61 月とアメジストⅨ
ティアの肩に乗るバンシーの少女──レミが、ぱかりと口を開いた。
「待て待て待て」
あわててティアはその口をふさぐ。
「いきなり力を使おうとするな」
それが面白いのか、ティアの手を甘噛みしてくる。
しかし、とティアは教会の上空に漂う霧を見た。
「あの霧をどうやって退治したものかな」
悩みどころである。
バンシーの泣き声が有効であることはわかっている。だが、それだけで十分であれば、すでに退治されているはずだ。
「サティ──」
ティアが意見を求めると、ファン・ミリアは馬に手をやりながら、
「私は思うのだが」
と、考える様子で言った。
「霧のなかを歩くと濡れるな」
「うん?」
話の意図が見えない。
ファン・ミリアは言葉を探し探し、続けた。
「つまり、霧は空気とはちがうものらしい。──ティアは黒い霧になるが、あれはどうなんだ?」
「……どうといわれても」
はっきりと自覚しているわけではない。吸血鬼として備わっていた能力だ。
「空気に自分を溶かす感覚だな。霧になっている最中にはっきりした意識があるわけじゃない」
ここに行こう、という移動の手段で使う能力である。
「ただ──」
と、ティアはふと気づいた。
「言われてみると、自分が空気そのものになる感覚とはちがう気がする」
「それは、水──液体になる感覚ではないのか?」
「ああ、たしかに」
ファン・ミリアの指摘はティアの感覚に遠くない。
「化物は死に際は黒い水になるしな。イスラは霧ではなく水になることに長けていたようだ」
「そうすると、ティアはあの霧をどう見る?」
改めて訊かれ、今度はティアが考える。しばらくして、
「水という感覚は正しいのかもしれない。だが、異なる部分もある」
ティアは言った。
「まず色だ。私は黒い霧にしかなれないが、あれは白い」
「なぜ?」
「擬態だろうな。本来の霧と見分けがつかなくするため。捕食のためだろう。あと、ちがうのは範囲だな。私はこの霧のように広範囲に広がることはできない。たぶん、霧を広げすぎると自分がよくわからなくなって、目的を失う」
「死ぬということか?」
「そこまでではないだろうが。本来の『移動』という目的を忘れて、元の姿に戻るとか、そういう感じだたと思う」
「実は、この霧が何かしら化け物の変化した状態という可能性は?」
「ない」
ティアは言い切った。
「私がそうであるように、霧化の目的は移動か、それに伴う回避だ。この霧のように複雑なことはできない。仮にそれができる化け物がいたとして、余程の力を持つ者だし、いまの状態でも力の片鱗が残されているように思う。レミには申し訳ないが、バンシーに撃退できるとは思えない」
話を理解しているのかいないのか、ティアの指を甘噛みしていたレミが、ぱかりと口を開いた。
「だから、むやみに力を使うな」
もう一度レミの口をふさぐ。それが楽しいのか、レミはひとりで喜んでいる。
つまり、とファン・ミリア。
「あの魔物は霧が常態で、本物の霧に紛れながら、魂を食い物にする、ということでいいか?」
「そうなるな」
ティアがうなずくと、ファン・ミリアは眉を開いた。
「決まった。思ったよりも早くあの魔物を退治できそうだ」
さすがは化け物退治の専門家といったところだろう。
ファン・ミリアはまず、魔物の捕食本能に着目した。
霧は教会の尖塔に迫っていた。
「霧が明確な思考を持っている可能性もあるが、バンシーから何度も撃退されていたことを考えれば、その可能性は低いだろう」
ファン・ミリアの指示を受け、ティアは村から何本もの樽を集めた。それを教会内部の天井、尖塔から続く穴の下に設置する。
「サティ、準備できたぞ」
レミを肩車したまま、ティアもまた尖塔へと飛び上がった。
四隅を柱によって支えられた尖塔の屋根、そこから吊り下げられた鐘の下にファン・ミリアがうずくまっている。
「何をしているんだ?」
ティアがのぞき込むと、ファン・ミリアは床の一部に穴をあけ、そこに、何やら光る糸を張り巡らせていた。
「光糸か」
それを縦と横に細かく張り巡らせて光の網を作っている。作業が終わると、ファン・ミリアは立ち上がった。
「こちらも準備は完了だ。ティアとレミは下で待っていてくれ」
一刻あまり後、
ティアとレミが言われた通りに内部の樽の前で待機していると、再び霧の魔物が迫ってくる感覚に襲われた。
