37 エクリⅧ
大きく傾いた船内のあちこちからうめき声が聞こえた。囚人たちのうち、ある者は四つん這いになり、またある者は尻もちをついている。
傷の修復をはじめたティアの傍らで、ファン・ミリアは立ち上がった。
「何が起こった?」
ぎしぎしと悲鳴をあげる床、天井。そして視線を壁へ。魔法によって空けられたいくつもの穴から、海面が見えた。
「あれは……」
ファン・ミリアは走り出した。穴の縁に足をかけ、顔をのぞかせる。いつしか月夜になっていた。あわく浮かび上がるファン・ミリアの肌とは対照的に、波のない、のっぺりと扁平な海がひろがっている。
ファン・ミリアは瞬きもせずその海面を凝視する。
闇が、動いた。
ファン・ミリアは即座に飛び出した。空中で海を背負い、帆柱に指先を向ける。
『光糸!』
光の糸によって、ファン・ミリアは帆柱の横に渡した帆桁に立った。もう一度高い位置から見下ろす。
月の光に洗われたストロベリーブロンドがざわめいた。
海中に、まるまる船を覆うほどの影が漂っている。
その影から海上に伸び出た巨大な触手──吸盤のついた巨大な肢が、船尾にとりついて抑えつけている。その肢がうごめくたび、柵や床の部材が粉々になって海上に撒かれた。
「クラーケン……!」
巨大な烏賊である。本来は海中深く、さらには遠洋に棲むとされるこの超大型海妖が、なぜ内海であるエギゼルの海にいるのか。
「──エクリの野郎、こんなばかデカイのを持ってきやがって」
隣で、忌々しくつぶやくのが聞こえた。
同じ帆桁の上、ルルゥが腕組みをして立っている。その視線の先……。
クラーケンから伸び出た幾本もの肢のうち、一本の先を足場にしてエクリが立っていた。こちらを見上げ、手招いている。
ルルゥが舌打ちをした。
「ピンピンしてやがる。人を食った野郎だぜ」
ファン・ミリアはクラーケンを見下ろしたまま、言った。
「しかし、あれをどうにかしなければ船が沈む」
だなぁ、とルルゥはうなずき、
「おい聖女、ラズドリアの盾は使えるか?」
「使えるが、そうすると星槍が使えない。どちらかだ」
ふうん、とルルゥはしばらく考えた後、
「なら星槍だな」
「攻撃に特化しろと?」
「援護はおれが引き受けてやる」
ファン・ミリアはちらりとルルゥを見た。
「了解した」
うなずくと、ルルゥがにやりと笑った。
「さすが聖女だ。ここでもし、お前は信じられねーだの何だのと駄々をこねられでもしたら、全滅の憂き目にあうところだった」
「完全に信じたわけではない」
「異論はねーよ」
パン、とルルゥが両手を叩いた。
「とりあえず、視野広角、筋力増強、魔力増大、戦意向上、痛覚鈍麻、耐攻性魔法ってところでいいか? 重ねがけの反動で頭痛がするかもだが、こればっかりは消せねーんだ。我慢してくれ」
ルルゥの手のひらから、さまざまな色の光が放たれる。光はファン・ミリアの全身を包み、滲みこむように消えた。
「……飛翔付与はできるのか?」
「自分にかけるぶんには問題ねーが、他人となると集中力が半端なく必要になる。つーか、おれが聖女にかかりきりになってエクリに即応できなくなる。効率が悪いんだ」
「了解した」
「安心しろ、このおれが援護してやるんだ。かすり傷ひとつ負わせねー。大暴れしてこい」
自信過剰とも思える言葉が、この少年に限っては頼もしく感じられる。
ファン・ミリアはちいさく笑った。
「ノールスヴェリアの鬼子──ルガーシュ=フルア・ルゥと共闘することになるとは思わなかった」
「ん?」と、ルルゥが怪訝そうな表情を浮かべる。それからすぐ「そりゃ、バレるわな」と頭を掻いた。
「ま、こっちも承知の上だしな。否定はしねーよ……って、ああ?」
ルルゥが、視線を落とした。ファン・ミリアもすぐに気づいた。
「ティア!」
傷の修復を終えたティアが翼を羽ばたかせ、クラーケン、そしてエクリへと向かっていく。
「おい、聖女。さっさと行け。いまのティアじゃ、返り討ちにあうのが関の山──」
ルルゥが言い終わらぬうちに、ファン・ミリアは帆桁を蹴っている。
「……速えーな」
感心しつつ、半ばあきれてルルゥはつぶやく。それから大声を上げた。
「ティア、聖女と交代だ! お前はそこじゃねぇ!」
が、ティアは聞く耳をもたず、壁のように行く手を遮るクラーケンの肢をかいくぐって旗を振り上げた。
旗の先、槍状のするどい竿頭をエクリに差し向ける。
「エクリ……!」
冷たい呼気に、燃え立つような紅玉の瞳。
「お前は殺す」
「おや、ティアーナ。怒っているのかい?」
笑い、エクリの全身から魔力が蛍火となって噴出する。
「ティア、落ち着けって! ──ったく、手がかかる」
ルルゥが腕を伸ばし、虚空を掴む仕草を見せた。その動きに呼応して、ティアが空中に静止した。不意の力に暴れるも、巨人に掴まれたように身動きが取れない。
「こっちだっつの!」
そのままルルゥが腕を引くと、ティアは後方へと引っ張られた。高く宙に放り上げられ、なんとか翼をうって態勢を整えたところで、背後にルルゥの声を聞いた。
「おいコラ。ちったぁ頭を冷やせよ吸血鬼」
ルルゥの言葉に、ティアが肩越しに振り返った。ぎらりと双眸が光る。
「邪魔をするな」
「瀕死のくせによく言うぜ」
ルルゥが嘲るように笑った。
「おれなら、いまのてめーを瞬殺できる。──試してみるか?」
開いたルルゥの手のひらから、挑発するようにちいさな炎が浮かぶ。瞬間、炎の光がはじけた。突然のまぶしさにティアが顔をそらすと。
──なんだ?
