50 オボロへⅡ
その夜。
旅の無聊をかこって、カホカは旅鞄をひらいた。羊皮紙の束を寝台の上で読みはじめる。
王都で消息を絶った行方不明者の名簿である。鷲のギルドのディータから持たされたものだった。
羊皮紙をめくっていると、隣の寝台で寝ていたバディスが身を起こした。
「……おはようございます」
ソムルとの話が終わってから、いままでずっと寝ていたのだ。人間のカホカとはちがい、バディスが活動を開始するのは日沈後である。吸血鬼ほど夜に束縛されないが、首無し騎士としても好ましい時間帯があるらしい。
「寝てていいよ。航海は順調だってさ」
読みながらカホカが言うと、「じゃ、お言葉に甘えて」と、バディスは再び寝台に寝転がった。
部屋は狭い。
二段づくりの寝台を両壁に置いて、その間に通路を通しただけの部屋である。
四人部屋だが、利用者はカホカたち三人だけ。カホカとバディスがそれぞれの寝台の下段をつかい、カホカの上にルクレツィア、バディスの上に荷物を置いた。
「あれ、ルクレツィアさんは留守ですか?」
「船長と夕食」
「さすがですね」
「今夜は帰ってくるなって言っといた。ルクレツィアなんて、船長の胸毛の本数でも数えてればいいんだよ」
ふてくされた口調に、そうですか、バディスは苦笑する。口ではなんだかんだと言いながら、カホカはルクレツィアのことが嫌いではないのだ。
「カホカさんも、ソムル君から招待されたんでしょう?」
「やだよ。どーせティアの話ばっかりだし」
自分が招待されても断るくせに、自分以外が招待されると鼻につく。微妙な心理である。
「ソムル君、お忍びらしいですが……」
「本人も言ってたじゃん、わけありって」
「王族が、護衛も付けずにですか?」
「アタシに聞かれても知らないよ」
カホカは羊皮紙に目を落としたまま──でも、と内心で思う。
たしかにバディスの言う通り、王族が護衛をつけないのも変だ。あの執事は、どう考えても腕の立つ者ではない。戦闘力は皆無だろう。
とはいえ、それが執事としての優劣を決定するものではない。
『──従者だって、いろいろだもの』
これはルクレツィアの言だ。
『主の護衛を兼ねる者もいれば、身の回りのお世話だけに終始する者、教育を任されているだけの者もいる。王族のお付きともなれば、能力よりも出自や信頼が優先されることもあるでしょう。一概には言えないわ』
もっともだとカホカは思った。
「あのじいやって人、アタシが元貴族だってことに気づいてたし」
「そうなんですか?」
やや驚いたバディスの声に、
「ソムルの室を出た時に、じいやが言ってたじゃん」
ティアーナ様も、ご貴族でいらっしゃいますか、と。
あれは、カホカが(元)貴族だと知った上での質問だろう。
「ソムルが王族だってアタシが気づいたみたいに、むこうがアタシのことに気づいても不思議じゃないでしょ。よっぽど社交界に通じた人じゃないと無理だろうけど」
その意味で、じいやは優秀なのだろう。もしくは、ルクレツィアに同業のにおいを嗅ぎ取って、主がカホカだと誤解したか。
どちらにせよ、カホカが貴族に関わる者だと思ったことにちがいはない。
その上で、じいやはティアが貴族かどうかを尋ねてきたのだろう。彼が真実、ソムルを案じる者なら、ソムルの想い人の身分はきわめて重要だ。
王族が娶ることができるのは貴族以上の身分を持つ令嬢に限られる。しかも、これはあくまで最低ラインで、王位継承順位で考えれば、ソムルに見合う相手は侯爵以上の家格であることが望ましい。
つまり、とバディスは理解して、
「もしカホカさんがいまも貴族だったとして、それでもソムル君とは結婚できないんですね」
「正妻としては絶対に無理。たとえば──アタシがソムルを狙ったとするでしょ? そうすると、いまぐらいの時分から頻繁に屋敷に出入りして、ソムルの興味を惹く会話ができるように勉強する。好物を聞いて、手料理を作ったりもする」
「いじらしい努力ですね」
「んで、破れやすいドレスをいつも着ていって──」
「あれ?」
「じいやとかを懐柔して──」
「……カホカさん?」
雲行きがあやしくなってきた。
「ふたりきりになるのを黙認してもらって、庭の散歩中にたまたまドレスが枝先にひっかっかって破れて、ソムルが発情して、木陰でイチャついて、お預け食らわせて、夜這いさせて、いたして、それをたまたま家人に目撃されて噂になって、その後、ソムルに近づいてくる他の女を鷲のギルドに暗殺させて、社交界に金をバラまいて、王族に賄賂が届くような仕組みをつくっても、無理。無理なものは無理。王族とは結婚できない──あ、でも」
