57 苦艾の公女Ⅲ
「──ル様」
光が弱まっていく。
「アル様!」
呼ばれて、アルテンシアはまぶたを開いた。
「うるさいわねぇ」
ぼんやりとかすんだ視界に、侍女のプラム=リーの顔が映っている。ぐらぐらと頭が揺れる。そこで、アルテンシアは自分が馬車に乗っていることを思い出した。
「下手な運転ねぇ」
背後の板壁に身体を預けて、息を吐く。ずきりと鋭い頭痛に襲われたが、間隔が開いている。薬が効いてきたらしい。
「あー……」
長手袋をはいた手で頭を揉む。
「吐きそう」
その言葉を聞き取ったプラムが、あわてて革袋を用意した。口元に差し出された革袋に、アルテンシアは吐いた。酒と胃酸ばかりで喉が痛んだ。
「アル様、水を」
プラムにされるがまま、アルテンシアは水で口を注ぎ、それも革袋に吐く。
「アル様、もう少しです」
何だったかしら、とアルテンシアはしばらく考えて、思い至った。
「そう、山賊」
山賊に追われている途中、野原を走る馬車の振動で頭痛がはじまったのだ。
移動力を重視しているため、箱馬車内は狭い。
アルテンシアはもたれていた板壁からずるずると身体を倒し、クッションを枕にして横になった。
「ご気分がすぐれませんか?」
プラムが心配そうに訊いてくる。
「そうねぇ」と、アルテンシアは焦点の合わない瞳で言った。
「どちらかと言えば最悪かしらねぇ」
横になった姿勢で、向かい合わせの席に座っているプラムに顔を向けた。
「プラム、あなた最後にしたのはいつ?」
「……知りません」
ふぅん、とアルテンシアは輪郭のぼやけたままのプラムを眺める。
「……なんでしょうか?」
気まずそうなプラムに、アルテンシアはくすりと笑った。
「あなたにも良い男をつけてあげなきゃね」
「必要ありません」
即答され、アルテンシアは目を細める。
その時、走る箱馬車の板壁を抜けて、矢じりが顔を出した。
「アル様、危ない!」
プラムが覆いかぶさるようにアルテンシアを抱き上げ、「こちらへ」と、自分の座席に引き寄せる。
「馬の足が近くなってきたわねぇ」
そもそも、馬車で山賊から逃げることに無理がある。
次々と、矢が壁を打つ音が室内に響きはじめた。
「アル様……!」
プラムがしがみついてくるのが、すこし苦しい。
──この子を使いはじめて、どれくらい経つかしら。
三年か、四年か、五年のような気もする。
過去を振り返るのは億劫だ。
どうせ、自分の意思とは関係なく思い出す時がくるのなら、いちいち思い出したところで、なんの意味があるのだろう。
いま、自分が見ていた夢のように。
「……それが、なんだというのかしら」
ぽつりとつぶやく。
応えるように、横の扉をノックする音がした。
「取りつかれた?」
青ざめるプラムに対して、
「入ってるわよぉ」
アルテンシアがいつもの間延びた口調で返す。
「アル様、なんてこと!」
プラムが血相を変えるのを、「だってぇ」とアルテンシアは悪びれす、
「山賊が、わざわざノックなんてするかしら?」
「しないとも限らないでしょう」
「──その通り、私は山賊じゃない」
ふたりの話をさえぎって、女の声が聞こえた。
「私はティア。たまたまこの馬車が襲われているのを見かけた。──なかに入っても?」
「どうぞぉ」
「アル様!」
プラムがあわてて止めに入る。
だってぇ、とアルテンシアは笑う。
「山賊じゃないって言ってるじゃない」
「山賊は自分を山賊とは言いません!」
外の女が扉を開けようする。が、扉には鍵がかかっている。
「入ってるわよぉ」
アルテンシアが応える。さきほどの繰り返しである。
「いい加減にしてください!」
主の無軌道ぶりにプラムが声を荒げた。その時、扉を開けようとする音が止まった。変わりに、下の隙間から黒い霧が入り込んでくる。
「なに、これ……!」
にわかに恐怖を覚えたプラムの目に、車内に流れ込んできた黒い霧が、人型をつくりはじめた。輪郭が明らかになり、白い肌があらわになる。
車内に、女が立っていた。
「あら、ごきげんよう」
ネーン・カーテシーのアルテンシアが目で挨拶をする。
「あなた、吸血鬼ティアーナね」
アルテンシアから言われ、ティアは「おや」という顔をした。
「私を知っているのか?」
「知っているとも、知っていないとも」
アルテンシアはプラムに支えられながら、
「さっそくで悪いんだけど、あなたにお願いがあるの」
ティアの返事を待たず、アルテンシアが言った。
「出てってくれない?」
傍目に、ティアの表情に変化はない。
「化け物が、何をとち狂って人界にさまよい出てきたかは知らないけど、お呼びじゃないの。さっさと消えなさいな」
挑発するように、ハシバミ色の瞳が笑う。
「これが苦艾か」
興味深そうにティアがかがみ込んでくる。プラムが止めに入る間もなく、アルテンシアの顔をのぞき込む。
