42 エクリⅫ(前)
旗を構え、ティアが一息に距離を詰めた。
エクリの掌が灼熱に輝く。打ち出された見えない衝撃に、ティアの周囲を飛ぶ蝙蝠の一匹が呑み込まれ、消滅した。
その位置を把握しつつ、ティアは横に跳ぶ。同時に、新たな蝙蝠の一匹を分離させた。
「なるほど」
ティアから突き出される旗の先をかわし、エクリが満足そうにうなずいた。
「学習したね。蝙蝠を囮に使うとは」
ティアは連突を繰り出した。一、二と。しかしエクリが巧みにかわしていく。
三突目。青年の眉間めがけて放たれた旗が、ぴたりと止まった。旗を巻き込むように、上段から下段へと角度を変える。
「──偽物」
が、これも読まれている。
「いただけないな」
避けながら、エクリの手のひらから氷の槍が伸びて出た。握りしめる。
「残念だけど、君の腕は素人に毛が生えたようなものだ」
試すように、エクリが氷槍を突き出した。魔術師とは思えない鋭い突きが、ティアの頬をかすめた。血が流れる。
ふふ、とエクリは笑い声を漏らし、
「僕もなかなかやるものだろう?」
ティアは攻撃の手をゆるめない。突かず、振り下ろした。対するエクリは柄を横にして受け、押しはじく。至近距離。ティアの顔面に掌を向けた。灼熱の光が宿る。
すかさずティアの蝙蝠がエクリに襲いかかった。気づいたエクリが魔法を止め、後方に退く。
「防御と攻撃も兼ねている……優秀な蝙蝠だ。でも──」
正面から追いすがってくる蝙蝠を手づかみにして、そのまま握りつぶした。蝙蝠の断末魔の鳴き声とともに、その拳から血がしたたり落ちていく。
「たいした問題じゃないんだ」
エクリが笑う。蝙蝠の残骸を払い落すその手が、今度は青白い硬質な輝きを帯びはじめた。
『付与魔術』
光る手が、ティアの旗を難なく掴んだ。
ふたりの動きが止まった。
挑発まじりにうかがってくるエクリの視線に、ティアの赤い瞳が返す。
「旗を放せ」
力を込めるも、掴まれた旗はビクともしない。
エクリは笑みを浮かべたまま、氷槍を高く持ち上げた。
躊躇せず、ティアの頭にたたきつける。左の側頭部に赤い花が咲くように、鮮血が爆ぜた。
ぐらりと、ティアの身体が傾いた。が、倒れない。
ティアを助けようと周囲の蝙蝠が次々とエクリに襲い掛かるも、エクリは片手槍でもって突き刺していく。数匹の蝙蝠が串刺しに連なった。
「もしかして、ティアーナ」
まじまじと見つめる。
「完全に力が尽きたのか」
ティアは答えない。ただ、それでも瞳は赤い光をたたえている。爛々と、戦う意志をあらわにしている。
「何を企んでいるのかな」
ピクピクと痙攣する蝙蝠をそのままに、エクリは再び氷槍を持ち上げ、振り下ろした。同じ箇所めがけて打ちつける。
ティアは掴まれた旗を振りほどくもできず、ただ瞳にエクリを映し続けている。その身から蝙蝠を分離させることもなかった。いや、できないのだろう。
「旗を、放せ」
うわ言のように繰り返す言葉を無視し、エクリはティアの頭を打った。打って、打って、打ち続けた。
何度もぐらつきながら、ティアは倒れない。
エクリが溜息を吐いた。
「これは決闘だよ、ティアーナ」
言い聞かせる口調だった。
「何を待っている? このままじゃ、君は本当に無駄死にだ。あの狼はいったい、なんのために君を救ったのか」
ティアは旗を握りしめたまま、エクリをにらむばかり。
もう一度溜息をついて、視線を転じた。
ファン・ミリアが仁王立ちになっている。両の拳を握りしめ、ただじっとこちらを見つめている。ヘインズは腕を組み、ルルゥはその場に胡坐をかき、うるさかった囚人たちは鳴りをひそめている。
