45 仲直りの紅茶を淹れて……(後)
船室の長椅子に座っていても気が滅入るだけだ。
カホカは寝室を覗いてみた。
ふたつの寝台のうち、片方にバディスが寝ている。
カホカはつかつかとその横に立つと、何も言わずに肌掛けを放り上げ、寝台の上に飛び乗った。バディスを見下ろす。
「んあ……?」
と、バディスが眠そうにまぶたを開けたところで、その両足を抱えた。
「いつまでも呑気に寝やがって」
抱えたバディスの足と自分の足とを組み、四の字固めを喰らわす。
「うぇええ? カホカさん、タンマタンマ!」
「なんでアタシばっか……くそ!」
「何の話ですか、って痛てててて」
ほーれ、ほーれ、とカホカは身体をそらしてバディスの足に体重をかけていく。いまのカホカにとって、痛がるバディスが心を癒す唯一のオアシスなのだ。
「この美少女以外の何者でもないカホカちゃんに四の字極められる喜びはどうか! どうなんだ? よーろーこーびーをー!」
「いい加減にしてくださいよ」
バディスとてやられてばかりもいられない。力づくで身体を反転させた。
「あ、てめっ──!」
お互いの身体が仰向けになった。すると、
「いでででで!」
今度はカホカが痛がりはじめる。
ふふふ、とバディスはうつ伏せでほくそ笑んだ。
「僕だって、いつもいつもやられてるわけにはいかないんですよ」
「バディスのくせに味な真似を……!」
四の字固めは反転することにより、かけた側がダメージを喰らうという、非常に繊細な技なのだ。
再びカホカが身体を反して仰向けになろうとする。が、そうさせじとバディスがうつ伏せの体勢を維持する。
「ほっ!」
と、カホカが身体を反そうとすれば、
「はっ!」
と、バディスが体勢を死守する。
「ほっ」、「はっ」と見えない応酬を繰り広げながら、結果的にふたりの体勢は変わらない。
そうこうしているうちに……。
コンコン、と開いたドアの内側をノックする音が聞こえた。
「──何をしているの、って聞いたほうがいい?」
「ルクレツィアさん! いえ、これはちがうんです」
バディスは戸惑いを表情に浮かべ、しどろもどろに釈明する。
「カホカさんが僕の寝込みを襲うから!」
「誤解を与える言い方してんじゃねー!」
隙をついて、カホカが身体を反した。両者が仰向けに戻る。
「のおおお!」
と、バディスが痛がるのを、
「仲がおよろしいことで」
ルクレツィアは肩をすくめる。
「じゃれるのに気が済んだら、こっちに来て」
さらりと手を振って、居間へと戻っていく。
「……」
カホカとバディスは顔を見合わせた。そして。
「飽きた」
カホカはするりと自分の両足を引き抜いた。
「あれ?」
「バディスを冷やかしても全然面白くないし」
そもそも、人よりも身体が柔軟にできているカホカに四の字固め程度のおおざっぱな関節技は通用しないのだ。
「じゃ、そういうわけだから。寝すぎると脳みそ溶けるよ?」
呆気に取られるバディスを尻目に、何事もなかったように寝室を出ていく。
「……悪魔だ」
寝室に、ただ無意味に叩き起こされたバディスだけが残された。
◇
居間の長椅子に腰掛けると、向かいのルクレツィアが紅茶を淹れていた。ポッドからお湯を注いでいる。火はない。でも、お湯はある。
「どうして?」
鮮やかな手並みに感心しつつカホカが訊くと、
「船で火は厳禁だから、船長にお願いしに行ったの。そうしたらとっても気さくな方でね、どうぞどうぞって、お湯を沸かしてくださったの」
ついでにカップの一式も貸してくれたらしい。糸のような湯気がくゆるカップを、そっとカホカの前に差し出してくる。
口に含むと、優しい香りがした。
「これ、高いやつ?」
「そこそこ」
と、ルクレツィアもカップとソーサーを手に、向かいの長椅子に腰掛ける。
「……おいしい」
カホカがつぶやくと、ルクレツィアがにっこりと笑った。
「これが仲直りの紅茶よ」
その言葉に、カホカは瞳を丸くした。
「仲直り? なんで?」
「王都でね、申し訳ないことをしちゃったなって、ずっと思ってたの」
カホカはまだわからない。すると、
