59 月とアメジストⅦ
道端に死体が転がっている。
白骨化された死体は旅人らしき姿をしていた。山深い霧に閉ざされた道で、彼は死の直前、何を想ったのだろう。
「かなりの数だな」
ティアは馬上から死体を見下ろす。
進むつれ、その数も増えていく。旅人、商人、傭兵……斧を抱いた樵らしき骨もあった。
それら死体を見るたびに、同じく馬上のファン・ミリアが祈りの詞を口にした。
新月である。月の灯もなく、夜はただ暗い。
霧は重く身体を湿らせ、鳥の啼き声も聞こえない。
口を閉ざしがちなふたりに代わって、時折、馬が嘶く。
その時だった。
「ぎえええええええええええ!」
何の前触れもなく、山ぜんたいを揺り動かすほどの絶叫が響き渡った。
「これは……!」
あまりの大音量に、ファン・ミリアが両手で耳を抑える。ティアも同じである。が、耳を抑えても音がちいさくなることはなく、かえって大きくなる気さえした。
「ただの声じゃない」
ティアは顔をしかめる。
「霊的な力が込められている」
音が、礫となって降り注いでくるようだ。
驚いて棹立ちになった馬をファン・ミリアが必死になだめている。
直接的な痛みとは異なる耐え難さに、「くそっ」とティアが毒づいた時だった。
ぴたりと絶叫が止まった。
「……止んだのか?」
おそるおそる、ティアは手を離した。
ファン・ミリアも周囲をうかがっている。
突如として湧いた絶叫が、一転して深い静寂へと変わる。
「魔物だな」
ファン・ミリアの言葉にティアはうなずいた。
「疑う理由はないな」
うめきながら頭を振る。まだ耳のなかでは絶叫が響いているようだ。
「ティアは魔物に心当たりはあるか?」
「ある。──サティは?」
「私もある」
ファン・ミリアは言って、「では進むか」と、馬の腹を蹴った。
「サティの胆力には頭が下がる」
いまの絶叫を聞いても進もうとうするファン・ミリアの勇気に、ティアは半ば呆れた。
同時に思う。
道端の名も知れない死体たち。
彼らがこの絶叫を聞いていたとしたら、間違っても道を進もうとは思わなかったにちがいない。けれども霧によって閉ざされた山中では正しい道を見つけらず、結局、時間切れになった……。
霧が薄くなってきた。
やがて完全に霧が晴れると、ティアの視界に村が姿を現した。
木組みで作られた入口の手前で、ティアは足を止めた。
「瘴気というより……これは」
袖をまくる。白い細腕に、血管が浮き上がっている。
「サティは入らないほうがいい。疫病が発生している」
「そうらしいな」
下馬してファン・ミリアは入口をくぐる。
「大丈夫なのか?」
そこでティアは気がついた。ファン・ミリアの全身を、うすい膜のような光が覆っている。
「ラズドリアの盾か」
疫病をさえ、ファン・ミリアの神器は遠ざけてしまうらしい。
「つくづくすさまじい神器だな」
ティアは舌を巻くも、ファン・ミリアは冷静そのものだ。
「つい最近まで、私はこれを最強の盾だと自負していたが」
「ちがうのか?」
「おそろしい神器は他にもあるということだ。──それより、ティアは気づいているか」
「もちろん」
ティアははうなずいた。
入口から進んだ先が、ちいさな広場になっている。
中央にある井戸の、その手前──
幼い少女が立っていた。
まるで夜のなかに浮かび上がるような長い銀髪だった。裸の上に、粗末な襤褸をまとっている。大きな茶の瞳をこちらに向けているが、敵意は感じられなかった。きょとんとして、ティアとファン・ミリアを見比べて、不思議そうな表情を浮かべている。
「子供……間違いないのか?」
ファン・ミリアが小声で訊いてくる。
「ああ」とティアは認めて、言った。「バンシーだ」
……バンシー。
『家』に憑くとされる魔物である。
さまざまな民話に登場し、由来や姿かたちも諸説あるが、死を預言する者、あるいは、死を悼む者とされる。
