49 オボロへⅠ
カホカの『勘』は想像以上に早く的中した。
黒の海エギゼルが、ほのかに青みを帯びるころ、カホカたち三人を乗せた船はレム島を出港した。
直行便のため、オボロ港までは一日半ほどの旅程である。
特に考えずに船室へと下りていく。そして、ちょうどドアの前にカホカが立った時だった。室内から男の子が出てきて、カホカとぶつかった。
「あ──」
男の子の手から、持っていた何かがすべり落ちた。
「よっ、と」
すかさずカホカが手を伸ばし、空中でそれを掴む。
「申し訳ありません」
丁寧な口調で、男の子が顔を上げた。その顔を見た瞬間、
──おお、すげー。
カホカは瞳を大きくさせた。まだ十歳にも満たないであろう男の子は、驚くほど整った顔立ちをしていた。身なりもよく、一目で貴族の子弟とわかる。
「ここって、アンタの室?」
だからといって、カホカは口調を改めることはしない。
「はい」と、男の子はうなずく。「それが何か?」
ハキハキした受け答えに、「や」とカホカは首を横にふった。
「アタシたちが室を間違えたみたい」
もともと船室を予約したのは鷲のギルドのサスで、王都からレム島までの便だった。それ以降のレム島からオボロ港までを、すでに別の乗客が予約していたとしもおかしくはない。この船が客船である以上、むしろ当然のことだろう。
急遽、船長の好意によって船に乗ることはできたが、船室も同じままだと思い込んで確認をしなかったカホカたちに非はある。
「それじゃ」
と、男の子が落とした物を返そうとした、そのカホカの手がピタリと止まった。
──え?
さきほど男の子を見たときよりも瞳を大きくさせ、カホカはその『物』から目が離せなくなる。
「これ、ティアじゃん!」
「え?」
驚いたカホカの声に、バディスとルクレツィアが肩の上からのぞき込んでくる。
「ほんとだ、ティアさんですね」
「私もわかるわ。これ、ティアよね」
ふたりともすぐに認めた。
男の子が落としたのは、絵だった。
油絵である。額縁には鍍金の装飾が施してあり、小ぶりで、はじめから携帯用に作られたものらしい。
その絵に描かれている人物──
胸から上のティアが描かれていた。
艶のある長い黒髪に、赤い瞳。
優しく、見る者に微笑みかけてくる表情は、吸血鬼というより、むしろ女神のような印象を受ける。というか、本当に光輪(後光)を背負っているから困る。おまけに赤ん坊の天使まで飛んでいる始末だ。
──そりゃ、ティアがキレイなのは認めるけどさ。
もとより美人なのはカホカとて承知しているが、それを差し引いてもティアに対する解釈がひどい。
すくなくとも、奴の周囲に天使は飛ばない。
蝙蝠を飛ばせよ蝙蝠をよ、とカホカが思っていると、
「いや、僕にはまさにティアさんに見えますね」
わかるー、とバディスがしきりに首を縦に振っている。
「アンタには聞いてないから」
冷たく言って、さらにカホカは気づく。
「そういや、この服──」
描かれた服に見覚えがあった。白のトゥニカの上に黒い長衣を羽織り、胸下で結んでいる。実際にティアが着ていた服だ。
いつごろだっけ、とカホカは記憶を探る。
「えーと、たしか……」
カホカはこめかみを指で押さえた。
「王都の……月の雫亭で着てたんだよね。このトゥニカ」
「ですね。僕が宿で目を覚ましたとき、ティアさんが着ていました。でも長衣のほうは……」
「あー、そっか」
含みのあるバディスの物言いに、カホカは完全に思い出した。
この姿は、ティアとカホカが鷲のギルドに行った夜、幽閉されていたレイニーを探して王城に忍び込んだときの服装なのだ。
その後、(ティアの話では)化物の執事に襲われて、(蝙蝠をつかって)バディスの血を飲み、カホカを助けるためにファン・ミリアの前に現れた……。
長衣は、化け物との戦闘で破れて血まみれになっている。だから、ティアがこの服を着ていた期間はごくわずかということになる。
思い出すほどに、この絵の奇妙さが際立ってくる。偶然にしては再現度が高すぎるのだ。
「ごめん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど──」
言いながらカホカが顔を上げると、男の子は夢なかばといった表情で、
「ティア……」
つぶやき、はっと我に返った。
「この女性をご存じなのですか⁉」
つっかかるようないきおいでカホカに迫ってくる。
「おぉ、なんだなんだ?」
とっさに、カホカは男の子の額に手を当てた。
「そ、その女性は誰ですか?」
カホカに寄れず、男の子は手足をばたつかせている。
「ティアだよ。ティアーナ。アタシたちの連れ」
「ティアーナ……彼女は、この船にいるのですか?」
「いないよ。これから会いに行くところ。ちょっと寄り道するかもだけど」
男の子の動きが止まった。がっくりと肩を落とす。
「そうですか……」
見るからに意気消沈している。
「つーか、なんでアンタがこの絵を持ってんの?」
「それはですね!」
男の子は背筋を伸ばして胸を張る。上がったり下がったり、気分の浮き沈みが激しい子供である。
「その女性が、僕のお嫁さんになる人だからです!」
「──は?」
カホカとバディスの声が重なった。「まぁ」とルクレツィアが口を押さえる。
「申し遅れました。僕の名前はソ──ぁ痛っ!」
男の子が名乗り終える前に、カホカはデコピンを喰らわせていた。
