40 エクリⅪ(前)
黒い水に変じたティアが、クラーケンの口から体内へと流れていく。
ファン・ミリアが中空を見上げると、腕組みをしたルルゥが降りてくる。ファン・ミリア同様、状況が把握できていない様子だった。まばたきをしている。
「クラーケンを助けるっつったのか、ティアは?」
「エクリに呪をかけられているらしい。会話をしたと言っていたが」
「クラーケンとか?」
そうらしい、としか答えようがない。
「化け物同士の会話ねぇ……」
ルルゥが腕組みをした。「北方古ヒデグの言葉か」
「知っているのか?」
「化け物にも人間と同じぐらいに頭の回る種族がいる。てことは、そいつらが使う言葉があっても不思議じゃないはずだ、っつー仮定の上に置いてる言語だ。俺も詳しくは知らねー」
言いながらクラーケンを見上げる。
すでに巨体を焼く炎はいきおいを弱めている。肢の動きも活発になってきた。
「おい聖女、いいのか。このままじゃ振り出しに戻っちまうぞ?」
ファン・ミリアは黙っている。彼女自身、ルルゥと同意見なのだ。焦れるルルゥの気持ちはよくわかる。
まだティアからの合図はない。
「……仕方ない」
決断は早いほうがいい。
「いまのうちに、ルルゥの魔法で弱らせてくれ」
「だよな」
ルルゥがうなずく。
その時だった。ファン・ミリアとルルゥ、ふたりともが弾かれるように左右に跳んだ。するどく背後を振り返る。
ファン・ミリアが星槍ギュロレットを構える。ルルゥがやれやれと腕組みをほどき、言った。
「ま、あの程度の火力じゃ、大人しくはならねーよな」
その青年の笑みは、すでに見慣れたものになっていた。にも関わらず、その異様さはいや増していく。身体には傷ひとつ残っておらず、余力を漂わせている。
エクリが立っていた。
警戒するファン・ミリアとルルゥを前に、緊張さえしていない。自然体である。
青年は一度、クラーケンを見上げてから、
「クラーケンが、ティアーナを信じるに値する者と認めたようだ。知恵ある化け物同士が交感するのは非常に珍しい」
むしろ機嫌よさげに笑いかけてくる。
「彼女は縁もゆかりもない、むしろ己を害そうとする囚人たちを味方につけ、そればかりが人外のクラーケンをも惹き込もうとしている。まったく大したものだね」
けっ、とルルゥが吐き捨てた。
「ただ単にてめーの策が裏目に出ただけじゃねーか」
「耳が痛いな」
エクリは苦笑して、右手を持ち上げた。
「けれどもルガーシュ、君の言う通りだ。僕もやられてばかりではいられない」
その手に黒い力が集まっていく。とたん、クラーケンの鳴き声が響きわたった。耳をふさぎたくなるほどの異常な高音だった。すべての肢が海から突き上がり、胴体を中心に、抱え込むように船を覆いはじめる。
「聖女!」
素早くルルゥが両腕を大きく広げた。見えない障壁がクラーケンの肢と船とを境する。
「さすがに重いぜ」
舌打ちしつつ、クラーケンの肢を寄せ付けない。
その間にファン・ミリアが距離を詰めようと飛び出しかけるも、エクリは手に光を宿したまま、大きく間合いを取っている。
とっさに星槍を構え直し、かざした。青白く輝く破邪の光が奔流となってエクリめがけて放たれる。
「水精──ラクシャ」
エクリの喚びかけに応じ、水精が姿を現した。全身が水で構成された小人のような少女が、けらけらと無邪気な笑い声を上げている。
少女が両手を伸ばすと、激しい水流がファン・ミリアの光と激突した。しばらくの押し合いの後、互いに別角度に逸れて離れていく。それを見送ることなく水精が消えた。
驚いたのはファン・ミリアである。
星神の加護によって放たれる光は、神力を源にしている。神力は魔法の制約を受けないはずだった。
「おや」
その表情を見て取って、エクリがおかしそうに笑う。
