35 エクリⅥ
「なぜ見抜いた?」
他の囚人同様、髪を剃り上げた坊主頭。上半身裸に、下半身は腰布を巻いただけ。身長は高めだが体つきはむしろ華奢で、痩身である。
「もともと囚人の数は百人だったが、海に沈んだ者がひとりいて、現在は九十九人。十人十組を作ればひとり足りなくなるはずが、不足はなかった。新しい百人目として、お前がまぎれ込んでいたからだ」
ティアはより瞳を赤くさせ、警戒を強める。
「そして、お前が私に会うのが目的で、囚人のなかにまぎれ込んだ以上、私を観察しようとする……」
「──その通りだよ」
対峙する人影が、一歩、前に進み出た。エクリの顔がより明らかになる。
「ティアーナ、君は美しいからね。囚人どもを煽動するだけのつもりが、ついつい僕も仲間に入れてもらいたくなってしまった……」
エクリは、年若の青年だった。
はじめ、ティアを背後から抱え上げ、その後、両手首を抑えつけた男。じっと、ティアを見下ろして観察していた男。
「お前は、誰だ? 私が知っている者か?」
はじめて見る顔だった。どれだけ記憶を探っても、エクリに一致する人物には思い当たらなかった。
いやいや、とエクリは笑う。
「正真正銘、君と僕は今夜が初対面だよ。こうして空間的、肉体的に向き合うのは、という意味だけど」
「……何が目的だ?」
「君が想像している通りさ。僕は、君を知りたいと思った。会いに来たんだ」
「敵か? 味方か?」
訊くと、エクリは穏やかな笑み浮かべたまま、軽く息を吐いた。
「一応、僕にも立場はある。その立場に照らし合わせてみると、君は敵ということになってしまいそうだ」
「……なぜ蛇に人を売る?」
「なぜ?」
ティアが訊くと、エクリは「そうだね」と静かに笑い、
「僕の友達が望んだから。僕は力を貸してあげたんだよ」
「友達とは蛇のことか?」
「人に絶望し、復讐せずにはいられなかった。君とそっくりの、憐れな蛇さ」
ティアは、黒刃の切っ先をエクリを向ける。
「私は、人に絶望してはいない」
「いまのところはね。僕は今日、明日の話をしているんじゃない。化け物の寿命は永く、精神は疲弊するものだ。優しい君がそうならない保証はない」
エクリが微笑む。まるで邪気の感じられない、無垢な笑顔で。
「じきに君は知るだろう。人は裏切る、いとも簡単に。君がほんのすこしだけ目を離した隙に。手札を切るように、そっと……」
互いに向き合う。しばらくの沈黙の後、
「ホゴイ、みなを退がらせろ!」
ティアが、再び床を蹴った。黒刃を握る手に力を込める。
──この男は……。
対面してもなお、得体が知れない。
迫るティアに、「困るよ」と、エクリは笑みを浮かべたまま、
「こう見えて、僕は魔術師なんだ」
同じように、エクリも跳んで後退する。跳びながら、エクリの全身が蛍火のような淡い光をまといはじめた。
『──逃げよ』
イスラの声が、ティアの頭のなかに響いた。
『イスラか。目を覚ましたのか?』
『緊急事態じゃ。決して手を出してはならぬ者に手を出しおって』
『エクリを知っているのか?』
『知らぬ。が、その力の程がなぜわからぬ?』
黒狼の声音には、あせりがありありと浮かんでいた。
『危険な奴なのはわかっている』
『馬鹿者が! 想像の桁がちがうわ!』
頭の中にイスラの怒声が響く。
「しかし──!」
魔術師だというエクリの言葉が嘘か真かはわからないが、俊敏さではティアが優っている。間合いにエクリを捉え、黒刃を振りかぶった。その時、ティアの吸血鬼としての本能が最大限の警鐘を鳴らしはじめる。
とっさに、ティアの背から翼が拡がった。空気を孕み、急停止をかける。
エクリが、開いた掌をこちらに向けてくる。
「消えるかい?」
掌が灼熱に輝いた。──何かが、来る。そう思った刹那、ティアは横に跳んだ。しかし間に合わず、熱い衝撃が、黒刃もろともティアの右腕を、さらに右翼をも、噛んだ。
バランスを失い、ティアの身体が傾ぐ。
──なんだ?