しかし、彼らの瞳にあきらめの色はなかった。今でさえ、ティアが勝つことを信じて疑っていない。
エクリは視線を戻した。
ティアは、瀕死の状態からイスラの力を得てよみがえった。それでさえ窮地を脱した状態で、まともに戦うことができる身体ではなかった。その時点で力の大半が失われていたのだ。その上、クラーケンを救うことで消耗している。
これでは万が一にもエクリに勝つことはできないし、ティア自身、はじめから承知の上だろう。
わかっていながら彼女は決闘に乗った。ためらいもなく、自らの命を擲って。
頭の傷は広がって、血と肉の間から白い頭蓋がのぞいている。
明らかに回復が遅い。
「なぜ、決闘を受けた?」
エクリの想定以上に、ティアは己の命を軽く扱いすぎる。
「なぜ、そうまでして死地に飛び込もうとする」
首を傾げた。その時、エクリはふと気づいた。
「想定以上……」
そうつぶやいた。
「ティア、やっちまえ!」
囚人たちのうち、奥のほうのひとりから声が上がった。
おお、と別の囚人が同調して叫ぶ。
「そんな野郎、お前の敵じゃねえ! ボコボコにしてやれ!」
続々と、ティアを鼓舞する声が飛んでくる。
再び囚人たちが盛り上がり、はじめの鬨の声ほどの声量に戻っていく。
「そう」
エクリはつぶやく。
「これも想定以上……」
本来はティアのための餌に過ぎなかった囚人たち。生きる希望を無くした囚人たちが、意気を取り戻し、エクリにさえ刃向かっている。
ティアが命を懸けて得た、想定外の力。
「旗を──放せ」
ティアの瞳が赤い。
その言葉に押されるように、エクリは息を呑んだ。そっと旗を手放した。
旗の先。竿頭に、わずかな光が宿っている。
ティアがふらつくように足を踏み出した。そのわずかな勢いを利用して旗を突く。その旗を、氷槍でもって受けた。氷が砕け散る澄んだ音があたりに響いた。
「これは……」
エクリは目を見開く。
もう一歩、ティアが足を踏み出した。突きは、速くない。
だが──
エクリは避けざるをえない。
「……神器」
驚きを隠すことなく、一歩、退がった。
旗の先は、弱々しい光を灯している。力は弱い。弱すぎるほどだ。にも関わらず、その旗はあまりに危険だった。
じりじりと、ティアがエクリとの距離を詰めてくる。
両手で旗竿を握りしめ、ティアが大きく振りかぶった。さらにエクリが退いて避けると、ティアの身体が大きく流れた。勢いを止められず、その場に転倒する。
もがくように床に手をついて、立ち上がった。
エクリはティアよりも、その旗の先を凝視している。
「神域に入ったのか」
力ではない。質の問題なのだ。
この旗は、防御ができない。
「夢の旗……」
エクリの耳に、ティアのかすれ声が届いた。肩で息をして。旗を振り上げ、振り下ろし、その背に囚人たちの声を受けながら。すべての力を出し尽くし、苦しいのだろう。瞳の輝きこそ残してはいるものの、表情はいまにも泣き出しそうだった。
血が、黒い泥へと変わりつつあった。
「……私たちの勝ちだ、エクリ」
エクリは退がり続ける。
「味方の力を具現しているのか」
その背が、船縁に触れた。
「これが君の力か、ティアーナ」
驚きは賞賛へと変わっていた。
エクリはゆっくりと腕を持ち上げ、手を開いた。
それは攻撃ではなかった。純粋に、ティアに静止をかける仕草だった。
「君にひとつだけ質問がしたい。教えてくれないか?」
だが、ティアはエクリの静止にも、また言葉にも反応せず、今度こそと旗を振り上げた。と、全身から力感が消えた。振り上げた旗に引っ張られるように、後方に倒れかかる。