「知らなかったのかい? 精霊魔法は魔法の一種に類別されてはいるが、実際のところ術手が行うのは精霊を喚び出す召喚魔法であって、力の行使そのものは精霊が行う。そして、精霊の生み出す力は万物を構成する太古の力を持っている。質的に神の力に近いんだ。すべての神が、というわけではないけどね」
言いながら、エクリが再び右手を上げた。クラーケンの肢の力がさらに強まっていく。
「んぎぎ……」
ルルゥが歯をくいしばって障壁を支える。
「コイツはてめぇの味方じゃねーのかよ」
絞り出すような声音でにらむ。
クラーケンの肢のいたるところから、その身が裂けて断裂する音が聞こえた。明らかに、限界以上の力を引き出されている。
「治るさ」
涼しい顔で言って、エクリが右手に力を込める。瞬間、クラーケンの口から墨が吐かれた。墨は黒い濃霧となって周囲に撒かれ、呑み込まれたルルゥと、そしてファン・ミリアの視界を奪っていく。
わずかに粘性のある墨が、ファン・ミリアの全身を濡らしていく。
耳に、ルルゥの声が聞こえた。
「墨には害はなさそうだ。周りに気をつけろ。何か仕掛けてくるぞ」
すでに少年の姿は見えない。
ファン・ミリアは静かに目を閉じた。
精神を集中させて、周囲の気配を探る。
左後方の気配がある──これはルルゥだ。
エクリは……気配を殺している。だが、動きさえすればすぐに察知する自信がファン・ミリアにはあった。
その気配を、目の前の空間から突如として感じた。
霧の奥から拳が突き出てくる。ひるむことなくファン・ミリアはかわし、同時に星槍を薙いだ。
手応えはあった。
肉を切り裂いたその感覚とともに、どさりと霧のむこうで身体が崩れ落ちる。
警戒を残しつつ、星槍を構えの位置に戻す。
ふと、ファン・ミリアは気がついた。
自分の手元に返り血がついている。
──血を受ける間合いではなかったが……。
周囲への警戒を残しつつ、ファン・ミリアは倒れている人影に視線を落とした。
その紫水晶の瞳が大きく見開かれた。
「馬鹿な……」
愕然とする。
倒れていたのは、ティアだった。
大量の血が腹部を濡らし、その漆黒の瞳が虚空を見つめている。口から糸のように細い血を流しながら。
二歩、三歩とファン・ミリアは後ずさった。
──ありえない……!
こめかみを冷たい汗がつたい落ちていく。動揺のまま、濡れて重くなった髪を乱暴に掻き上げ、後ろに流した。
ティアはクラーケンの体内なのだ。ここにいるはずがない。
そう思ううちに、ティアの身体が黒い泥へと変じ、溶けていく。その時、変化が起こった。原型をとどめないほどに崩れていくその顔が、再構築され、人型を造っていく。
ストロベリーブロンドの髪。見慣れた顔立ち。その閉じた瞳がゆっくりと開く。
自分だった。
傷ついた自分自身が、倒れている。
『ひどいことをするのね』
自分が、こちらを見上げて言った。
『こんなふうに自分を傷つけることに、何の意味があるの?』
責めるような口調だった。
『聖騎士としての本分を見失えば、苦しむことは目に見えているのに』
女の瞳孔が開いていく。
『答えなさい、貴女を支えるものを。なぜ、貴女は神託を与えられたのかを?』
「それは……」
ファン・ミリアは呆然としてつぶやく。
「理想のため」
同じ色の瞳。けれど、いまファン・ミリアの髪は黒々と濡れている。不吉な鴉のように。偽物であるはずの女の髪の色は変わらず、ストロベリーブロンドの輝きを宿している。
──いったい本物はどちらか。
思いながら、つぶやく。
「争いの絶えぬこの世界で、人々の悲しみを減らすため……」
そしてファン・ミリアは気づく。
いま倒れている女の瞳孔、この瞳孔を自分は知っている。つい先ほど目にしたばかりだ。
『人と化け物が結ばれることはない』
そう嘯いたエクリとまったく同じの。
──詐術!
