39 エクリⅩ
ティアはファン・ミリアを抱いて海面直上を飛ぶ。ガレー船を円心に回り込み、内孤に入ることによって左前方のエクリが正面、そして船を挟んで右横へと位置関係が変わっていく。
「サティは船から、私は空からだ」
「了解した」
細かく視線を移しながら、ファン・ミリアがうなずく。先ほどの会話が本気か冗談かはともかく、戦意を戻してくれたことはありがたい。
ティアは舷側に激突する寸前、直角に上昇した。船に乗り込もうとするファン・ミリアの手を取る。さりげなく力を込めてみると、彼女はこちらを見ることなく、同じように握り返してくる。
──届いている。
そういう感動を、ティアは抱いた。
ファン・ミリアは身をひるがえして甲板に着地するや、船尾へと駆ける。クラーケンの巨大な瞳がぎょろりと動き、肢を甲板の上に叩きつけてくる。
帆柱に光糸を伸ばし、振り子となって肢をかわした。一気に距離を詰める。
散乱する木片を背に、星槍ギュロレットを振りかざした。
「星神の輝きを受けよ!」
勢いを星槍に乗せ、クラーケンの目間めがけて突き刺した。
高い鳴き声が闇夜にこだまし、その長い胴体がぶるりと震えた。
深々と突き刺さった星槍を起点として、無数の斑紋を浮かべる胴体が半透明に変わっていく。だが──
クラーケンの体色が、すぐまた元の色に戻っていく。
海から肢の一本が突出した。
「サティ、星槍を離せ!」
いち早く気づいたティアが空中で構えた。右手で天を、左手で槍を指す。
『黒雷!』
黒い雷が星槍に命中し、クラーケンの全身に駆け巡った。感電したクラーケンの肢が数秒、動きを止める。
「弱点を見誤ったか……」
眉間に皺を寄せ、ファン・ミリアが槍に手を伸ばすと、
「まだだ! まだ抜くんじゃねぇ!」
ティアよりも高い位置から、ルルゥの大音声が響き渡った。夜空に、まぶしく輝く大魔法陣が浮かび上がっている。
「丸焼きになりやがれ!」
魔法陣を支える両腕を、勢いよく振り下ろした。
『雷霆!』
肺腑を沈ませるほどの轟音とともに、光の柱が立った。大気を震わせ、ティアの黒雷とは比較にならないほどの大出力の雷撃が迸った。クラーケンの焼ける臭いとともに、肢の数本から炎が噴き上がる。
「すごいな」
ティアは感嘆の声をもらした。力の差がありすぎて、悔しいという気さえ起らないほどに、ルルゥの雷は強烈だった。
クラーケンの鳴き声が、一段低くなった。
ふと、ティアは横髪をかきあげて耳に手を当てた。
──何かが……。
聞こえた気がする。気のせいだろうか……?
不思議に思いながら見下ろすと、ファン・ミリアがクラーケンに足をかけ、ちょうど星槍を引き抜いたところだった。
その横で、空間がたわんだ。
「サティ!」
ティアが叫ぶのと、そこから腕が突き出されるのは同時だった。
反応したファン・ミリアが大きく上体を反らした。その上を、拳が走った。
「よく気づいたね」
見上げる紫水晶の瞳に、エクリの笑い顔が映る。
ファン・ミリアは動じない。上体をそらしたまま身体をひねり、手に持った星槍の一端、十字架状の剣をエクリめがけて振り下ろした。
がきり、とファン・ミリアの手に硬質の手応えが響いた。
「この手応えは、付与魔術か」
両腕を交叉させ、エクリが星槍を受け止めている。
ファン・ミリアは星槍でエクリを押さえつけ、その力を利用して起き上がった。素早く態勢を立て直し、槍を反転させる。下から掬うように振り上げた。
今度はエクリが上半身をそらす。穂先が空を切った。
「反応はいい。が──」
ファン・ミリアはその動きを読んでいる。
「接近戦で私に勝てると思ったか?」
一歩、踏み込む。空いた手でエクリの顔面を掴むや、剃り上げた後頭部を床に叩きつけた。素早く槍を握り直し、その胸めがけて突き立てようとする。と、
「……ファン・ミリア=プラーティカ」
名を呼ばれ、槍が止まった。
「神託の乙女たる君に、預言を贈ろう」
後頭部を打ちつけたにも関わらず、エクリの口元には笑みが浮かんでいる。
「有史以来、人と化け物が結ばれる物語は数多く紡がれてきた。なぜだろうね?」
笑う囚人姿の青年を、ファン・ミリアは無言で見下ろす。
「結ばれないからさ。結ばれないからこそ、人はその願いを物語に託した」
瞬きをすることなく、エクリの瞳孔が広がった。
「君とティアーナが結ばれることはない。絶対に。互いが惹かれ合うほどに、運命は遠ざかっていく」
はっと、ファン・ミリアが頭上を振り仰いだ。クラーケンの肢が迫っている。
その中空に、ティアが割り込んだ。
「サティはクラーケンを! 回復する時間を与えるな」
