58 月とアメジストⅥ
「ペシミシュターク家は聖騎士団の有力な支援者でもある」
かといって、ファン・ミリアとの関わりはさして強くもないらしい。
「応対をしていたのは事務方の副団長だからな」
支援者のなかにはファン・ミリアを呼ぶように指図してくる者もいたが、たいていは副団長のベイカーが言いくるめていたそうだ。
「どうしてもというときは、団長が同席した」
「それは迫力があるな」
歩きながら、ティアは笑う。
団への寄付と引き換えに役得を期待したのだろうが、相手が悪かったようだ。
「しかし」と、ファン・ミリア。
「ペシミシュタークに関しては、金は出しても口を出してくることはなかったと聞いている」
「支援者としては理想的だな」
ティアの横を、馬が歩く。ファン・ミリアは馬上である。
「そうだな。非常にありがたい存在だと思っている」
野原から登山口に入っていく。
「苦艾の公女……」
ティアはつぶやく。
「ティア?」
呼ばれたことに気づかず、ティアは山道をのぼる。
道は暗い。
ハシバミ色の瞳を持つ女。
川の向こうに立つ女。
「……あの女は闇に立っていた」
まるで、忘却の川の向こうに立つ死者のように。
『──第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。 この星の名は「ニガヨモギ」と言い、水の三分の一が「ニガヨモギ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ』
ファン・ミリアがおごそかに詠み上げる。
「それは?」
ティアが訊くと、
「古い預言だ。水源はムラビア王家を。三つの川は三公爵家を表しているというが、眉唾だな」
「多くの人が死んだ、というのは?」
「過去、ペシミシュタークが『多くの人を殺した』事実はない。もっとも、昨夜の山賊を『多く』ととらえれば、その通りなのだろうが」
それから、言った。
「東ムラビアにおいて、貴族として、公女として、アルテンシア様ほど光輝を放つ者はいなかった」
「光……」
「聞いた話だ。私は知らない。それに、ティアも言っただろう? 苦しみは本人しかわからない」
「そうだな」
ティアは立ち止まった。
引き馬をしているわけでもないのに、馬も停止する。
「困ったな」
ティアは腕組みをした。
「……迷った」
「なに?」
ファン・ミリアが片眉を上げる。
「来た道を戻ってきたのではないのか?」
「そのつもりだったんだが……」
ティアは周囲を行ったり来たりする。ファン・ミリアは呆れた。
「吸血鬼が夜道を迷うとはな」
「夜道だが山道だ。けれど──」
腕組みをしたまま、ティアは身体を傾けた。たしかに、吸血鬼の迷子というのは聞いたことがないし、沽券にかかわる気もする。
「自信はあったんだ」
立ち止まっていても仕方がない。時間を浪費することにはなるが、覚えている地点まで引き返そうしたところ、霧が出てきた。それはみるみる深く、乳白色に視界を染め上げていく。
ファン・ミリアが馬の首を軽く叩く。馬が耳を伏せていた。
「警戒している。自然現象にしては霧の発生が早すぎる」
──レム島でも夢を見たが。
夜空を見上げると、薄い月が出ている。
空模様におかしな様子はない。
ティアは数匹の蝙蝠を分離させた。蝙蝠のうち一匹がティアのすぐ近くを飛ぶ。次の蝙蝠がやや離れた場所を。さらに次の蝙蝠が遠くの距離を、といった配置で、十重二重の円陣を描き出す。
蝙蝠たちがそれぞれの位置を超音波で伝えてくる。
──レム島とはちがう。
夢ではない。
まちがいなくここは現実で、力も有効に働いている。
しかし……。
「何かが私の感覚を狂わせている」
ティアが馬上のファン・ミリアに伝える。
「この霧……」
まといつくような霧にファン・ミリアは手を伸ばした。
「風上から流れているわけではない。山全体から吹き上がってくるようだ」
山を下りようとしばらく道を戻ったが、ふたたびティアは立ち止まった。進んで、戻って、きょろきょろと顔を動かす。
「だめだ。わからない」
言って、馬の上、ファン・ミリアの後ろにひらりと横乗りになる。
「お手上げだ。あとは聖女の勘に託す」
「吸血鬼が匙を投げるな」
ファン・ミリアが馬の腹を軽く蹴って、常歩で歩きはじめる。
「ティアの蝙蝠の様子はどうだ?」
「私同様、ぜんたいの方向感を失っている。周囲の索敵ぐらいの能力しかない」
「魔物のしわざということでいいか?」
「現実に力が働いているからな。そうだろうな」
「強い魔物か?」
ファン・ミリアに訊かれ、ティアはあくびをした。
「実際に遭遇してみるまでわからないが、脅威や恐れは感じられない」
王城で蛇のギルドの首魁──イグナスと遭遇する前の時点で、ティアは本能的な恐怖を感じていた。その時を考えてみると、今回、本能がティアに伝えてくる情報は多くない。
