44 仲直りの紅茶を淹れて……(前)
エギゼルの海。午前。
レム島往き中型客船の舳先にひとり、旅装姿の少女が海を眺めていた。
ふと、その視線が一点に止まる。
少女は碧い瞳をいっぱいに広げ、手すりから大きく身を乗り出した。
「……なんだあれ」
ルーシ人の少女──カホカはまじまじと見つめる。
魚、ではなさそうだ。
人間の大人ほどの海獣だった。船を先導するように、水面を飛びあがり、沈み、また飛び上がりを繰り返しながら、濡れた薄鼠色の背びれがてらてらと陽光をはじいている。
「……食えるのか? おいしいのか、オマエは?」
ぼそぼそと小声で話しかける。
「イケるのか? イっていいのか?」
そろりと左手に巻いた篭手を向ける。狙いを定めていると、
「イっちゃだめよ」
カホカの横から、すいとルクレツィアが顔を出した。
「イルカよ、あれ」
「イルカ?」
「かわいいわね。餌でも追いかけているのかしら」
外套のフードを深くかぶり直し、ルクレツィアもイルカに見入っている。編み上げの長靴のつま先で、コン、コン、と軽やかに甲板を打ちながら。
「イルカは魚を食べるのよ」
「ふーん」
と、カホカは甲板に足を戻した。イルカは進む方向を大きく変え、じきに海に潜って見えなくなった。
それでもカホカが海を、その先を見つめていると、
「肌が焼けちゃうわよ」
ルクレツィアがカホカの背に手を伸ばしてくる。ルクレツィアと同じようにフードをかぶせられ、カホカは渋面になった。その表情に気づいたルクレツィアが「あら」と、のぞき込んでくる。
「なぜそんな面白い顔をしているの?」
「や」と、カホカは唇を尖らせた。「ルクレツィアは女子力が高いなと思って」
「女子ですもの。低いと困るわ」
「アタシは低い」
「大丈夫。サティよりは高いから」
サティとはファン・ミリア(正式名はサティア・ファン・ミリア=プラーティカ)の愛称である。ルクレツィアは『神託の乙女』ファン・ミリアの従者であり、親友でもあった。
「カホカは、船旅ははじめてなのよね。もう慣れた?」
「飽きた」
「私も」と、ルクレツィアは目線を上に向けた。「こうも代わり映えしないとね。──空も」
カホカも無言で倣った。
どこまでもひろがる蒼天に、風が輝いている。陽ざしは暑いくらいだ。
「本当にいいお天気ね」
横目にルクレツィアを見ると、胸の下で両手を組み、背筋を伸ばしている。お馴染みの立ち姿だが、カホカの目にさえ、どれだけ見ても見飽きることがない。
あまりに整いすぎているので、聖女の従者として、意識的なたたずまいかと思っていたのだが、本人いわく、
「そもそもは両親の教育ね」
職業柄、ということではないらしい。
「信心深い家なの。あと、背が高ったのよ、私」
「背?」
カホカは首を傾げた。ルクレツィアの身長はカホカと比べれば高いが、ムラビア人女性として見れば平均的である。
「いまじゃなくて、子供のころの話。かなり早くからこの身長だったの」
「そうなんだ?」
「サティよりも、他の女の子たちよりも一回り大きかったから、それが嫌で嫌で……男の子たちからはデカ女って冷やかされるし。だから、いつも猫背で歩いていたの」
こんなふうにね、とルクレツィアは老婆のように腰を曲げる。
「それを見かねた父から、『お前、逆にかっこ悪いぞ』って叱られてね。私も『ああ、そっか』って妙に納得しちゃって、直したの」
「いいお父さんじゃん」
そうね、とルクレツィアは微笑む。
「厳格な人だったけれど、たくさんの愛情をもらったわ」
「アタシとは大違いだ」
ちらりとルクレツィアがこちらを見る気配がした。自分の口を衝いて出た言葉に、「ごめん、気にしないで」とカホカはあわてて振り返った。海を背にする。
「部屋に戻ろう」
ルクレツィアの返事を待たず、歩き出した。
