55 月とアメジストⅤ
日没後。
ティアが宿を出る手続きを済ませていると、
「あんたたち、どこに行くのかね?」
帳場の老人が尋ねてきた。
「西へ」
ティアが答えると、老人は喉をしわぶかせて言った。
「山越えの道は封鎖されとるよ」
「なぜ?」
「近頃は追い剥ぎが出る。山賊も出る。果ては瘴気が立って、魔物さえ出たという噂も聞く。悪いことは言わん。北か南の迂回路を使いなされ」
「魔物か」
瘴気は魔物が発生する前兆とされるが、よくわかっていない。瘴気が立つから魔物が寄るのか、魔物が寄るから瘴気が立つのか。
「一時は聖騎士団が征伐するという噂も立ったがな、結局は来なんだ」
「怠慢だな」
ティアは老人に話しかけながら、背後に立っているファン・ミリアに聞えよがしに言った。
「聖騎士団の怠慢だな。ましてや聖騎士団の筆頭ならいまごろパンを食べて──」
ぴくりと、ティアの言葉が止まった。
『どうした?』
ファン・ミリアが、耳元で囁きかけてくる。
『続けろ、団員見習い』
尻を思いっきりファン・ミリアにつねられていた。いや、つねるという生やさしいものではない。尻肉が引きちぎられそうだ。
『上官批判とは貴様も偉くなったものだな。望み通りいまここで仕事をしてやろうか? ん?』
妙に熱っぽい口調で、吐息が耳にかかる。
老人は不思議そうな顔でティアを見上げてくる。
「気にしないでくれ」
ティアは引きつった笑みを浮かべた。
「それで、北と南の迂回路は、どちらが早い?」
「南だな」
老人の話によれば──
南の迂回路は、王都ゲーケルンに続く街道につながっている。街道に北に進むか、その手前で細道に入るかして山脈を迂回することになる。王都につながる幹線を利用するため、人の行き来も多い。しかし、ここでティアの事情が出てくる。人の行き来が多いということは、裏を返せば人の耳目を引きやすいということでもある。王都でのレイニー救出の件により、ティアはお尋ね者となっているだろうし、そうでなくともファン・ミリアの知名度は高い。
そもそも、若い女性のふたり旅というだけで目立つものだ。
「北は?」
残りの北に迂回するルートを尋ねると、
「最近になって人が増えはじめたが」
国内で見た場合、北部は相対的に景気が良い。中央、そして南部に比べて政情が安定しているからだ。
とはいえ、治安の面では必ずしも安全とは言えないようだ。
この問題にしても、山脈が無法者たちの巣窟になっていることに起因していた。山越えの道が封鎖されたことにより、北の迂回路を通行する旅人や商人を襲いはじめたという。迂回路とはいえ山間の道を通ることもあり、少数で移動する場合は護衛をつける者も珍しくないそうだ。
ここで意見が別れた。
「山越えルートだな」
聖騎士団筆頭らしいファン・ミリアに対して、
「封鎖された道をわざわざ選んでも仕方がない」
人が使わなくなった道は、急速に廃れるものだ。
「サティの気持ちは理解できるが、ひとりでどうこうできる問題じゃない」
化物に関しては退治すればいいが、必ずしも遭遇するとは限らない。山賊ならなおのこと、ひとりやふたり捕らえたところで焼石に水だろう。
やるなら大規模に、一斉に。
しかも、今回の目的はシフルを目指すことにある。
釈然としない様子のファン・ミリアだったが、不承不承といった面持ちでうなずいた。
結果、ふたりは北へ迂回するルートを取った。
道中──
「王都で、私はこの地域に魔物が出たことを知らなかった」
ファン・ミリアにしては珍しく愚痴をこぼし続けている。
「なぜ情報が下りてこないんだ?」
などと、ひとりでぷりぷり怒っている。
「なぜだろうな」
ティアには答えようもないが、言い返したところで尻を引きちぎられても困る。
触らぬ聖女に祟りなし、という気分で、適当な相槌を打ちながら夜通し歩き続けた。
◇
そうして数夜目。
月は薄く、弱々しい光を梢に投げている。
山際の上り道。目を転じれば、深い淵の底からざあざあと川音が響いてくる。
それまで黙々と歩を進めていたティアは、足を止めた。
顔を上向かせ、くんくんと鼻を鳴らす。
「どうした?」
ファン・ミリアがすぐに横に立つ。
「風に人のにおいが混じっている」
ティアは山のほうを指さした。
「ひとりやふたりじゃない。いや、動物のにおいもする。馬か」
「山の中でか」
「行儀のいい連中ではなさそうだ。──サティ」
ティアはファン・ミリアを横抱きにする。
「自分で動ける」
「私の趣味だからな」
ティアは両脚に力を溜めて、跳んだ。太い木の枝に着地し、その反動をつかってさらに跳ぶ。
「嫌な趣味だな」
「なんて?」
さらに跳んで、次の木へ。
横抱きにしたまま、ティアはファン・ミリアに顔を寄せた。
