56 in the lost time Ⅰ
「──さま」
「──ルさま」
どこか遠くから呼ばれている。
「……うるさいわねぇ」
馬車が大きく揺れるたび、頭痛がひどくなった。ネジを打ち込まれるような痛み。そうかと思えば、頭のなかに虫が湧いたような、両手で脳みそを掻き出したくなるような痛みが交互に襲ってくる。
最低で、最悪の気分。
──ああ、頭が痛い。
ぎゅっと目をつむって、その痛みをやりすごす。
汗が、こまかみを流れていく。
親指と人差し指でこめかみをおさえると、どくり、どくりと脈打っているのがわかった。
強く、目を閉じる。
閉じたまぶたの裏で、ちかり、ちかりと光が点滅している。
赤い光と白い光を交互に繰り返している。
突然、その光がはじけた。
「──アル?」
呼ばれて、テーブルから顔を起こした。いつの間にか眠ってしまったらしい。しかも、熟睡だったようで、紙の上によだれが垂れている。
庭の東屋だった。
子供のころは、ここでよく学んだものだった。八角形の東屋は、腰高の壁から上は柱になっている。風も光もよく通すのに、いつもレンガの湿気った匂いが漂っていた。
寝ぼけ眼をこすると、隣に女性が座っている。
「おはよう」
その挨拶を聞くだけで、彼女の自由で明るい気質がわかるだろう。
「──ココ、来てたの?」
ドレスの袖で口元をぬぐい、アルテンシアは身体を起こして伸びをした。
「アル、おはよう」
もう一度言われ、「おはよう」とアルテンシアも返した。ココとは対照的に、アルテンシアの寝起きの声は低い。不機嫌そうにも聞こえるが、アルテンシア本人にそのつもりはなかった。単純に、起きがけは頭の血のめぐりが悪いだけなのだ。
もぞもぞとひざ掛けをなおしていると、
「今日の講義はもう終わってしまったわよ」
言って、ココがテーブルの紙をのぞきこんでくる。「宿題をしていたの?」
「ええ……そう」
アルテンシアはまだぼんやりとする頭でテーブルの紙を見下ろした。宿題は、すべて終わっていた。徹夜で考えて、ようやく答えを出したのだ。それで気が緩んだらしい、と状況を自分に説明する。
「宿題をちゃんとしても、講義をサボったら意味ないじゃない」
あきれ顔のココに、アルテンシアは「ちがうわ」と息を落とした。
「これくらいの問題が解けなければ、講義に出たってわかりっこない。私はココたちみたいに頭が良くないもの」
『たち』に力に込めると、ココは心外といった表情を作った。
「本気でそう思っているの?」
「ええ」
自信をもってうなずくと、ココは「うーん」と腕組みをした。
「アルは頭の良さを『頭の回転の速さ、もしくは、理解をする、問題を解く』能力だと思ってるみたい」
「そうよ。ちがうの?」
「ちがうわよ」
ココはあっさり否定した。
「それは頭の良さではないわ。個人の問題よ」
「はぁ?」
アルテンシアが眉根を寄せると、「いいですかぁ?」と、ココは教師のような、けれどもすこし間延びた口調で言った。
「計算が速い、相手の意見に的確な反論ができる、見識が高い。仮にこれらが頭の良さを証明するものだとするでしょー?」
ずずい、とそこでココはこちらに顔を突き出してくる。
「はい」
迫力に吞まれ、アルテンシアはこくりとうなずく。
ココは深く息を吸い込んで、
「それが、いったい、なんだというの!」
近くの水盤で羽を洗っていた小鳥が、驚いて飛び立っていく。
「いーい、私の最っ高ぉーにかわいい公女。そんなもの、鳥の糞より価値のないものだわ。トナーをよくご覧なさいよ。あの人、天パのくせに勉強ばっかりしてんのよ。意味わかんないわ! ユーリィを見てみなさいよ。あのゲジ眉、いつも勉強ばっかりしてんのよ! 私が話しかけてんのに、ぜんぜん聞いてない!」
「は、はぁ?」
アルテンシアは目を白黒させる。
何だかよくわからないが、ココは鬱憤が溜まっているらしい。
「頭がいいって何よ。馬鹿の同義語じゃない。それがなんだというの!」
