52 オボロへⅣ
波に揺れる甲板の上で、ルクレツィアはその身を漂わせている。
追いつめられているのは襲撃者──仮面の女のほうである。時間をかければ船員たちに囲まれるのが目に見えている。
焦れた仮面の女が動き出した。その初動を制するため、ルクレツィアがナイフを投擲した。正確無比なナイフが女の左胸を狙う。出鼻をくじかれた女はのけぞりながら片刃剣ではじいた。
ルクレツィアの狙い通りである。
はじかれたのではなく、はじかせた。
すでにルクレツィアの二投目が繰り出されている。一投目と同じ軌道をなぞっているため、仮面の女が気づいたときにはもう、ナイフは間近まで迫っている。そのうえ、一投目で女は態勢を乱している。
しかし──
カツン、とナイフが硬質なものに当たる音が響いた。
仮面でナイフを受け止めたのだ。その仮面の一部が欠けて、青緑の瞳と、その周縁の異常に白い肌の一部があらわになる。
「へぇ……」
ルクレツィアは目を丸くさせた。女がこちらめがけて駆けてくる。
ルクレツィアは、次の投げナイフを用意している。指の股に挟み、左右八本。
まず、右手の四本を仮面の女に投げ浴びせた。
解き放たれたそれぞれのナイフが、放射されるように女の四肢を狙う。
女が甲板を蹴り、横に飛んだ。すべてを避けきれず、ナイフの一本が女の腕に刺さる。
「痛い痛い」
ルクレツィアは目を細め、左手の四本を投げる動作に入る。が、ぴたりと腕の振りが止まった。
女の背後に、味方の船員たちが立っている。
「考えてる」
下手に投げれば同士討ちになる。
片刃剣の間合いに、入った。
ルクレツィアは即座に投げるのをあきらめ、後転した。
背後は階段である。
ぶん、という風を切る片刃剣の音を聞きながら、ルクレツィアは踏み板に手をつい
た。後転しながら、編み上げブーツのつま先、仕込みナイフを出して牽制する。
反応した仮面の女がいったん上体をそらす。
ルクレツィアは階段の途中に着地した。
仮面の女が上、ルクレツィアが下。角度がついて、女の背景は、味方の船員ではなく夜空に代わっている。
そして……。
夜の光が届きにくい、階段の途中で。
まだ底ではない、闇の途中で。
仮面の女だけが見たもの。
ルクレツィアの口の端が上がっている。しなやかな肢体をかがませ、殺意ある上目遣いに、ぺろりと唇をなめる姿は、妖しくもなまめかしい。
『サァ、イラッシャイ』
左手の四本のナイフが、手招きするように、揺れる。
『死線ノ、コチラ側ニ……』
ルクレツィアに歪んだ笑みに、仮面の女が躊躇するように立ちつくす。
その時──
「あちょー」
仮面の女の横顔を、カホカの飛び蹴りがとらえた。
「うめぇ!」
ふっとんでいく女を、さらにカホカが追いかける。
「いえーい、不意打ちは最高だー!」
完調したことで戦闘意欲が上がってきているらしい。
「ぼっこぼこにしてやるぅ」
仮面の女に踊りかかっていく。
「カホカ……」
ルクレツィアは拍子抜けした顔で、ぽっかりと開いた夜空を見上げた。
やがて、あきらめたようにくすりと笑みをこぼす。
「まったく」
ゆっくりと息を吐き出す。
間がいいのか、悪いのか。
──サティ、と。
ルクレツィアは心の中でファン・ミリアに呼びかける。
──あの子を手元に置きたいと思ったあなたの気持ちが、わかる。
カホカ本人は意識していないだろう。
生きるテンポ、と呼べばいいだろうか。それが、ファン・ミリアやルクレツィアとはまるでちがうのだ。
その足音が、自分たちとはちがう足音の律動が、なぜこうも耳に響くのだろう。
ナイフを給仕服の下の革帯に戻し、立ち上がろうとした。
「──あんた、まるで物憑きみたいだな」
すぐ背後で声がした。はっとしてルクレツィアが振り返ると、すぐ下の階段に人が立っている。
プラチナブロンドの髪が、まず目に入った。
男だ。
どういうわけか、肩に人をかついでいる。
「誰……?」
◇
船上のあちこちを跳び跳ねながら、カホカが仮面の女を追いかけ回している。
「待てこら!」
仮面の女が自船に戻っていく。逃げを打ったらしい。
カホカが敵の船に乗り込もうとしたところ、バディスから静止をかけられた。
「カホカさん! 深追いは禁物ですよ!」
甲板から戻れ戻れと手を振ってくる。
「うっさい!」
カホカは空中で言い返す。
「アタシの上げ上げの戦闘意欲を奴の血で冷ましてやる! じゅうって」
「つっこむとまた怪我しちゃいますよ!」
「む?」
「怪我すると、ティアさんに会いに行けなくなっちゃいますよ! 王都のときみたいに」
「……」
カホカは手すりの上に着地した。蛙のように両手をつき、不満そうに唇をとがらせる。
「あんだよ……バディスのくせにうがったこと言いやがって」
船はすでに動きはじめている。
最後尾、欠けた仮面から女の目がのぞいている。こちらを見ているのはわかったが、その感情は読めなかった。
ふん、とカホカは鼻を鳴らし、
「ぶぁーか」
べぇーと舌を出して相手を挑発する。
ふと、甲板からざわめきが聞こえた。
「なんだぁ?」
見ると、捕虜にされた海賊たちに異変が起こっているらしかった。
