38 エクリⅨ(月とアメジストⅢ)
クラーケンの肢のうち、半分ほどを斬り落としたファン・ミリアが、さらに跳び上がった。
そこを、エクリの光の矢が狙う。
「サティ!」
空中で、ティアが片腕でファン・ミリアを抱いた。そのまま矢をかわし、上空へと飛翔する。
「作戦が必要だ」
飛びながらティアが告げると、
「まずはクラーケンを沈黙させる」
海上に目を配りながらファン・ミリアが返してくる。
「どうやって?」
クラーケンは巨体な上、回復力も高そうだった。すでに斬られた肢の修復がはじまっている。
「通常、聖騎士団が海洋生物を相手にするのは珍しい」
「では、白旗を上げるか?」
ティアが言うと、ファン・ミリアが顔を上げた。
「それでもいいが、ティアが持っているのは黒旗だろう?」
違いない、とティアは苦笑する。
「なら、戦うしかないな」
「完全に主観だが」と、ファン・ミリア。
「あれが烏賊の化け物なら、烏賊としての特徴を持っている、かもしれない」
「つまり?」
「ティアは、烏賊を食べたことはあるか?」
「ない。──サティはあれを食べるのか?」
ティアがすこし嫌な顔をすると、ファン・ミリアは肩をすくめた。
「烏賊は〆て食すとうまい。ワインに合う」
「パンよりも?」
「パンほどじゃない。というか、パンに乗せて食す」
「……それで?」
ティアが訊くと、ファン・ミリアは「ここだ」と、自分の眉間に指先を当てた。
「烏賊の眉間あたりに衝撃を与えるか、刺突させれば簡単に〆ることができる」
「弱点か」
理解してティアが下降をはじめた。肢を避けつつ、船尾に取りついたクラーケンの胴体をめざす。
「肢は私がなんとかする。サティはあくまで弱点を狙ってくれ」
「了解した。──ティア」
ファン・ミリアが呼んでくる。
「……眠れなかった」
つぶやくように、その口調は弱い。
「あんなことをしてしまったから、ティアに嫌われるのも当然だと思った」
彼女が何を言っているのかはすぐにわかった。
「冷たくしたかったんじゃない。話したかったんだ。ちゃんと……謝らなければと思って」
でも、とファン・ミリアは声を落とす。
「ティアが、私を友人ではないと言った」
ティアは目を見開く。「ちがう」と、気がつけば答えていた。
「それは誤解だ」
言った時、ファン・ミリアが「来る──」と警戒の声を発した。
正面に閃光が奔った。
「つかまっていろよ!」
ティアは降下から翼を広げ、二七〇度の縦回転をした。光線を回避する。水平になり、その光源──エクリから遠ざかる。
「まだ来るぞ!」
ティアにしがみつき、ファン・ミリアが後方の視界を確保する。
翼を開き、風に乗った。滑空飛行に移行する。
頭を上げた。
やや高度を上げつつ、身体をひねってゆるやかな横回転をはじめる。真下すれすれを光線がかすめ過ぎていった。火花を噴くように、ファン・ミリアの身体から鮮やかな光の粒子が舞った。
「ラズドリアの盾か?」
現象を訝しんでティアが訊くと、「いや」と、ファン・ミリアが否定した。
「ルルゥの防護魔法だろう。魔法を相殺してくれるらしい。どれだけ保つかはわからないが」
「さすがだな」
いったんは上昇したティアが、今度は下降に転じる。全体として螺旋の軌道を描きながら、進行と横移動を同時に行い、矢継ぎ早に放たれるエクリの光線をかわしていく。
「ティア、これではダメだ! クラーケンから遠ざかっている」
「わかってる!」
応え、ティアは左翼を立てる。
片翼にのみ風を受け、左に急旋回を行った。高度を落としつつ、大きくカーブする。海面すれすれを飛びながら、視界の左前方に船、そしてクラーケンを捉えた。回り込むように接近する。
ふたりを撃ち落とそうと、エクリの攻撃が波間に水柱を立てる。水しぶきが上がり、驟雨となってティアとファン・ミリアに降り注いだ。
風に舞う黒とストロベリーブロンドの髪が濡れ、月の光に踊る。雫が星のように煌めく。
びしょびしょに濡れそぼり、ふたり一緒になって頭を振った。
「舞踏会を思い出すな」
緊張と興奮のさなかで、ティアは笑う。
「ああ。私もそう思っていた」
誘われるように、ファン・ミリアも笑った。熱っぽく、瞳が潤んだように輝いている。
ティアは息を呑んだ。
その笑顔が、心にあふれた。
「サ──」
と、思わず口から出かかった言葉が、風に消えた。
吸血衝動とは別のもの、淡く、静かに杯を満たしたもの。それでいて強く激しいもの……。
ファン・ミリアは、すでにエクリの方角を注視している。凛として眼光するどく、対峙する者にさえ感動を起こす戦士の顔だった。
その横顔を、ティアは呼吸を忘れるほどに見つめ続けた。
多くの人々を魅了してやまない『神託の乙女』、『救国の聖女』。
──この女性を手に入れたい。
