60 月とアメジストⅧ
黴と埃、そして、建物ぜんたいにしみ込んだ腐臭が堂内に満ちている。
凄惨な光景……ではあるのだろう。
けれどもそこは、ティアが思っていただけの光景でもなかった。
信者席はすべて壁際によけられている。そうして開いた空間、その床に、白骨化された死体が整然と並べられていた。
たしかに恐ろしくもあり、不気味でもある。
ティアは、床いっぱいに並べられた人骨を踏まないよう、その隙間をゆっくりと歩いていく。
人骨は一部が欠けているものもあった。
頭、腕、足。
「殴られ、折られた者……」
青い光をまとうファン・ミリアが、かがんで死体の様子を調べている。
ティアは立ったまま、言った。
「斧槍だ」
ファン・ミリアから否定の言葉はなかった。
「この村は、ウラスロと特務部隊によって壊滅した」
不快さを隠さず、ティアはつぶやく。
「あの男は、いったいどれだけ自分の民を傷つければ気が済むのか」
怒りよりも、悲しみがティアの胸を支配していた。
たとえウラスロが操られていたとしても、無念は残る。民に罪はないのだ。
それ以上に気がかりな点があった。
「国の王子の悪逆を、なぜ誰も止めないのか」
「……王は、病床に臥せっていると聞く」
弱々しい声音でファン・ミリアが応える。
「では誰がこの国の政を取り仕切っているんだ」
「宰相府」
「中心は?」
「コードウェル。現当主はノーマン=コードウェル。現宰相でもある」
「ノーマン=コードウェル……」
ティアは、かつてレム島で見た夢を思い出していた。
ティアが知るのはラシード=コードウェル。コードウェルを宰相の家系に、公爵家に飛躍させた人物である。
そして……ティアはあの不遇の王を想う。
──イグナス。いや、ミドスラトス。
お前の身を焼いた復讐の炎は、いまもお前の国を燃やし続けているのか。
「サティ」
ティアの脳裏にはまた別の者も浮かんでいる。
「ペシミシュタークも宰相府の成員に入っているのか?」
「入っている。が、ペシミシュタークは中央から遠ざかっている。遠ざけられている、と言うべきかもしれないが」
「……そうか」
ティアは、教会のステンドグラスを見上げた。
新月のため光はなく、暗い。
それでも見下ろせば、床一面に敷かれた骨の白さに目が痛んだ。
哀れな人骨たち。
それでも、すこしだけ、ほんのすこしだけ救われた気持ちになるのは、その骨が丁寧に安置され、その胸元で手を組みように置かれていたことだった。
すべて村人なのだろう。
人骨はそれぞれ家族ごとに分けられている。
「この教会は、真の荘厳さに満ちている」
ファン・ミリアが静かに告げる。
「闇のなかで、光にあふれている」
ティアとファン・ミリアの視線の先は、教会の奥──内陣に注がれている。
壇に上る短い階段に、バンシーが座っている。
「お前が死体を集めたのか?」
ティアが尋ねると、バンシーはまばたきをしない瞳で、すぐ下の床を指さした。
そこに、三体の人骨が並べられている。
男の骨、女の骨、そして子供の骨。
三人家族だったのだろう。
男の骨の脇には、聖職者が持つ杖が添えられている。
バンシーはそのうち、子供の骨を指さしている。
「この子が集めたのか?」
バンシーは、ティアを見上げる。じっと、ティアの瞳を見つめてくる。
「まさか──」
ティアに閃くものがあった。
「この子が、お前なのか」
こくりと、バンシーがうなずいた。
「喋れないのか?」
もう一度、バンシーはうなずく。言葉は聞こえるし、理解もできるが、話すことはできないらしい。
「バンシーは家に憑く」
言いながら、ファン・ミリアがティアの隣に立ち、バンシーを見下ろした。
「この幼子は、教会の司祭夫婦の間に生まれたのだろう」
すると、バンシーが檀上から飛び降りた。ファン・ミリアの袖口をつかむ。