「ちょっとカホカさん、子供になんてことするんですか!」
バディスの非難に耳を貸さず、いいか小僧、とカホカは涙目のソなんとか君に顔を寄せた。
「昨日、ティアは死んだ」
「えぇ? でもさっき、会いに行くって」
「水と思って大量の海水を誤飲した。悲しい死だった」
「……無理がありすぎる」
ぼそりとつぶやいたバディスの腹に、カホカは肘鉄を食らわせた。うっ、とバディスが膝を落とす。
「口封じね」
ルクレツィアの言葉を、やはりカホカは無視した。
◇
『ソムル』と、男の子は名乗った。
「理由があって、家名を明かすことはできません」
本人はそう言ったものの、
──こいつ、王族かよ。
元貴族のカホカである。すぐにピンときた。社交界に顔を出す機会はすくなかったが、ソムルという名で思い浮かぶ人物……。
金髪碧眼。
十歳未満の男子。
明らかに高貴な身分。
すべての情報と合致している。
──ソムル・ソーシャ=ディル・ムラビア。
東ムラビア王国、現王デナトリウスの次子、つまりウラスロ王子の弟、ということになるのだが。
団体用の一等室にて。
──うーむ。
カホカは腕組みをして、向かいに座るソムルに視線を注いでいる。対するソムルは眼をキラキラさせ、カホカが話し出すのを待っている。あの悪名高いウラスロ王子と本当に血がつながっているのか疑いたくなるような屈託のなさだ。
また、その背後には、人のよさそうな老執事がひとり、にこやかな表情でひかえていた。
「じいや」
見た目どおり、ソムルからそう呼ばれている老執事は、薄くなった白髪に、緑の瞳を持っている。
お忍びらしく、随伴者は彼だけらしい。
「んで、ティアなんだけど」
カホカがそろりと話し出すと、「はい!」と少年が嬉しそうにうなずいた。
「本名はティアーナ=フィール。十六歳。性別はたぶん女。あと……太陽が苦手」
吸血鬼であること、それ以前はタオ=シフルであったことを隠そうとすれば、自然とこうなる。
「ご静聴どーも。てなわけで、さいなら」
カホカが早々に引き上げようとすると、
「待って、待ってください!」
「なんだよー」
必死に止められ、カホカはしぶしぶ座り直す。
「ティアさんは、ご病気なのですか?」
「そそ、不治の病」
病でこそないが、治らないという意味では同じだろう。
そうですか、と心配そうなソムルに、「大丈夫」とカホカは補足してやる。
「太陽さえなければ、夜は元気だし」
「なるほど。だから僕に会いにきてくれたのも夜だったんですね」
「……会いにきてくれた?」
ぴくりとカホカが反応する。それを見るや、すぐさま隣のバディスが『殴っちゃだめですよ』と、耳打ちしてくる。
『冷静に、まずは彼の話を聞きましょう』
『わかってるっつーの』
ふたりが内緒話をするかたわら、ルクレツィアは、むしろソムルの背後にひかえる『じいや』に興味があるらしい。同業者であり、王族付きの従者ともなれば、プロ中のプロということになる。
職業人として、先達から学ぼうとしているのだろう。
「あの人が……ティアさんが、僕の家に来てくれたのは、嵐がはじまる夜でした」
ソムルがティアとの出会いを語りはじめる。
「雨の降りはじめに、雷が鳴りました。僕は雷が苦手だったけど、気がついたら庭に出ていて、そこにティアさんがいたんです。ティアさんは、その……僕を……」
ソムルが、恥ずかしそうに顔をうつむかせる。
「何だよ……何したんだよ……!」
カホカは気が気でない。思わず身を乗り出した。
「抱きしめてもらいました。……たぶん」
「たぶん?」
「実は、よく覚えてないんです」
次に目を覚ましたとき、ソムルは庭先で寝ていたらしい。それからすぐ聖騎士団が屋敷を訪ねにきたが、ソムルは何も知らないと答えた。
それ以来、ソムルは寝ても覚めてもティアのことが忘れられず、想いが募って画家にティアの肖像を描かせ、常に持ち歩いているのだという。
「へー」
と、カホカは応えるしかない。バディスに目くばせをすると、すぐに耳打ちしてきた。
『この子は眷属ではありません。群れの仲間でもない。ティアさんは、この子の血を飲んではいません』
『……だよね。アタシもそう思う』
カホカの見解とも一致している。バディスが言うなら確実だろう。
なぜティアがソムルを抱きしめるような真似をしたかはわからないが、ソムル自身、記憶にあいまいな部分が多く、話のぜんぶを鵜呑みにすることはできない。
ティアの心情は、本人に聞かなければわかりようがない。
その後、ティアについてのあれこれを矢継ぎ早に質問されたが、カホカは当り障りのない受け答えをした。
──サティのときと同じだよな、これ。
ファン・ミリアの屋敷に行ったときも、こんなふうに質問を浴びせられた。
そのときはタオへの質問だったが、今回はティアである。
どちらにせよ、質問の意図はカホカにとって好ましいものではなかった。
「んじゃ、そういうわけで」
いい加減、うんざりしてカホカが話を切り上げると、まだティアの話を聞き足りないソムルから「ぜひ朝食を」と誘われたものの、カホカは固辞した。
室を出しな、
「カホカ様──」
見送りに通路まで出てきたじいやが、ふと口を開いた。
「ティアーナ様も、ご貴族でいらっしゃいますか?」
「貴族じゃないよ。ティアも、アタシも」
「それは大変失礼いたしました」
ありがとうございました、とじいやは深々と頭を下げた。