『それがなんだというの』が、ココの口癖だった。
いーい? とココはアルテンシアは抱きしめる。
「アルはかわいい! 最高だぁー!」
そうして抱きしめたアルテンシアを、右へ左へ、ぶんぶんと振る。東屋の腰壁にアルテンシアの腕が当たり、じぃんと痺れた。
「ちょっと、ココ」
あまりの脈絡のなさに、はじめは困惑していたアルテンシアだったが、
「好きだぁ、好きだぁ!」
アルテンシアの髪に鼻先を埋め、ますます強く抱きしめてくる。
「ふふ、何それ……」
自然と、アルテンシアの口から笑い声がこぼれた。
「ふふ、やめて。やめてったら、あはははは」
息苦しくって、すこし腕が痛くて、楽しかった。
「──講義を無断欠席した生徒たちを探しに来てみれば、ずいぶん楽しそうね」
とがめる声に、アルテンシアが顔を上げた。
「レディ……」
東屋の前に、初老の女性が立っていた。小柄で、身なりも簡素。やや吊り上がった目が気の強さを表してはいるものの、どこにでもいるようなこの女性こそ、公都オルバサスの知恵者たちが敬慕してやまないキアスレディその人だった。
「……やべぇ」
アルテンシアに抱きついているココがつぶやく。キアスレディの声が聞こえたはずなのに、なぜかココは振り返って彼女のほうを見ようとしない。
「レディ。生徒たち、って?」
アルテンシアが訊くと、
「示し合わせたわけではなさそうね」
こちらの雰囲気を察して、キアスレディはうなずいた。
「アルは課題を終えた後に寝てしまった、と」
抜け目ない瞳で、アルテンシアの顔に残った寝跡と、テーブルの紙を見比べる。
「それで、ココは?」
「うぇ」
促され、ようやくココはアルテンシアから離れた。その場で座り直す。
「それがですね、レディ」
「前置きは結構です」
ぴしゃりと言われ、「うぇぇ」と、ココは身を縮める。
「こ、講義には出るつもりだったんです、レディ。教室にもちゃんと行きました。なんですけど、アルがいなかったので……」
「探していた、と。おかしな話ですね。あなたなら、アルの居場所を見つけるのは難しいことでないはずです。遅れて講義に参加することもできたでしょう」
「いや、まぁ……」
「まぁ、ではわかりません」
問い詰められ、ココは気まずそうに言った。
「アルの寝顔が……」
「寝顔が?」
「人はこんなにもよだれが出るのかってくらい出てて……面白くて、つい」
「ちょっと……嘘でしょ」
恥ずかしさでアルテンシアの顔が真っ赤になる。その言葉が本当なら、ココは一刻近く、ずっとアルテンシアの寝顔を見ていたことになる。
「なるほど」
キアスレディは特に感慨もなさそうな表情でうなずく。
「ココ、あなたが講義を休んだのは、『アルのよだれのせい』なのですね」
「はい」と、ココは深々と頭を下げる。
「申し訳ありません、レディ。私は『アルテンシア=ペシミシュタークのよだれがあまりに大量に流れ出ていたせい』で講義をサボりました」
「やめてってば……」
ぷるぷると、アルテンシアはふるえる両手で自分の顔を隠す。
そうしていると、くすくすと忍び笑いが聞こえた。
聞きなれない笑い声に手を開くと、キアスレディが「わかりました」と東屋の席に腰をおろす。頬に笑い皺を浮かべながら。
「これからふたりには補習を受けてもらいます」
「えー! これからやるのぉ?」
ココが抗議の声を上げるのを、キアスレディは黙殺する。
「知の探求に終わりはありません。──アル」
「はい」
呼ばれてアルテンシアが返事をすると、
「課題をあきらめず、よくやり抜きました。その姿勢を貫きなさい」
「ありがとうございます」
アルテンシアが頭を下げると、キアスレディはココに視線を移した。
「それから、──ココ」
「はい」
「補習後、あなたには倍の課題を与えます」
「なんで私だけ!?」
……。
──ああ。
頭を押さえる。
──頭が、痛い。
……。