「私か?」
驚くファン・ミリアの袖を引っ張り、バンシーは階段を上っていく。
そうして、ファン・ミリアを祭壇の向こうに連れていくと、袖を離した。
「どういうことだ?」
困惑するファン・ミリアに対して、下のティアはバンシーの意図を理解した。
「サティ、そこから何が見える?」
「何が……」
言われるがまま、ファン・ミリアは祭壇の奥から周囲を見回した。
「……白骨死体」
「そう」と、ティアはうなずいた。「バンシーは話せない。だから、サティにお願いをしているんだ」
「お願い……?」
「通常、そこに立つ者は誰だ? 何をする?」
ティアが問いかける。ややあって、
「……祈り」
ファン・ミリアの答えに、ティアは笑顔を浮かべた。
「バンシーはわかっているんだな。死者を送るのに、サティ以上の適役はいないことを。聖女である貴女に送り出してもらえば、旅立つ者が黄泉路を迷うこともないだろう」
「しかし──私はこの教会に属する者ではない。この教会に祀られる神を信奉する者ではない」
戸惑いを隠さず、ファン・ミリアはバンシーに尋ねる。
「私でいいのか?」
バンシーはこくりとうなずく。
「本当に、私でいいのか?」
バンシーは、まばたきもせずにうなずく。
「いいんだ」と、ティアも口添えしてやる。
「たとえ信じる神がちがっても、死者を弔う気持ちは同じだから」
「そうだな……」
ファン・ミリアはうなずき、目を閉じた。きつく。
「……いったい、この者たちの何が異端なのか」
押し殺した声音でつぶやく。
「幼子でさえわかることを……」
怒りと悔恨に満ちた声だった。
その時、ティアの背筋に悪寒が走った。その一瞬間後に、熱い血が血管をのぼって、頭の横側あたりをぴりぴりと痺れさせる。
闘争本能が呼び覚まされていく。
ファン・ミリアも、弾かれたように顔を起こした。
だが、一番最初に動き出したのはティアでもなく、ファン・ミリアでもなく──
「待て!」
ファン・ミリアの静止を聞かず、バンシーが階段をまたぎ越し。教会の扉へと走っていく。転んでもすぐに起きがり、一心不乱に駆け出ていく。
「私たちも行こう」
ティアとファン・ミリアがバンシーに続いて教会を出た。
異変はすぐに感じられた。
「上だ」
ティアは鋭く言って、夜空を見上げる。
教会は岸壁を背に立っている。ちょうどその壁から教会までを覆って、半円の霧ができていた。
「あの霧……」
その異質さに、ようやくティアは気づいた。
「あの霧自体が魔物か」
考えればわかることだった。ただの霧にティアの方向感覚を失わせる力があるわけないし、バンシーに霧を操る能力はない。
そのバンシーもまた、ティアを同じく霧を見上げていた。いや、睨み上げていた。あどけない少女の顔に、激しい怒りを浮かべている。
仲間ではないのは明らかだった。
霧が、半形の円蓋のまま、じわじわと距離を詰めてくる。それが教会の尖塔の先にかかろうとした時、バンシーが大きく口を開いた。
「まさか──」
とっさに、ティアは両手で耳をおさえる。
「ぎえええええええええええ!」
バンシーの泣き声が山々にこだました。そのちんまりとして愛くるしい姿かたちからは想像もつかないほどの大音量である。
「ぐううう……!」
音圧で吹き飛ばされそうになるのを、ティアはなんとか踏ん張る。実際のところ力の程度は音によるものではなく、その音に乗せた力なのだが、体感としては音に攻撃されたのに等しい。
──サティは……!
心配になって見ると、ファン・ミリアは教会の馬を落ち着かせていた。
「どう、どう!」と、手綱をつかんで首を叩く。
「サティ?」
呼びかけたものの、一向にこちらを振り返らない。
まったくティアの声が聞こえていないらしい。
──まさか鼓膜を?