自分の胸が鷲掴みされる感覚があった。気がつけば目の前にルルゥが浮かび、こちらの胸に両手を伸ばしている。ひどく真剣な顔つきだった。
ティアはぽかんとした表情を浮かべた。
「……え?」
事態が呑みこめず、戸惑った声を上げる。
「なんだ?」
ティアがルルゥの顔と、手と、その手に掴まれた自分の胸を交互に眺めていると、真剣そのものだったルルゥの表情が一変した。下品な笑みを作る。
「試してやるって言っただろ?」
けっけっけ、と笑いながら、宙に浮かんだルルゥが大きくとんぼ返りを打ち、帆桁に着地した。
「隙だらけなんだよ、いまのてめーは」
ティアはむっとしたものの、言い返す言葉が思いつかなかった。
「てめーの戦闘力じゃ、聖女にさえ遠く及ばねぇ。エクリに至っちゃ、いわんやをやだ」
「……」
「かといって、てめーが使えねーって言ってるわけじゃねー」
ルルゥが、ひたとティアの瞳を見据えた。
「特性を活かせってことだ。わかるか?」
「特性……」
ティアはルルゥを見返した。すこしずつ、冷静さを取り戻しはじめていた。
ややあって、
「よし」
と、ルルゥが満足するように、笑った。
「やっと戻ってきやがったな」
嘲笑でもなく、下品な笑いでもない。少年の笑みでもない。高い知性を備えた魔術師の、賢者の笑みだ。
「ティアは近距離をしかけるのが好きらしいが、おれが見たところ中距離もいける。なにより空間を良く扱う。自覚はあるか?」
「……いや」
ティアがそれだけ答えると、ルルゥはうなずいた。
「これだけも稀少だが、実は、ティアは援護が得意な性質なんじゃねーかとおれは思う。それはまあ置いとくにしても、いまの状況に限れば、近接戦闘の鬼がいる」
ルルゥが顎をしゃくった。
見ると、海上を青い光が縦横無尽に動きまわっている。
ファン・ミリアはクラーケンの肢のうち一本に取りつくと、脇で星槍を挟み、小さく身体をたたむように鋭くふるう。星槍の剣部分によって、肢の先が両断された。
クラーケンの鳴き声が海上に響き渡った。甲板を革靴で踏みこすったような高い鳴き声だった。
すぐに別の肢がファン・ミリアめがけて落ちてくる。
ファン・ミリアは残った肢の弾性を利用し、撥条のように跳躍した。再び斬り、跳ぶ。あまりの速さにクラーケンの反応が追いつかず、むなしく水面を叩いては激しい飛沫を散らしている。
ファン・ミリアが、技量と俊敏さによってクラーケンを翻弄していた。
「聖女の戦闘センスは図抜けてる。これを軸に戦術を立てるのが効果的だ。聖女が攻撃、俺が援護。ティアはおれの前、聖女の後ろだ。全体を見て、おれと聖女の中間の動きを取れ」
「中間の動き?」
「聖女の攻撃補助、おれの援護補助。それと、場合によっちゃ指示もだ。戦場の舵取り役ってところだな」
「わかった」
「二度と頭に血を上らせるんじゃねーぞ」
「ああ」
ティアは強くうなずく。すると「あとな」とルルゥが視線をそらした。
「病み上がりなんだからよ。無理すんじゃねーぞ。エクリの野郎ぐらい、おれと聖女だけでどうにでもなるからよ」
ばつが悪そうなルルゥの様子に、ティアは一瞬驚いたものの、くすりと笑った。どうやら自分を心配してくれているらしい。
「いい奴だな、ルルゥは」
思ったままを伝えると、「けっ」と少年は不機嫌そうに吐き捨てた。
「礼がしたいなら乳を揉ませやがれ」
相変わらずの減らず口に、ティアは溜息をついた。
「わかった」
応えると、ルルゥが「お」と、こちらを見た。「マジか?」
ティアは微笑んでうなずく。
「おお! わかってきたじゃねーか」
ご機嫌になってルルゥが飛び込んでくる。ティアは腕を振り上げた。
「さっきのお返しだ」
微笑んだまま、拳骨をルルゥの脳天に落とした。
「ぐおぉぉぉ……」
頭をおさえ、ルルゥは空中で身体を丸める。
「くそ、まさかティアまで児童虐待を……!」
「それじゃ、行ってくる。ルルゥも頼んだ」
翼を大きく開き、全体を見渡した。
──まずは。
心を落ち着かせる。
エクリではなく、青い光を求めた。