珍しいものを見るように、ティアは首を傾げた。
「酒が過ぎるな。何をそんなに怯えている?」
「あら、そう見える?」
「私にも覚えがあるからな。お前は光から逃げている」
「そういえば、思い出したんだけどぉ」
アルテンシアが、とろりとした笑顔を浮かべる。
「私、蝙蝠って好きじゃないのよねぇ」
ティアを指さして、告げる。
「プラム、こいつを殺しなさい」
はっ、と眼鏡の侍女が後ろ手にナイフを引き抜いた。
狭い車内で突き出されたナイフを、ティアは手の平で受ける。刃先が貫通したにもかかわらず、ティアはアルテンシアから目を離さない。
「そんな……!」
驚くプラムをよそに、
「残念」
さして悔しがる様子もなく、アルテンシアは笑みを浮かべている。
あきらめたように溜息を吐き、ティアが立ち上がった。
「私は助けにきたつもりなんだけどな」
「あら、もう帰るの? 案外、根性がないのねぇ」
「……お前は、お前の意思でもって吸血鬼を招じ入れた」
ふたたび、身体が黒い霧に変じはじめた。
「次からは了解を取る必要はない」
ティアの手に刺さったナイフが床に落ちて、むなしく響いた。
黒い霧が、車内からすべり出ていった。
◇
前方の黒い霧が風とともに流れてくる。
ファン・ミリアの背後で一塊となった霧が、ティアへと再構成される。
「どうだった?」
「追い返された」
ティアが答えると、どういうことかとファン・ミリアが振り返ってくる。
「それは?」
ファン・ミリアの視線が、ティアの顔から手の甲へ。血が滴っている。
「ナイフで刺された。さすが北の貴族だな。たっぷり聖水がかけられていた」
「平気なのか?」
「かなり痛い。時間はかかるが、そのうち治るだろう」
そうか、とファン・ミリアは前方を向いた。すでに、山賊たちはティアとファン・ミリアの存在に気づいている。山賊たちは突如として現れた邪魔者を排除をしようとするが、相手は得体の知れない人外と、恐ろしく腕が立つ手練れである。攻めようにも攻めあぐねていた。一方で、馬車への追撃はいまだあきらめていないようだ。
「この短期間でずいぶん嫌われたな」
責めるでもないファン・ミリアの口調に、ティアは憮然とする。
「思ったことを言っただけなんだけどな。人は難しい」
「同感だ」
「ただ」と、ティアは付け加えた。「苦しんでいた」
「何に?」
「それは本人にしかわからない」
そうこうしているうちに、山賊たちが馬車に迫っていた。いつ取りつかれてもおかしくない距離である。
馬車が小川にかけられた橋をわたっていく。
「サティ」
川向こうを見つめるティアの瞳が、赤みを帯びはじめた。
「馬を止めてくれ。あの橋は渡らないほうがいい」
「……わかった」
ファン・ミリアが身体を起こした。手綱を引くと、馬がゆるやかに足を止める。
その時だった。
突然、橋が火を噴いた。
赤々と炎をまとい、夜空を焦がす。
「油を撒いていたのか」
ファン・ミリアがつぶやく。嘶く馬の首を叩き、「大丈夫だ」となだめる。
川の向こうで、絶叫が起こった。
山賊たちに矢が射かけられていた。
いつの間にか、山賊たちは包囲されていたのだった。
「伏兵だ」
ティアの赤い瞳が、下草から飛び出してくる人の姿を捉えている。逃げ道を失い、矢を射かけられて動揺する山賊たちを、鉤のついた棒で馬から引き落としていく。
そして、とどめとばかりに奥から騎馬の一群が駆け出してきた。
山羊を模した兜をかぶり、全身鎧をまとった重装騎士を先頭に、騎馬隊は山賊たちを切り伏せていく。
あざやかな手際だった。
「策か。馬車を囮にして、山賊たちを山からあぶりだした」
ファン・ミリアの言葉に、ティアはうなずく。
地の利を失い、逃げ場を失った山賊たちに勝ち目はなかった。
さして時間もかからず、山賊たちは全滅した。
崩れ落ちる橋の炎に照らされて、馬車から、黒衣の女と侍女が降りてくる。
女が、ふらつく足取りで川の汀に立ち、こちらを──ティアを見ている。炎の風にあおられ、豊かな黒金髪が波打っている。
「知恵者か」
ティアがぽつりと言った。すると、
「あれがアルテンシア=ペシミシュターク様だ。軍略に通じていると聞く」
立場上、ファン・ミリアは馬上から一礼するも、アルテンシアからの反応はなかった。
「苦艾の公女か。しかし、危ういな。わざわざ自分の身を囮に使う必要があったとも思えないが」
川を挟んで、ティアとアルテンシアは見つめ合う。
燃える川の汀で……。
互いの存在を、その瞳に焼き付けるように。
しばらくして、アルテンシアが背を向けた。山羊兜の重装騎士に指示を与え、自分は新しく用意された豪華な馬車に乗り込んでいく。
「私たちも戻ろう」
ティアが言うと、ファン・ミリアは馬首を返した。