激しい不安を覚え、ティアはファン・ミリアの両肩をつかんだ。
こちらに振り向かせる。
「サティ! 大丈夫か!」
顔面蒼白になって迫ると、ファン・ミリアは「わ」と、驚いて目を見開いた。
「な、なんだ?」
紫水晶の瞳が、動揺で揺れている。
「耳だ、耳。聞こえるか?」
ティアが必死で声をかけるも、やはりファン・ミリアは聞こえていないようだった。業を煮やしたティアが自分の耳を指さすと、ようやく「ああ」と、腑に落ちたらしく、
「すまない。これで聞こえる」
ファン・ミリアが何気なく言ってくる。しかし、これといって目に見える変化はない。
「どういうことだ?」
本当にわからない。ティアがファン・ミリアをまじまじと見ると、
「ラズドリアの盾で耳をふさいでいたんだ。バンシーが泣こうとしているのが見えたからな」
「……」
「ティア?」
「驚かせないでくれ、耳が聞こえなくなったのかと心配したんだ」
がっくりと肩を落とす。
「だからすまないと……」
「本当に心配したんだぞ」
安堵の息を吐いて、ティアが顔を上げると、ファン・ミリアの様子がおかしい。そっぽを向いて、手で口元を隠してはいるが、にやにやと彼女らしくない笑みがのぞいて見えた。
それも無言で。
「……なんで笑っているんだ?」
「いや別に」
ぷるぷると全身を震わせている。
「……なんで震えているんだ」
ティアが半眼になって訊くと、「なんでだろうな」と、ティアの頭をぽん、ぽんと撫でてくる。
──くっ!
ティアの顔が熱い。
無性に恥ずかしさを感じて、ティアが顔をそらすと、バンシーがぺたりと地面に座り込んでいる。ぜえぜえと呼吸を乱しながら。
「弱っているのか」
「──ティア、あれを」
一転して真剣な口調でファン・ミリアが上空を指さした。
ティアが示されたほうを見ると、霧が後退していた。尖塔の先まで迫っていた霧の円蓋が、かなり高い位置にまで戻っている。
「なるほど、泣き声で霧を遠ざけたのか」
実体のない霧の魔物にとって、衝撃波による全方位攻撃が可能なバンシーは天敵なのかもしれない。
「状況が見えてきたな」
ファン・ミリアが言った。
「あの霧の魔物は、この教会を狙っているらしい」
「狙っているのは、魂か」
ティアも理解した。
話すことができないバンシーが、ファン・ミリアに託した祈り。
異端としてウラスロの特務部隊によって滅ぼされた村では死体を処理する者も、埋葬する者もなく放置され、やがて疫病が発生し、瘴気が立った。瘴気に引き寄せられた魔物が、村人の魂を喰らおうとする。
それを阻止していたのが、この少女だった。
司祭の家系に生まれ、教会という『家』に憑くバンシーとなって。
「ずっと、ひとりで村を守り続けてきたのか」
ひとりの幼い少女が、バンシーとなってまで霧の魔物と戦い続けていた。
いま思えば、ティアが村に来る途中の山の中で聞いた泣き声も、霧の魔物を遠ざけるためだったのだろう。
ティアは、地面にへたり込んでいるバンシーを見た。
「すごいな」
心の底からそう思った。
あのちいさな身体で、己の役割から逃げず、投げ出さず、戦い続けている。
「私にはできなかったことだ」
ティアはバンシーの前に立つと、ひざまづいた。
自分よりも遥かに立派な者だ。尊敬の念が、自然とその姿勢を取らせた。
「私はティア。ティアーナ=フィールだ。お前は?」
じっと、真剣な眼差しでティアが訊くと、バンシーは荒い呼吸をつきながら、口を動かした。
『レ』
『ミ』
「レミ?」
ティアが訊くと、バンシーはこくりとうなずく。
「わかった、レミ。これから私と──」
言いながら、目線でファン・ミリアを示す。
「サティで、霧の魔物を倒す。お前はずいぶんと力を使っている。あとは私たちに任せてくれていい」
きょとんとするバンシーに告げる。
すると、バンシーがぶんぶんと首を横に振って、唇を引き結んだ。ちいさな手を地面につき、そのちいさな足で、ゆっくりと、けれども力強く立ち上がる。
その瞳に戦う意思を宿して。
「──そうだよな」
わかりきったことだ。
この少女ならそうするに決まっている。
「自分の大切なものだ。自分で守りたいよな」
胸を熱くする気持ちとともに、ティアはバンシーを抱き上げ、肩車をする。
「それなら、レミ。一緒に戦うぞ」