◇
──父親のことを思い出すなんて、アタシらしくもない。
我ながらそう思う。
カホカは、階段をつかって船内へと下りていく。客船だけあって、階段の幅は広い。乗客もそこそこいるようで、通路を歩いていると数人とすれちがった。
カホカの背後を、ルクレツィアが無言でついてくる。従者らしい控え目な足音は、こちらに気を遣っているのだろう。
「……サティは何もしないの?」
居心地の悪さを感じて、ついそんな質問をしていた。カホカがファン・ミリアを『サティ』と呼ぶのは、ルクレツィアにつられてである。
「サティが、何?」
怪訝そうにルクレツィアが訊き返してくる。
「ルクレツィアの身長の話」
カホカは話を戻して、
「ルクレツィアに悪口を言う男の子たちにさ、サティは何もしなかったの?」
親友が嫌な思いをしているなら、ファン・ミリアが助けてくれそうなものだ。
そう伝えると、
「例えば──」
ルクレツィアは質問の意図を理解したらしく、
「私に代わって男の子たちを張り倒す、とか?」
そうそう、とカホカがうなずくと、「しないわね」とルクレツィアは断言する。
「内心では頭にきていたかもしれないけどね。私をかばうことも、発奮させることもしなかった。猫背で歩く私の隣を、ただ一緒に歩いてくれただけ」
「へぇ」
カホカは目を丸くした。意外だった。カホカが思い描くファン・ミリア像として、ほんのすこしでも彼女の癪に障った瞬間、『天罰!』とか『成敗!』とかを大声でわめき散らしながら、武力でもって悪ガキどもを掃討しそうなものである。
「なにその地獄みたいな人」
ルクレツィアは顔を渋くさせた。
「カホカは何か勘違いしてるみたいだけど、サティはそこまで好戦的な人ではないわよ」
「そうかぁ?」
なにしろ、カホカはファン・ミリアに脇腹を(間接的に)斬られている。キズモノにされたのだ。非道すぎる。簡単に信じるわけにはいかない。
「じゃあさ、もしルクレツィアが男の子たちをやっつけてくれって頼んだら?」
「サティに? 言わないけど、そうね……」
うーん、目を上向かせて考える。
「男の子たちを張り倒すか、私を張り倒すかのどちらかじゃないかしら」
「……十分、好戦的じゃん。てゆーか、なんでルクレツィアを張り倒しちゃうの?」
「内心に溜めた怒りの矛先が、果たしてどちらに向くのか、という話ね。そしてもし、サティが私を張り倒した場合──」
自分で言いながら、ルクレツィアはくすくすと笑い声を漏らす。
「今度は私がサティを張り倒すから、大喧嘩がはじまってしまうわ」
「ふたりで? 殴り合うの?」
「昔はね。でも、さすがにもう腕力に訴えることはなくなったわね。私が負けるのがわかりきってるから。最近は、もっぱら罵声の飛ばし合い」
「……で、どっちが勝つの?」
「私の圧勝」
心なしか、ルクレツィアが胸をそらした。
「『それでは実家に帰らせていただきます』の一言ですべての決着がつくわ」
「……卑怯じゃね?」
カホカが嫌そうな顔をすると、ルクレツィアはとりなすように、
「もちろん帰らないわよ。本当に帰る気なら、黙って帰るもの」
「ルクレツィアって……」
「誤解しないでってば。そのあたり、サティだってわかってると思う。これは暗黙の了解なの。私がそれを言ったら、まずサティが折れる。サティが折れたら、それ以上は私も責めない。譲歩できるところは譲歩する。そうして次の朝、私が、彼女の起きる時間を見計らって紅茶を淹れるの」
「紅茶?」
「ちゃんと仲直りできるように、お祈りの言葉を誦えながらね。とっておきの茶葉を使った、とびっきりおいしい紅茶を淹れるの。その紅茶を、私が彼女の寝室まで持っていく。おはようの挨拶をして、サティが私の紅茶を飲んで、それで喧嘩はおしまい」
そういう関係なの、とルクレツィアが微笑う。