「よく聞こえなかった。なんて?」
「……顔が近いぞ」
表情をそのままに、ファン・ミリアが顔をそらした。
「上官殿はすぐに照れるのが玉に瑕だな」
すると、ファン・ミリアが何か言いたげに睨んでくる。
ティアはまじまじと見返した。
「凛々しいが、私だけに見せてくれる表情じゃない」
「……部下に隙を見せるわけにはいかないからな」
「実は私は団員じゃない」
「知っている」
「笑顔は?」
「急には作れない」
見つめたまま、ティアはファン・ミリアに瞳を、その唇を近づけていく。
春風に木の葉が舞い、踊る。
風が過ぎた木々のむこうから、地が響き始めた。
木の下は下草が踏み分けられた道になっている。獣道よりもわかりやすく、その幅も広い。
明らかに人工的に作られた道である。
やがて、馬群の影が見えはじめた。
樹上のふたりには気づかず、馬に乗った男たちが次々と駆け抜けていく。
毛皮の上着をまとい、粗野そのものといった顔つきで大声を上げている。
「山賊か」
ティアから手を放し、ファン・ミリアが小声で言った。
「らしい」
ティアはうなずく。この道は山賊たちが使う秘密の抜け道なのだろう。彼らはこういった地の利を用いて旅人や商人を襲い、あるいは軍の追跡を逃れている。
「何か急いでいるようだった」
ティアは山賊たちが消えた坂の向こうへ顔を向けた。木から下り、坂の頂上まで歩くと、一気に視界が広けた。
山賊の抜け道を下ると、街道にぶつかる。街道を横断した向こう側は、上下に勾配の続く野原が広がっていた。
その景色に、先ほどの山賊たちが走っている。
「馬車を追っている」
かすかな月の光を頼りにティアは夜目を利かせる。
この道だけでなく、山賊は様々な抜け道を使って合流し、その数を増やしている。百名は超えているだろうか。山賊にしてはかなりの規模である。
それらの集団が、脇目もふらずに馬車を追いかけている。
「──ティア」
ファン・ミリアから呼ばれ、ティアは息を吐いた。
その背に翼を広げる。すると、何も言わずにファン・ミリアがティアの首に腕を回してきた。
「こういう時は素直だな」
「非常事態だからな。人命優先だ」
再びファン・ミリアを抱き、今度は飛んだ。翼を羽ばたかせ、風に乗る。
「しかし──」
ファン・ミリアは野原を走る馬車に目を落とした。
「この時間に、馬車の旅か」
馬車はそれほどの大きさでもないが、箱馬車で、よく装飾されているようだった。弱い月明かりの下で、きらきらと光を弾いている。
ティアはうなずいた。
「自分は金を持っていると公言しているようなものだ。貴族かな」
「なら見捨てるか?」
ファン・ミリアが訊いてくる。
「ここで見捨てると、私がサティに見限られそうだからな」
「私にどう思われるかで判断するのはよくないぞ」
「──こう見えて元貴族なんだ」
ティアは高度を下げていく。「どうする?」とファン・ミリアに訊くと、
「最後尾に着けてくれ。まず馬を確保する」
「わかった」
野原の上を滑空する。馬群の背後についたティアに気づきもせず、山賊たちは前を走る馬車に夢中になっている。
ファン・ミリアが手の動きで相手を示す。
言われた通り、ティアはひとりの山賊の馬に取りついた。まず、ファン・ミリアが馬に飛び移り、山賊が座る鞍の後ろにまたがった。
異変に気づいた山賊が、後ろを振り返った。
「な──!」
驚愕する山賊の口を、ファン・ミリアが手のひらで抑える。相手が抵抗するよりも早く、ファン・ミリアは巧みに自分の身体を割り込ませ、男を馬から落とした。
手綱を取った。
そこに、翼をおさめたティアが降りてくる。
ファン・ミリアの後ろに横座りになった。馬の速度を落とさないよう、ほとんど体重をかけていない。
次の山賊にファン・ミリアが馬を寄せていく。
横座りのティアが、山賊に手を振った。
「──コンバンハ」
前方にかかりきりになっていた山賊が、ふと気配を感じてこちらを見る。ティアが笑顔で手を振っている。状況が理解できず、山賊がぎょっとする。あるいは、唖然とする。
そこから山賊が冷静さを取り戻す前に、
『光糸!』
ファン・ミリアが糸で山賊を引っ張り、馬から落としていく。
しかし、数が多い。
「ティアは手を振っているだけなのか?」
不満そうにファン・ミリアが言ってくる。
「サティは知らないのか? 馬に体重をかけないようにするのはけっこう疲れるんだ。その上、サティの苦手な笑顔を作らなければならない」
「本当に要らないな」
冷ややかな言葉に、やれやれ、とティアは肩をすくめた。
「私もちょうど心苦しくなってきたところだし」
走る馬の尻に、ティアは難なく立ち上がった。
「馬車の様子を見てくる」
前方の馬車には、苦艾の家紋が掲げられている。
ティアは翼を広げた。