「拷問でもしたの?」
手すりから飛び降りて聞くと、「まさか」とバディスは首を振った。
「何もしてません。突然、苦しみ出したんです」
「どういうこと?」
手近の海賊から仮面を剥ぎ取る。げげ、とカホカは後退った。
男が苦悶の表情を浮かべている。痙攣を起こし、ぎりぎりと噛み締めた歯のすきまから泡を吹いている。
「きもっ! やばいんじゃないの、これ」
「毒ですね。あらかじめ咥内に仕込んでいたんでしょう。蛇の、暗殺ギルドでも使われることがありました」
バディスが悲しそうに説明する。
「部下にこんなことをさせるなんて、ろくな集団じゃありません」
予期せぬ襲撃者たちの行動に、船員たちも成り行きを見守ることしかできない。
かなり強力な毒らしく、全員が絶命するのに時間はかからなかった。
そんななか、モシャン船長がカホカの前に進み出てくる。
「ご協力を感謝します。──カホカ嬢」
カホカは半眼になった。
「アンタには聞きたいことがある」
「お聞きします」
「アンタは、どこまでアタシたちのことを知ってるわけ?」
「どこまで、とは?」
面の皮の厚い男だ。カホカは苛立ちはじめている。
「アタシさ、あんまり気が長いほうじゃないんだ」
腕をぐるりと回した。
「こっちはとりあえずアンタを信じて助けてやったんだ。答えなよ。嘘ついたらイルカの餌にしてやるから」
カホカさん、カホカさん、とバディスが後ろからひそひそ声で耳打ちしてくる。
『イルカは人を食べません』
『……こっちが食べるほうだっけ』
カホカも小声で応じる。
『いや、普通は食べません』
『まじ? じゃ、なんのために生きてんの、あいつら』
『それはイルカに聞いてみないと』
そこで、カホカはバディスに肘鉄をくらわせた。
「そんなことは今どうでもいいんだよ!」
「た、たしかに……」
バディスが膝から崩れ落ちていく。
ともかく、とカホカは咳払いをして、船長を見上げた。
「──アンタ、なんでアタシたちに助太刀をお願いしたわけ?」
「それは……」
モシャンは口ごもる。
「おかしいよね。アタシたち、そんなに強そうに見える?」
知らない者から見れば、カホカはルーシ人の少女、バディスは眠そうな青年、ルクレツィアはどこかの貴族の給仕といったところか。それはそれで目につくが、すくなくとも腕が立つ人間には見えない。
「アンタは、アタシたちが何者かを知ってる。──いつ、どこで知ったの? アンタの目的を教えてよ」
モシャンは、黙り込んでいる。
ただ、カホカとして意外なのは、モシャンが、返事に困っている、という様子には見えないことだった。何かを隠している、それは確かだろう。にもかかわらず、悪びれてもいないし、動揺もしていない。
すると、
「──モシャンは話さないよ。俺が口止めしてるから」
男の声がした。
「ウィノナ様……」
モシャンがつぶやくのがカホカの耳に届いた。
──ウィノナ?
ウィノナと呼ばれた男は、肩に人をかついでいた。
年の頃はバディスと同じくらいだろうか。プラチナブロンドの髪に、切れ長の一重まぶた。薄手の長袖に、ゆったりとした青い上着を着流している。腰帯の裏から、金細工の施された剣がのぞいて見えた。
「アンタが元締めかよ」
カホカが聞くと、ウィノナと呼ばれた男がしげしげと見つめてきた。
「あんだよ?」
「カホカ=ツェン。思ったよりもかわいい顔してるな」
「はぁ?」
「元リュニオスハートのハネっ返り。女だてらに家を捨てたって聞いたな。なかなかな爽快な娘だって噂になってたぞ」
「余計なお世話だっつの。誰だおまえ?」
「ウィノナ=セリーズ」
「セリーズ……」
カホカは口ごもった。
セリーズは北を領する大貴族の家名である。気がづけば、階段口にはルクレツィア、だけでなく、ソムルとその従者のじいやが立っていた。
ウィノナは肩にかついだ何者かを甲板にほうる。仮面をかぶった男だ。さきほどの襲撃者のひとりらしい。身体に深い切り傷がある。息はしていなかった。
「陽動だな。カホカたちが船上で戦っている間に、刺客を窓から送り込んできた」
「刺客?」
反芻して、カホカはようやく気づく。
襲撃者は、海賊ではなかった。
では狙いは?
「……ソムル」
思い至ってカホカはつぶやく。
「そういうこと」
ウィノナはうなずいた。
「お前たちのおかげで、俺は安心してソムル様に付いていられたってわけ」
「アタシたちをダシに使ったのかよ?」
カホカとしては面白くない。
ちがう、とウィノナは笑った。
「俺たちにとって、ソムル様は最重要人物なんだ。感謝してるし、礼はするよ。ついでにカホカの質問にも俺が答えてやる」
そこまで言われると、とりあえず黙るしかない。
「夜が明けて、しばらくすればオボロ港につく。そこで話そうぜ」
「逃げる気かよ?」
「カホカは飯を食うのが好きなんだろ? レム島でめっちゃ食ってたらしいな」
「あん?」
「オボロの飯は目ん玉しぼむくらいにうまい。王都なんかの比じゃないぜ。最高級の海鮮を食べさせてやるよ。それまで我慢できるか?」
「……できる」
じゅるり、とカホカは口もとのよだれをぬぐった。