終わった。
エクリでなくともそう思っただろう。
だが、ティアは踏みとどまった。全身をぶるぶると震えさせながら、重心を前へと移そうとする。
──前へ。
声なき声で、全身が、存在が叫んでいる。
前へ! と。
ああ、そうかとエクリは納得した。
彼女は常に戦っているのだ。決闘など、彼女にはいかほどの価値もないのだ。
エクリとは別の意味で。
決闘をしようがしまいが、彼女は戦い続けているのだから。
そういう道を彼女は選んだのだ。
ティアが、ようやく前傾姿勢になった。しかし、そこまでだった。手から旗がすべり落ち、前のめりに倒れかかる。
その身体をエクリが受け止めた。
「……気を失ったか」
ティアを支えたまま、エクリはヘインズに顔を向けた。
「どうやら僕の勝ちのようだ」
「いや」
と、ヘインズが否定する。
「これは決闘だ。お前はまだティアーナにとどめを刺していない」
「なるほど」
エクリはティアを見下ろした。顔は黒く汚れ、呼吸は荒い。熱にうなされたようにあえでいた。エクリはしばらくティアの顔を見つめた後、
「どちらかが死ぬまで決闘が続くなら、今日である必要もない」
そう言って、軽々とティアを放った。ファン・ミリアがティアを受け止めると、さらにエクリが何かを投げてよこしてくる。見ると、ちいさな布袋だった。口には紐がしっかりと結び付けられている。
「そもそものゲームは君たちの勝ちだからね。ご褒美だ」
エクリの足元から魔法陣が広がった。そこから浮き上がるように、まず長く生えた角が、そして爬虫類の瞳、巨大な両翼が現れ出で、全貌が明らかになった。
『飛竜!』
誰が言うでもなく、その言葉が激しい咆哮によって遮られた。
大きく翼が開かれたその背に、エクリがひらりと飛び乗る。と、
「おい、コラ!」
胡坐から立ち上がり、ルルゥが大声で叫んだ。
「さんざん好き勝手やっといて、いまさらトンズラこけると思ってんのか!」
「よく言うよ」
心底あきれたようにエクリが笑う。
「ああだこうだと理由をつけて、さんざん手を抜いたのは君だろう、ルガーシュ。君が本気を出せば、この船に到着した時点で僕を察知し、あぶり出すことだってできたはず。すくなくとも、クラーケンの存在には気がついていたはずだよ」
「げ……」
言われた瞬間、ルルゥの目が泳いだ。
「そうなのか?」
ティアを抱えるファン・ミリアの冷たい視線に、魔法使いの少年は不自然すぎる口笛を吹きはじめる。
「もっとも──」
エクリはルルゥに話しかけながら、ヘインズに視線を移す。
「君の仕える主が、君の本気を許すかどうか、という問題はあるけどね」
そこには、不敵に笑みを浮かべるノールスヴェリア人が立っている。
ふたりの男は笑みを向けあってはいるものの、どちらの目も笑っていない。
エクリが言った。
「ティア―ナは、この世界に破滅を告げる者だ。本当のところ、今日、ティアーナに死んでもらいたかったのは、君なのでは? ノールスヴェリア王ゲインリフ」
ざわりと周囲がどよめいた。
「さて」
ファン・ミリア、そして囚人たちからの驚きの視線を浴びながら、ヘインズは泰然としている。
「それも貴様の得意な詐術とは言えまいか」
王と呼ばれた男の言葉に、エクリは口元に笑みを残したまま空を見上げた。
「そうかもしれない」
烈風を巻き起こし、飛竜が飛び上がる。
「ひとまず、狼少年は退散だ」
高く舞い上がった飛竜は、ガレー船の周囲を大きく旋回すると、風のような速度で飛び去って行った。
西の彼方へと。