反射的に、レミが外に走り出ようとする。
「ここで見てるんだ」
すかさず手を取り、レミを抱きかかえた。レミが激しく抵抗した。ティアの手に噛みつき、それでも離されないとわかると、すかさず口を大きく開く。ティアはあわてて口をふさいだ。
「気持ちはわかるが、もうすこしだけ我慢してくれ」
戦って、ずっと村を守り続けてきたのだ。ティアの手から逃れようと暴れるレミを、なんとか宥めすかしていると、ポタリ──と。
尖塔に続く天井の穴から、水滴が落ちてきた。それが、真下の床に置かれた樽のなかに溜まる。
「レミ、見てみろ」
ティアはレミを後ろから抱き上げ、樽の中を見せてやる。
ポタリ、ポタリと、霧が大粒の水滴となって樽のなかに落ちてくる。
「これがお前の敵だ」
これまでとはちがう何かが起こっている。そのことに気づいたレミが、ようやく暴れるのを止めた。樽の縁をつかみ、興味津々の顔でのぞき込んでいる。
「溜まったら、この水にむかってレミが泣き声をぶつけるんだ」
ファン・ミリアが光の糸で編んだ網。これに霧を通して水滴をまとめ、それを下の樽で溜める。溜まった水(魔物)を攻撃する。
理解したらしいレミをおろすと、ファン・ミリアが戻ってきた。
「首尾は?」
「上々だ」
ティアが応える。
「だが、すこし時間がかかりそうだ」
霧がどれだけの水量になるかはわからない。その度に樽を変える必要があった。
また、実際にとりかかってみたなかで、もっともてこっずたのが……。
「レミ、もうすこし待て」
バンシーの習性か、どうしても攻撃したがるレミの問題だった。
しかも、力の配分を知らないらしく、常に全力を出そうとする。
「戦士はそうでなくてはな。見上げた根性だ」
うんうんとファン・ミリアは満足そうだが、ティアはたまったものではない。
「自分はラズドリアの盾で防御できるからって……」
不平をこぼしても仕方がないので、水が溜まるまでの間、夜通しレミに力の使い方を教えてやることにした。
その間、ファン・ミリアは手持無沙汰になる。
「交代で休もう」
ということになった。当然、夜の間に休むのはファン・ミリアである。
◇
教会に付属した住居施設で寝支度を整えた。
寝台に横になる。すると、
「──ぎえっ」
「ぎええ……」
「ぎ……ぎえ……えええ……」
教会のほうから、ティアに教えられているらしいバンシーの泣き声が聞こえてくる。しかも聞こえてくるのはバンシーの泣き声だけでなく、それを真似したティアの声もだった。
「なんの儀式だ?」
つぶやいて、ファン・ミリアはくすりと笑う。幼いバンシーに教える吸血鬼の姿が、まざまざと脳裏に浮かぶ。
すこし前までは、想像さえできなかった光景だ。
──化物は人間に仇なす者。
凝り固まっていた頭が、この旅でずいぶんとほぐれたように思う。
──敵とは何か。
自らが属する『国』によって滅ぼされた村でファン・ミリアは想う。
戦うべき相手。
ティアという存在。
ティアもファン・ミリア同様、いったん敵と認めれば闘争心を剥き出しにして戦う。その一方で、敵だった者を惹き込んで味方にしてしまう。人に依らず、人外に依らず……。
他者を魅了する吸血鬼の能力。
そういうことなのだろうか。しかし、いつかファン・ミリア自身がルクレツィアに説明したことではあるが、『魅了』という魔法は、それほど劇的なものではない。極端な話、美男美女であれば持っている能力であるとさえいえる。
これまでの旅で、ファン・ミリアはティアを見てきた。
だからこそ言える。
短期間で心を掌握してしまうのは、また別の能力だ。すくなくとも、ティアは仲間を見出す際に、魅力という魔法を意識的に使ったりはしなかった。
それがつまり、吸血鬼の『真祖』の能力なのだろうか。
真祖としての才能。
『──私の目に狂いはなかった』
黒狼イスラが消える際にティアに告げた言葉。
ティアには何かがある。
それを、黒狼は正しく見抜いていたのだろう。
──ティアとは何者なのか。
黒狼は、ティアに何を見たのか。
一柱の神がそのほとんどの力を費やしてまで、なぜティアを守ったのか。
「シフルまでに、私は見極めなければならない」
知りたい。
知らなければならない。
この村を出て、山を越えれば、シフルはもう遠くない。
「シフルまで……」
自分に言い聞かせるように、ファン・ミリアはつぶやいた。