最大の特徴は、その異常・異質な泣き声だろう。
先ほどティアとファン・ミリアが聞いた絶叫こそ、バンシーの泣き声である。
じっと、バンシーはまばたたきをせずにこちらを見ている。ティアが手を振ってみると、ますます不思議そうに首を傾げた。
やはり、敵意はないらしい。
ティアが一歩、足を踏み出すと、バンシーがこちらに背を向け、走り出した。歩く姿は人間の子供そのもので、こけた。
「あ──」
と、ティアが見ているうちに、バンシーはむくりと起き上がり、また走り出して、こけた。それを繰り返しながら、建物の向こうに去っていく。いや、逃げていく、だろうか。
「こら、幼子をいじめるな」
ファン・ミリアに怒られた。
「いや、私は何もしていない」
心外だとティアが抗議すると、
「迷子の吸血鬼は心も迷子らしいな」
理不尽である。
すると、建物の反対側からバンシーが顔を出した。どうしてもこちらが気になるらしい。
「大丈夫だ」
今度はファン・ミリアが声をかける。
「私たちに危害を加えるつもりはない」
にっこりと対子供用の笑顔を作るファン・ミリアだったが、バンシーがまた走り出した。こけて、起きて、去っていく。
「……」
井戸の釣瓶が、きいきいと寂しく鳴っている。
ティアは「怖いな」と、ファン・ミリアの肩に手を置いた。
「いったい何が起こったんだ? 詳しく教えてくれ」
「……人見知りのバンシーもいたものだ」
「もうすこし詳しく頼む。こう見えて迷子なんだ」
そんなやりとりをしていると、再びバンシーが姿を現した。じっと、何か言いたそうにこちらを見つめてくる。
ここで、ふたりはようやくその意図に気づいた。
「私たちを誘っているらしい」
ティアが言うと、
「罠という可能性は?」
ファン・ミリアに訊かれ、ティアは「なんともいえないが」と首をひねる。
「あのバンシーが、私たちを襲う可能性は低いと思う」
「なぜそう思う?」
「バンシーが不死に属する魔物だから。そして私が吸血鬼だから」
「格が違う、というわけか」
吸血鬼は不死に属する魔物のうち、頂点に立っている。
ティアは離れた場所に立つバンシーを見た。
「とにかく行ってみよう」
言って、バンシーの後を追って歩き出した。
道がそうであるように、家も、そして村も、人が使わなければ急速に廃れていく。案の定というべきか、村に人はいなかった。
大きな村ではないが、家々が点在している。が、気になることもあった。
家々は朽ちている。長年の雨風ではなく、
「焼かれている」
崩壊した梁の一部が焼け残っていたり、石壁には黒い焦げ跡がついている。
「無残だな」
隣のファン・ミリアの声も重い。
バンシーを追いながら、ふたりは言い知れぬ不安を抱きはじめていた。
「……この光景」
焼き払われた村。
壊れた什器、放り出された家具。
店先から提げられた看板は留め具が外れて落ちかかっている。
どくり、とティアの胸が鼓を打つ。
「同じだ……」
あの時と、破壊の程度が。
「サティ……」
「そうだな」
ファン・ミリアも気づいている。
やがて、村の奥に突き当たった。岸壁を背景に、古びた教会が立っている。
ファン・ミリアのまとう光が強い。
──瘴気の元が、ここにある。
教会の手前に、バンシーが待っていた。つまらなそうに小石を蹴っている。
「私の知らぬ神だ」
わずかに開いた鉄扉の上、ファン・ミリアが見上げる先には神の記号──シンボルが掲げられている。
「つまり、異端というわけだ」
ティアは言ってからはっとした。言葉の冷たさに、自分自身で驚く。
ファン・ミリアが苦しそうに顔を俯かせた。
ふたりが近づくと、バンシーは鉄扉のすきまから教会のなかへと入っていく。
萎えそうになる心を励まして、ティアはその扉を開いた。