「それより問題なのは、夜明けが近づいているということだ」
馬上で、ファン・ミリアの背中に横顔を預ける。時間とともに、ティアの動きが鈍くなっていく。
「呑気なことだ。眠っている間に魔物に襲われたどうするんだ?」
「好きにされるだろうな。それ以前に、日に晒された時点で終了だ」
「すこしは危機感を持ったらどうだ?」
「サティに対して失礼だからな」
「どういう意味だ?」
ファン・ミリアの肩の上に顔を乗せる。
「サティがいてくれるなら、私が不安になる必要があるのか?」
ティアはもう一度あくびをした。
◇
結局、夜明けまで進んでも霧は収まる気配を見せず、山を下りることもできず、野宿をすることになった。ティアの肩から提げた旅かばんに道具は入っている。
ファン・ミリアも仮眠をとるための用意をする。終わってみると、ティアはまだ大木の根本にできた穴に草や布をかぶせていた。
せっせと自分の寝床を作っている後ろ姿が、妙にかわいげがある。
「慣れているな」
ファン・ミリアはティアの背中に声をかけてみた。
「はじめのころ、野宿はよくしたからな」
「はじめのころ?」
「吸血鬼になったばかりのころだ。寝床の作り方はイスラから教わった」
「黒狼か……」
かの月神は、ティアを生き永らえさせるため、己の力を削って深い眠りについてしまった。それについてティアがどう思っているのか、悲しんでいるのか、悔やんでいるのかは、ファン・ミリアの目にはわからない。
「誤って日の光が入ってくることはないのか?」
「ないな」
こちらを振り返らず、ティアは手元を動かしながら、言った。
「自分でも気づかない部分に抜けがあると、妙に落ち着かない気分になる」
「本能か?」
「だろうな。どうしても落ち着かないときは、土のなかに潜ればいい」
「服がよごれるぞ」
「脱げばいい、起きたら身体を洗うだけだ」
「それこそ落ち着かないな」
ファン・ミリアは土の中に裸で眠る自分を想像したが、あまり気持ちのいいものではなさそうだ。
「私だってしたいと思ってするわけじゃない。生きるためだ」
寝床が完成すると、ティアは満足そうにぱんぱんと手を叩く。地面に四つん這いになり、そろそろと穴に入り込もうとする姿は吸血鬼というより、むしろ猫だ。
「──ティア」
呼ぶと、ティアはその姿勢のまま、こちらを振り返った。
「おやすみ」
ファン・ミリアが微笑んで言うと、ティアはこちらを見たまま寝床に入っていこうとして、頭をぶつけた。壊れた箇所をまたせっせと直しはじめる。黙々と。何も言わずに。
照れたらしい。
「どっちもどっちだ」
馬の首を叩いてやりながら、ファン・ミリアはつぶやいた。
◇
翌夕も、霧は消えることなく漂い続けている。
待っていて誰かが通るとも思えない。
やむを得ず、ティアとファン・ミリアは道を進むことにした。とはいえ、ふたりとも方向感を失っているため、進んでいるかも戻っているかもわからない。
「この霧、何か意味があるのに間違いはないだろうが」
代り映えしない景色に、ファン・ミリアも気だるそうだ。
「最悪、飛んで山を越えることもできる」
「せっかく手に入れた馬はどうする?」
ファン・ミリアはあっさり言った。
「いまの状況もめぐり合わせだ。私は魔物を退治するつもりでいる。ティアにも手伝ってもらう」
「わかってる」
しぶしぶながら、ティアもうなずく。同行者として、ファン・ミリアにはずいぶん助けてもらった。ここで否とはいえない。
ティアは翼を広げた。
「上から見てくる。どうせ霧で何も見えないだろうが」
「私を見失うことはないのか?」
「蝙蝠を置いていく。私たちがいま夢のなかにいるのでなければ、蝙蝠を目印に使うことができる」
手綱を取るファン・ミリアの肘の下に、蝙蝠が逆さまにぶらさがる。
「これがティアの分身か」
「かわいいだろう?」
「ああ、本体よりな」
「笑える。サティは冗談がうまいな」
ティアは飛び上がった。
木々を抜け、高く舞い上がって山を見下ろす。冷気が風となって全身に吹きつけてくるが、ティアは平然としたものである。
ティアの瞳が赤く光る。
──やはり、霧が深い。
濃霧が周囲の山々を覆っている。そのなかに一か所、不自然に霧が出ていない部分があった。白い帆布を張ったなかに、ぽっかりと穴があいている。その穴から家々がのぞいて見えた。
「村か……」
しかも、よくよく力を使って見れば、霧は風にしたがう動きではなく、渦状に、その村を中心に巻き込むように動いている。まるで、迷い込んだ者を渦の中心に引き込んでいるようだった。
──あそこだな。
あの村に何かがある。
ティアは確信した。
引用:ヨハネの黙示録の第8章10節~12節『口語訳新約聖書(1954年版)』
レム島の夢:【第四章 6 幻想幻市(修正版)https://ncode.syosetu.com/n9025db/152/】