素早く自分の手元を見やる。
「返り血が……」
ついていない。
気を奪われた。まばたきひとつ分、反応が遅れた。
「おい聖女! ボケっとしてんじゃねぇ!」
ルルゥの声に、はっとして顔を上げた。
エクリが迫っている。その腕がこちらに伸びていた。
今度は拳ではない。手刀を作っている。その指先が、身を引いたファン・ミリアの鎖骨と胸の間あたりに届いた。突くでもなく、押すでもない。ただ、ぎりぎり触れたといった程度の。
すぐさま槍で応酬を試みるも、はじめからそれが目的だったかのように、エクリは後方に跳び、甲板中央付近まで退いた。
「おい、平気か」
血相を変えてルルゥが寄ってきた。風を起こし、霧を完全に払う。
「大丈夫だ」
ファン・ミリアは軽くうなずいた。「異常はない」
「おまえが怪我をしたんなら、援護をしているおれの落ち度だ。すまねー」
殊勝である。バツが悪そうな少年に、ファン・ミリアはちいさく笑う。
「無傷だ。かすり傷ひとつ負っていない」
「自分の目で見るまでは安心できねー。相手がエクリの野郎だからな」
ルルゥは言い、
「どれ、見せてみろ」
つま先立ちになって、ファン・ミリアの胸元をのぞきこもうとする。
「大丈夫だと言っている」
「わかるもんかよ」
胸元を凝視するルルゥの両手が、わさわさと閉じたり開いたりしている。
「遠慮すんなって。見せてみろ。な、別に怖ぇーこたぁねー。痛いのは最初だけだ。ティアには内緒にしといてやっから、な、な?」
ルルゥの脳天に拳骨をくらわせ、ファン・ミリアは視線を転じた。
「やれやれ──」
と、軽く手を振って、エクリが息を吐く。
「やはり、神託の乙女を相手に慣れないことをするものではないね。潮時かな。ティアーナも動きはじめたみたいだ」
エクリの言った通り、クラーケンの長い胴体に一点、光が灯っている。
それ見た瞬間、ファン・ミリアは理解した。
「ウル・エピテスの時と同じ」
光は点滅を繰り返している。そこに異常があるのだと知らせているのだ。ウル・エピテスでティアが蛇の支配から解き放たれたように。
──その時、ティアはどうした?
ファン・ミリアは自問する。
「己に巣食った呪詛をえぐり出した……」
すぐに反転しかけたファン・ミリアを、エクリの言葉が押しとどめた。
「悪いけど、君たちの思い通りにさせるほど僕も甘くはないよ」
左手を持ち上げる。手のひらに緑の光が宿った。
「忘れてはいないか。この船に魔法石が仕掛けられていることを。沈没させるのに十分な量の魔法石がね」
緑の輝きが増していく。
「君がクラーケンを攻撃すれば、僕は船を爆破する」
しかし、ファン・ミリアは動じない。
「好きにするがいい」
星槍に光を溜めた。クラーケンに照準を合わせる。
「へぇ」
エクリが瞳を大きくさせた。
「クラーケンのために、乗員の命を見捨てるのかい? 聖女であるはずの君が」
「好きにすればいいと言っている」
ファン・ミリアが瞳を細めた。後ろに流した髪は黒い。
エクリの手に宿る緑光と、ファン・ミリアの星槍に宿る青光がともに限界まで高まっていく。
先に動いたのはファン・ミリアだった。
星槍から放たれた破邪の光が、クラーケンの胴体の一部を消し飛ばした。
クラーケンが沈黙する。
「やるじゃないか、すこしだけ君を見直したよ」
星槍を脇に収め、ファン・ミリアは冷たくエクリをにらむ。
「早く船を沈めないのか?」
「何?」
「早く魔法石を爆発させなくていいのか?」
エクリは数秒、ファン・ミリアを見返してから、
「……そうさせてもらうさ」
緑に輝くその手のひらを握りしめる。
「──貴様こそ存外、忘れっぽい性格のようだ」
低い声音とともに、宙に、多量の輝く光が舞った。魔法石だ。
緑石が、甲板から海へ次々と放り投げられていく。水中で爆発した魔法石が帆柱に届くほどの高い水柱を上げた。
「間に合ったようだな」
ファン・ミリアが見ると、そこにヘインズが立っていた。