両手で旗を握り、巨大な肢を打ち弾いた。そのまま身体を流して振り返りつつ、急降下をかける。
「ティアーナ、来るのかい?」
すでに立ち上がり、エクリが待ち受けている。
「お前の狙いは私だろう?」
旗の先、その鋭い竿頭でもって突きを放つも、エクリがくぐるように旗をかわした。ティアは反撃に備え、翼を打って上昇した。間合いを取ると、視界の外、上空からルルゥが放った援護の光線がエクリめがけて落ちてくる。
『飛翔』
魔法の言葉とともに、エクリの背に光の翼が広がった。翼は光の粒子となってすぐに消えるも、その身体が宙へと舞い上がった。
ティアが追撃する。
旗を投げた。直線状に投擲するのではなく、横投げする。旗はエクリの周囲を大きく一周すると、ティアの手元へと戻って来る。
「旗衛隊の真似事かい?」
怪訝そうなエクリを尻目に、ティアはくるりと背を向けて飛ぶ。一定の距離を取ると、エクリの身体が見えない力に縛られ、拘束された。
「これは」
エクリは目を凝らして己の身体を見下ろす。
「神託の乙女の……」
夜闇に紛らせた光糸だった。
ティアは旗に結びつけておいた光糸をほどくと、ファン・ミリアを見た。クラーケンに星槍をふるっていたファン・ミリアもまた、その手に掴んでいた光糸の一端を離した。光糸はエクリのみならず、クラーケンをも巻き込んでいる。
「ルルゥ、いまだ!」
ティアが合図を送ると、
「任せろ!」
ルルゥの声とともに、光糸の一端に火が灯った。火は瞬く間に光糸の端から端へと移動する。直後、その火に触れたエクリとクラーケンが爆発した。
「爆導索ってやつだ」
ルルゥがしたり顔を浮かべる。ティアは眼下のクラーケンを見下ろした。
炎上する海妖の、その鳴き声を聞いて、先ほどと同じように耳に手を当てる。
──やはり。
聞き間違いではない。
ティアは確信すると、甲板の上、クラーケンとファン・ミリアの間に降り立った。旗を構えるでもなく、クラーケンへと歩み寄っていく。
「ティア、何を?」
驚いたファン・ミリアが止めようとするのを、ティアは大丈夫だと手を振って、
『私はティアーナ=フィール』
クラーケンを見上げ、言った。
『吸血鬼だ。──私の言葉がわかるか』
それは、人の言葉ではなかった。
『わかる』
思ったとおり返答があった。声は瞳の部位よりも下のほうから響いてくる。
ティア自身、身に覚えのない言語だった。それも当然だった。これは化け物のうち高等種族にのみ備わっている能力で、人間の耳には鳴き声と大差がない。
『お前のような大妖がなぜエクリの味方をする? お前が退いてくれさえすれば、こちらから手をだすことはない』
『退けぬ』
『なぜだ?』
『我が身に呪がかけられている限り』
『呪?』
『我が身を内より冒す呪いだ。抗えぬ』
『エクリに呪をかけられ、このエギゼルの海に連れてこられたのか』
『然り』
『どうすれば呪を解くことができる?』
『わからぬ。だが、肉体が修復されれば、我が意識もまた閉ざされる』
『そういうことか……』
ティアは納得してうなずく。肉体を傷つけられている間は、エクリの支配が弱まるらしい。
『私たちが攻撃し続ければ、意識を保つことができるのか』
すると、クラーケンが押し黙った。
ティアはくすりと笑う。
『そうだよな。誰だって痛い想いなんてしたくない』
クラーケンの間近に寄って、ぽん、とその巨体を軽く叩く。
玉虫色に光を映し、ぬめりのある胴体は海の匂いがした。永い時を生きてきたのだと、触れて感じた。偉大な海妖だ。殺したくない。
『お前の呪を解く。荒治療になるが、我慢してほしい』
巨大な瞳がせわしなく動き回っている。考えているらしい。ややあって。
『我慢する』
その言葉にティアはうなずき、
『では、私を喰え』
クラーケンの肢の一本が伸びて、ティアの胴に回された。
「ティア!」
あわてて星槍を構え直したファン・ミリアを、ティアが制する。
「話をした。クラーケンを助けたい」
「助ける?」
「エクリの呪縛からクラーケンを解き放つ。サティも協力してくれ」
「しかし……何をすればいい?」
「損傷を与えることでエクリの呪縛が弱まるらしい。こちらから合図を送ったらクラーケンを攻撃してくれ。殺さない程度に頼む」
大きく船が傾いた。視線を移すと、船尾にとりついたクラーケンが胴体を逆さにしている。底に、口が大きく開いていた。咥内の入り口付近に透明な牙が縁取るように伸びて、ぽっかりと暗い穴が奥へと続いている。
「ぞっとしないな」
苦笑してつぶやく。
口に運ばれたティアの全身が、黒い水へと変じた。