そこでカホカは思い至った様子で、
「いまの東ムラビアなら、侯爵以上の地位を買えばなんとかなるかも。や、それでも家の歴史が浅いと難しいかな、やっぱり」
「……それだけ大変ってことはよくわかりました」
話が終わり、しばらくバディスがまどろんでいると、
「そういう話が大好きなんだよ、貴族の女って」
「え?」
「……アタシはしてないからね、そんなこと」
ぽつりと、カホカが言った。
「知ってますよ」
意味がわかり、バディスは微笑う。
「カホカさんはしません。──ただ、貴族として生きるのも楽じゃないんだな、とは思いましたけど」
「まーね」
カホカいわく、貴族に生まれた女は、多かれ少なかれ、意中の男子を落とす術を社交界で学ぶらしい。
「でも、成功すれば実入りも大きいからね。頑張る人もいるんじゃない? 失敗すれば暗殺が待ってるけど」
あとは、とカホカは羊皮紙から目線を上げて考える。
「例外的にサティなら許してもらえそう」
「ああ、たしかに」
平民の出自ながら、救国の聖女としてファン・ミリアの人気は絶大である。彼女が王族と結ばれるのであれば、誰も文句は言うまい。
「──サティがどうしたの?」
そこへ、ルクレツィアが部屋に入ってきた。
「船長と夕食は?」
カホカは怪訝顔を作る。まだ半刻も経っていない。
「終わったわよ」
「早くね?」
「ご挨拶ね。カホカが退屈していると思って早く帰ってきたのに」
「アタシのせいかよ」
「船長も暇ではないのよ。なにか急用ができたみたい」
耳飾りをはずしながら、ルクレツィアはカホカの寝台の脇に腰をおろした。
「んで、船長の胸毛の本数はわかったの?」
「そんなの直接本人に聞いてよ」
ルクレツィアは言って、
「──それで?」
カホカを見下ろした。
「サティが、何?」
「たいした話じゃないよ。サティなら、王族とも結婚できるだろうなって話」
「王族と?」
ルクレツィアがまたバディスを見た。昨夜の会話を引きずって、多少の気まずさを感じたバディスだったが、平静を装い、
「仮の話です。ソムル君がもしティアさんと結婚したいと思っても、実際には厳しいだろうな、と」
「ああ、それでサティなら、ってことね」
でも、とルクレツィアは唇に指を当てた。
「嫌だったみたいよ。本人としては」
「どういうこと?」
羊皮紙を置いて、カホカが肘枕をした。
「ウラスロ王子から何度も舞踏会のお誘いをうけていたけれど、その度に嫌そうな顔をしていたわ」
「初耳なんだけど?」
「本人は言わないでしょうね。むしろ、不名誉なことだと思っているのかも」
「そりゃそうだ。サティがウラスロ王子と結婚したら、アタシは失望する」
「王子の本性を知っている人は、そう思うでしょうね。──でも、わからないかもよ、男女のことですもの」
ルクレツィアが薄く笑う。カホカは「ん?」とルクレツィアを見上げた。
「その時は、ルクレツィアが反対するでしょ?」
「私が? しないわよ、なぜ?」
「友達じゃん」
「意見を求められれば、反対するかもね。友人として。でも、王子の本性を知った上で、それでもサティが選んだなら、私は何も言わないでしょうね。何か理由があるかもしれないし、ないかもしれない。彼女は彼女の仕事をして、私は私の仕事をする。それだけよ」
「ドライすぎない?」
「心外だわ。そのかわり、サティがどうなったとしても私は見捨てないわよ。たとえサティと王子が結託して、大虐殺を行ったとしてもね」
「歪んでる」
すると、ルクレツィアはころころと笑った。
「歪んだ短剣みたいに? でも、歪んでいるぶん、殺傷能力は高いのよ」
「どうでもいいよ」
そんなことよりさ、とカホカは羊皮紙の一枚を手に取った。
「船長とは、いい感じなの?」
「情熱的な人ね。言い換えれば、ただの女好きかしら。あとお給料は安そうね」
「男女のことはわからないんでしょ?」
「そうきたか」
自分の吐いた言葉に、ルクレツィアは苦笑する。
「わからないけれど、いまのところ魅かれる要素はないかも」
「いろいろ聞かれた?」
「何について?」
訊き返され、カホカは声を落として、言った。
「ウラスロ王子について」
「……なぜ船長が王子の話を聞くの?」
ルクレツィアが身体ごとカホカを向く。バディスも、おや、という表情で顔を上げた。
「この名簿にさ、載ってるんだよね」
カホカが、ふたりに見えるように羊皮紙を持ち上げた。
「モシャンって名前がさ」
その時、船内に警鐘が鳴り響いた。