「私が、あなたとティアを尾行したときのことよ。ティアを傷つけ、あなたにダガーを投げたわ」
「お互いさまじゃね。つーか、アンタを尾行させたのはサティの差し金でしょ?」
「だからこそよ。カホカには、サティの友人でいてほしいの。感情のしこりを残したくないわ」
「……ルクレツィアがいるじゃん」
「私じゃだめなのよ」
ルクレツィアは首を横に振った。
「私たちは家族みたいなものだし。カホカは自分に正直な子でしょう? それがサティにとって良い刺激になると思うの」
そう言って、ルクレツィアは寂しそうに目を伏せた。
「彼女はいま、とても狭い世界で生きているから」
カホカは黙り込む。
ファン・ミリアとはじめて出会ったのは、王城で市が立つ日だった。カホカの滞在先である『月の雫亭』まで尾行したルクレツィアは、カホカがティアと連れ立って外食をするところまで追ってきている。
ルクレツィアの追跡能力は本物だった。
実はあの時、ルクレツィアの尾行に気づいたのはカホカではなく、ティアでもなく、イスラだ。
──イスラかぁ。
その後、消えたイスラと王城で再会して、ティアとともにヌールヴ川に落ちて流されていった。
ティアが無事ならイスラだって無事だろう。
だから心配はしていない。
イスラはいい奴だ。というか、いい犬だ。
イスラ本人は狼だと主張するが、カホカから見れば大きな犬である。それも、喋る犬。最高だ。
思い出すと、ティアだけでなく、イスラにも無性に会いたくなってくる。
──ああ、また。
カホカは自分にうんざりする。
すぐこれだ。
すこしでもうまくいかないことがあると、どこまでも気分が落ちていく。
ちょっと前向きになれたと思ったら、すぐ襟首を掴んで引き戻そうとしてくる。
暗く、ジメジメした、もうひとりの自分がいる。
──くそっ!
むしゃくしゃして、紅茶を呷った。
「あっちぃぃ!」
ぶっはぁ、と口から噴き出した紅茶のしぶきが、ルクレツィアに顔面にかかる。
「えっと……」
前髪から紅茶の滴をたらし、ルクレツィアはカップをソーサーに戻した。
「交渉は決裂、ということかしら」
「ちがうって。ごめん、さすがにごめん!」
平謝りに謝って、カホカは卓の上に膝をついた。ルクレツィアの濡れた顔を拭きにかかる。
「ちょっと考え事してたんだよ」
「へーぇ」
顔を拭かれるがままに、ルクレツィアが笑顔を作っている。口角だけを上げて。
「私が、カホカと仲直りしたくて謝ってるのに、考えごとしてたんだ?」
ルクレツィアが怒っている。当然だ。
「だから、ごめんってば」
胸元まで濡れはじめている。
「アタシが洗っとくから、脱いで」
微動だにしないルクレツィアをなだめながら、カホカが服を脱がそう四苦八苦していると、
「おはようございまーす……」
寝室から、明らかに眠そうな顔をしたバディスが姿を現した。
笑顔にも関わらず妙に迫力のあるルクレツィア。
そのルクレツィアの服を、謝りながら必死に脱がそうとするカホカ。
眠そうな顔をしたまま、ふたりの様子を二度見したバディスが、
「……おやすみなさーい」
そそくさと寝室に引っ込んでいく。
「何しに出てきたんだよ、てめぇ!」
カホカが寝室にむかって声を荒げると、今度は外へのドアがノックされた。通路から声が聞こえてくる。
「船長のモシャンです。いかがですか、ルクレツィア嬢。おいしい紅茶は──」
「いま取り込み中だっつってんだろうが!」
同じ調子で大声を張り上げていた。
「……失礼しました」
足音が去っていく。
「あーあ、親切な船長さんなのに」
「後にしてよ。ったく」
言って、カホカは気がついた。ルクレツィアが、こちらを見上げている。間近に迫っていた。意味ありげに瞳を細めている。
「それで? カホカ」
「……あんだよ?」
「いつになったら服を脱がせてくれるのかしら?」
「ルクレツィア、アンタって──」
カホカは頬を引きつらせた。
「相当、性格悪いよね」
「ありがとう。仲直りの言葉として受け取っておくわね」
くすくすと、笑いながらルクレツィアは付け加えた。
「──主人が聖女ですもの。これぐらいじゃなきゃ、バランスが取れないわ」