足に力が入らず、そのまま床に倒れ込んだ。
──私は……何をされた……?
すぐに起き上がろうとするが、できなかった。右肩から腰あたりまでの感覚が消失している。エクリの一撃で肉体が大きくえぐられていた。
「致命傷の一歩手前といったところかな」
同じ笑みを顔に貼りつけたまま、エクリが屈み込んでくる。
「貴様……!」
残った左手をつき、ティアはなんとか立ち上がろうとする。牙を剥き出しにして、間近に顔を寄せるエクリを威嚇する。
「闘志は衰えず、か。いいね。でも今は攻撃ではなく、回復に専念したほうがいい──ホラ」
エクリがティアの傷跡を指さした。肉の断面の、そこから流れ落ちる血が黒い液体へと変わり、霧となって空気に溶けていく。
「攻撃を受けた直後に、傷が黒い霧を吹くのはいい。でも、流れた血が黒い液体へと変わるのはまずい。そのあと、霧に変わるのはもっとまずい。君を現世に繋ぐ力が失われはじめている兆候だ」
エクリが拳を作り、もう一方の手のひらを打った。
「僕の与えた衝撃が、君が『人ならざる者』として存在する力をわずかに超えた。放っておけば君の身体は自壊をはじめる。──これが化物の死だ。覚えておくといい」
エクリが立ち上がった。
「もう一度言う。すべての力を回復に回すんだ」
ふわりと、エクリが跳んだ。ひとりの囚人の前に着地する。
「なんだ、てめぇ!」
エクリがその囚人の頭を鷲掴みにした。
「な──」
ティアが呆然としているうちに、ぐちゃり、と囚人の頭が潰れた。
赤いしぶきを顔に浴びたエクリが、ティアを振り返って笑う。
しばらくの間、頭部を潰された身体は小刻みに痙攣していたが、やがて完全に動かなくなった。エクリが無造作に手を離す。どさりと死体が床に転がった。
エクリは笑う。無言のまま、意味ありげに。
「やめろ……」
震える声で、ティアが言った。
さらにエクリが跳んだ。
「ひぃ! た、助けてくれ!」
恐怖の表情を浮かべる囚人の頭を掴むと、同じように、潰した。
さらにエクリが跳ぶ。
殺戮がはじまった。
エクリは容赦なく、笑みを浮かべたまま、次々と囚人たちの頭部を潰していく。
「やめろ……!」
ティアが、立ち上がろうとする。
──動け……。
自身を叱咤する。
──動けぇ……!