美しく、東ムラビア王国が誇る希代の英雄を、常に自分の側に置きたい。
その欲望が湧いた。
場違いなほどに、見惚れた。すると、視線を感じたらしいファン・ミリアが一度、ちらりとこちらを流し見た後、すぐに怪訝そうな顔を向けてくる。
「……ティア?」
呼ばれたティアは呆然と瞳を大きくさせている。
「どこか不調でも?」
心配そうに手を伸ばしてくる。その手を、掴んだ。
「私が貴女を不安にさせたのか」
もう一方の腕で、ファン・ミリアをさらに強く抱く。
「貴女がただの友人なら、これほど胸が高鳴ったりはしない」
そう言った。
「貴女がいきなりこんなことをすれば、私だって緊張する」
驚いて言葉を失ったファン・ミリアに、ティアは顔を近づけていく。察したファン・ミリアが、腕を立てて拒もうとした。
ティアが引くはずもなかった。
なおも強引に抱き寄せると、ファン・ミリアが逃げるように顔をそらした。その頬に手を当て、こちらに戻す。
それでも逃げようとしたので、ティアはあえて不機嫌顔を装った。
「こちらを」
小声で、しかしはっきり言うと、ファン・ミリアの身体がびくりと揺れた。
そのまま、頬からあご先へと指をすべらせ、持ち上げると、あきらめたように瞳を閉じた。
耳にうるさいほどの風音が、静寂に包まれた。
求めて、何度も口づけを交わした。口づけをするたび、想いが募って、止まらなかった。
はじめ、おそるおそる首の裏に腕を回してくるファン・ミリアの、その手が、次第に強くティアの髪をまさぐってくる。
方向を失って海に落ちる寸前、ティアは顔を離した。持ち直そうと翼を羽ばたかせるティアに対して、ファン・ミリアは陶然とした視線を投げている。焦点の合わない瞳に光が戻ったとたん、ティアの首筋に鼻面を押しつけてきた。
「サティ……?」
「……見るな」
ファン・ミリアのくぐもった声が聞こえた。
「今の私を、見るな」
恥ずかしいらしい。
「わかった、見ない。だが」
ティアは言って、ファン・ミリアの腕を軽く叩く。
「サティ……苦しい……うまく飛べない」
にも関わらず、力をゆるめてくれない。
気がつけばエクリの攻撃が止んでいた。見ると、船上のマスト──海上の間で激しい魔法の応酬が起こっていた。
ルルゥとエクリが戦っているらしい。そのうち、ルルゥが放つ光の一筋がティアの間近を奔っていく。わざと狙ったのだろう。
「……すごく怒ってるな」
早く戻ってきやがれ、というルルゥの怒声が聞こえてきそうだ。
「当たり前だ……ティアが悪い……」
相変わらずファン・ミリアはこっちを向いてくれない。そして苦しい。
「私が絞められていく」
わかった、わかった、とティアはもう一度ファン・ミリアの腕を叩いた。
「仕切り直しだ。クラーケンを仕留めよう」
ティアが優しい声音で言うと、顔をこちらに押しつけたまま、ファン・ミリアがちいさく首を振った。
「嫌だ」
信じられない言葉にティアは自分の耳を疑った。「サティ?」
「もう嫌だ。この戦場は放棄する」
「あの……」
「私はちゃんと戦うつもりだった。なのに、いちいちティアが邪魔をして私の戦意を喪失させる。もう知らない。やっていられない。そもそも発端としてこれは聖騎士団の任務ではなかった。」
「人外が……」
「ティアだってそうだ。滅ぼすぞ」
ファン・ミリアが駄々をこねている。
「わかった」
ティアはファン・ミリアを落ち着かせるよう、一段と声を柔らかくさせた。猫なで声に近い。
「悪かった、謝るから機嫌を直してくれ」
その言葉に、ファン・ミリアがわずかに顔を上げた。上目遣いの瞳がのぞく。
「ティアは、謝らなければならないことを私にしたのか?」
「いや……して、ません」
そう答えるより他ない。
自分だって謝ろうとしたくせに、などとは絶対に言ってはいけない。
しかし、ここでファン・ミリアの機嫌が戻らなければ進退が窮まってしまう。
「サティの助けがいるんだが……」
困り果ててティアがつぶやくと、ファン・ミリアがじぃっと見上げてくる。そうしてティアが視線を合わせようとすると、また顔を隠してしまう。
「ティアは私の力が必要なようだ」
まるで他人事のように言ってくる。
「だから、そう言っている」
「奮起するがいい」
その言いざまに、さすがのティアもあせりが募ってきた。
「サティ、いい加減にしろ。駄々をこねてる場合じゃないぞ」
再びファン・ミリアの顎をつかんで強引に起こした。間近に迫る。
「嫌なのはわかった。だが、頼む。サティの力が必要なんだ。手伝ってくれ」
「ティアは私が必要ということか」
「そうだ。そう言っている」
「よく聞こえないな。波音で。飛んでるし」
「サティが必要だ!」
ティアが大声で言うと、ファン・ミリアはそっぽを向く。
「……仕方ない。そこまで言うなら手伝おう」
手伝ってくれるらしい。