「……」
話を聞き終わって、カホカは頭を掻いた。
「……あのさぁ」
カホカの表情は冴えない。
「それ、完全に惚気話じゃん」
「あら、そんなふうに聞こえた?」
ルクレツィアは満更でもなさそうな笑顔を浮かべている。
カホカは首を伸ばし、「あのさぁ」とルクレツィアに顔を寄せる。「え、何?」とたじろぐルクレツィアに、さらに詰め寄っていく。
「ルクレツィアって、サティのことが好きなの?」
ルクレツィアがぽかんとした表情を浮かべる。
「……はい?」
「だから、サティと一緒にいたいんでしょ?」
「突然、何を言い出すの?」
「サティに頭を撫でてほしいんでしょ」
じりじりと、カホカが間近に迫っていく。
「認めなよ。主従だろうが、女同士だろうが。アタシは否定しないよ」
「飲んでいるの?」
「アンタが頑張ってくれれば、アタシもすこしは楽になるんだけど」
「ちょっと、落ち着いて」
「楽になーるーんーだーけーどぉー」
「落ち着いてよ、もう!」
ルクレツィアの両手がカホカの顔を挟んだ。ぎゅう、とその頬が縦に伸びる。
「いったいどうしちゃったの? 王都でも感じたけれど、様子が変よ?」
「……へんじゃねーほー」
「あら顔も変」
ぷ、とルクレツィアが噴き出した。
「かわいい顔が台無し。ざんねん」
「放せコラ!」
カホカが乱暴にルクレツィアの手を振り払う──よりも前に、ルクレツィアが素早く後ろに退がった。カホカの手が空を切ったところで、すぐ横のドアを開く。
「ちょっと用事を思い出したから、おとなしく待っててね」
ポン、と背中を押され、カホカの身体が室に入っていく。
「んなろ!」
振り返った時には、すでにドアは閉じられている。
しばらくの間、ドアと睨めっこを続けていたカホカだったが、むすりと息を吐いた。
自室である。
居間の長椅子にどかりと胡坐をかいた。
中型客船ではあるものの、室内は広い。調度類も一通りが揃っており、居間と寝室の二部屋が用意されている、団体用の一等客室だった。
鷲のギルドのサスか、もしくはディータが上等室を押さえてくれたのだろう。
だが、いまのカホカにはどうでもいいことだ。
快適でなくともよかった。雑魚寝で構わない。船速さえ速ければ。
一分でも早く、一秒でも早く、レム島にさえ着いてくれれば……。
苛立ちが募っていく。
今朝、異常があった。
夜明け前ごろ、激しい胸騒ぎとともに、カホカは飛び起きた。
ティアに関することなのは、すぐにわかった。同じ寝室で眠っていたバディスは目を覚まさず、悪夢を見ているのか、ひどくうなされていた。
呼吸さえ苦しそうで、憔悴は明らかだった。
その衰弱ぶりに、さすがのカホカでさえ、本当に死んでしまうのではと不安になったほどだ。ルクレツィアとふたりでバディスを起こそうと声をかけたが、どれだけ呼びかけても、身体を揺すっても目を覚まさない。
──ティアに何かが起こっている。
それはわかる。
わかるのに、どうすることもできない。
助けてやることができない。
じれったくて、途方に暮れた。うなされるバディスの声が、カホカの不安に拍車をかける。
カホカの胸さわぎが頂点に達した時、ふっと、バディスの寝息が落ち着いた。そうかと思う間に、カホカの胸騒ぎも海霧のように消え去っていた。
ほどなくしてバディスが目を覚ました。ごく短い時間だったが、バディスはカホカに、ティアが命に関わるほどの窮地に陥ったらしいこと、さらに、その窮地を脱したことを伝え、またすぐ眠りに落ちていった。
それから胸騒ぎは訪れていない。バディスはやはりずっと眠ったままだが、それ自体は王都を出港する前からなので、通常に戻ったということだろう。
ティアが無事だった。
それはよかった。本当に嬉しい。
でも、何もできなかった自分が……悔しかった。