服を選んで着せてやると、ぴったりと合った。村がいつ滅んだかはわからないが、バンシーになったことでレミの成長も止まってしまったらしい。
そういう悲しみを抱きながら、ファン・ミリアはレミに服を着せ、靴をはかせた。銀髪を高いところでまとめてやると、かなり見栄えのする格好になった。
その間、レミは嫌がることもなく、かといって、喜ぶこともなかった。それが、もともとの少女の性格なのか、それともバンシーという種族に由来しているのか、ファン・ミリアには知る由もない。
◇
それから数日、樽のなかに溜まった魔物を、レミの声によって浄化させた。
地味な作業だったが、もっとも安全で、確実な方法である。
やがて周囲から魔物の気配が完全に消えたの見計らって、葬送の儀を執り行うことになった。
ファン・ミリアが檀上に立つ。
戦装束の凛々しい姿ではない。簡素な身なりに、ずっとそうしてきたような自然さで、朗々と、石の教堂に落ち着いた声が響く。その声は硬い床に置かれた幾体もの骨にしずんで、聖女の奇跡を起こした。
死体から光が浮かび上がってくる。
ひとつひとつの弱々しい光が、堂内をあわく照らしながらのぼっていく。
ファン・ミリアの声に促されて。
強く詠み上げるでもなく、ただ静かに。けれども聞き取ることができる声で。言葉で。
閉じた瞳のまつ毛が影を作っている。
「光が還っていく……」
そのティアの隣では、レミが光を見上げている。まばたきもせず、じっと。
光は一粒一粒、天井に吸い込まれるように消えていく。
魂か。
かつて命だったものか。
その光は、侵すことのできない聖性を放っている。
「すごいな、聖女は……」
ティアは感慨を込めてつぶやく。
ファン・ミリアの祈りに導かれ、天へと昇っていく光を見ていると、人の生がけっして無意味ではなかったということを教えてくれる。
蹂躙され、不当に奪われた命であればこそ、安らかであってほしい。
ティアがそう願うように、ファン・ミリアも同じ想いを抱いているのだろうか。
光が天井へと消えていく。
そこでティアは気づいた。ただ静かに、隣で光を見上げていたレミが、涙を落としている。じっと、食い入るように光を見上げながら……。
ティアは、レミの頭をくしゃりと撫でた。
かける言葉は思い浮かばなかった。
幼くとも英雄だ。褒め言葉であれ、同情の言葉であれ、少女の気高さにはそぐわないと思った。
ファン・ミリアの祈りに包まれながら、ティアはちいさな手を握って、最後の光が消えるのを見ていた……。
そして……。
霧が晴れて、夜空にうすい月がかかっている。
「レミはどうする?」
村人たちと別れ、ひとり残ったバンシーにティアは尋ねる。
正直なところ、村人の魂が解放をされることによって、レミは成仏をするものだと思っていた。が、よくよく考えてみれば、レミはバンシーであって、幽霊ではない。吸血鬼が人の血をすする者であるように、バンシーもまた、人の家に憑くことを宿命づけられている。
そう考えてみると、吸血鬼も、バンシーも、人に寄生することで命を永らえる哀れな存在である気がした。
人に恐れられる化物でありながら、人なしでは生きていけない存在。
「このまま教会に残るか?」
ティアが訊くと、レミが首を横に振った。
「私たちと来るか?」
レミはうなずいた。
「そうか」
ここでレミを残していくのも後味が悪い。内心で安堵をしつつファン・ミリアを見ると、ちいさく肩をすくめただけだった。任せる、ということらしい。
──ありがとう、サティ。
心のなかで礼を言った。
「それなら──」
ティアは、レミの前に跪いた。
「これからよろしく頼む」
同じ視線の高さで、言った。