歯を食いしばり、足に力を込めた。
『いい加減にしておけ!』
怒れる声とともに、宙空に、黒狼イスラが現れた。ティアの背中の上に着地する。圧せられ、ティアは床に抑えつけられた。
「このままでは本当に死ぬぞ! 馬鹿者が!」
顕現したイスラを目の当たりにしても、エクリに驚く様子はない。
「賢い狼よ。そうやってティアーナを大人しくさせておいてくれ」
ひとり、またひとりと囚人の頭部が、命が失われていく。
「どけ、イスラ!」
ティアの爪が、床を掻いた。
「みなを助けなければ!」
「あきらめよ!」
「私の仲間だぞ……!」
ほんの一瞬でも、ともに悩んだ。生きようとした。
「私の……仲間なんだ……!」
自分が化け物だとしても、心が伝われば、人はちゃんと返してくれる。たとえ彼等が罪人だったとしても、嬉しかった。
その仲間たちが、エクリの手によって殺められていく。
「ふざけやがって!」
エクリが次の囚人へと手を伸ばしかけるのを遮って、ホゴイがその間に立った。殴りかかるも、エクリはその拳を難なくかいくぐり、ホゴイの頭を掴む。
「やめろ!」
ティアが叫んだ。
「やめてくれ!」
すがるように、叫ぶ。
「おや、声が変わったね」
エクリが止まった。ホゴイの頭を掴んだまま、ティアに視線を向ける。
「この男が君のお気に入りかい?」
にやりと、これ以上なく愉しそうな笑みを浮かべる。
頭の骨がきしむ音を立てはじめた。ホゴイはエクリの腕をふりほどこうと両手で掴みながら、一言も苦痛の声を発しない。
「この男を助けて欲しいのかい、ティアーナ?」
「……ああ」
にらみながらティアが返事をすると、エクリの手からわずかに力が抜けた。
「ああ、とは?」
エクリが、おかしそうに首を傾げる。
「……ホゴイを、助けてくれ」
「くれ?」
再び、ホゴイを掴む手に力が込められていく。ティアは唇を噛んだ。血が出るほど強く。そして──
「助けて……ください」
「素直だね」
満足そうにエクリはうなずき、
「では、ゲームの続きをしよう。この男ひとりを生かして他の囚人すべてを殺すか、他の囚人すべてを生かしてこの男を殺すか」
「な──」
「好きなほうを選ぶといい」
室内に、恐怖のどよめきが起こった。
「冗談じゃねえ!」
「頼む、俺たちを助けれてくれ!」
囚人たちが口々に命乞いをはじめる。我が身かわいさに、ティアに自分たちを助けるよう涙を流して懇願する者もいた。
そんな室内の様子を見守っていたエクリが、ティアに笑いかけてくる。
これが人間だ。
そう伝えてくるエクリの瞳に、ティアは肚の底から燃え立つものを感じた。
「わかった。──決めた」
倒れたまま、ティアはエクリを見据える。
「お前の血を吸ってやる」
「……それが回答かい?」
わからないといった表情を浮かべるエクリに、ティアはせせら笑ってやる。
「お前の身体から一滴残らず血を吸い取って殺したあと、お前の血はぜんぶ海に吐いて捨てる。お前の血は、いらない。一滴も力にはしない。お前の血なんて、私にとっては小便以下なんだ。吐くなと言うほうが無理だ」
「へぇ」
興味深そうにエクリが瞳を細める。
「ホゴイ」
ティアが、その名を呼んだ。
「悪いが、もう命乞いはしない」
精一杯の気持ちで詫び、ティアは続けた。
「どちらかを選んだりもしない。仲間に、無様な想いをさせたくないから。──私は間違っているか?」
自分の選択が正しいか間違っているか、ティアにはわからない。ただ、自分の信じる道には適っている。そう思えた。
「いいや」
エクリに掴まれたまま、その指の隙間からホゴイの笑みがのぞく。
「こんなわけのわからねえ野郎に偉そうに生き死に決められたんじゃ、一生の恥だ。死んだほうがマシだ」
だが、他の囚人たちがホゴイと同じ気持ちだとは限らない。むしろ、囚人たちからは悲鳴のような命乞いをする者。保身に駆られ、怒って非難する者もいた。
「残念ながら、彼らには君の意思が伝わってないみたいだよ」
「当たり前だ」
ティアは射殺すほどに強く、エクリをにらむ。
「死ぬのが怖くない人間なんていない」
「では、せめて彼らの命だけでも救ってやればいいんじゃないかな」
「……私はそうは思わない」
床についた左手に、力を込めた。
「それは救いではなく、真に人を殺すことだ」
両足にも力を込める。
「エクリ、お前の奸計には乗らない」
イスラを押しのけ、立ち上がろうとする。
「ティア……死ぬ気か……!」
「イスラ、私には命よりも大事なものがあるんだ」
歯を食いしばる。
──立ち上がり、歩き続けること。
紫の魔女から教えられたこと。
「私は弱い」
ティアは囚人たちを見回した。
「だから、私と一緒に戦ってくれないか?」
左手に、力を込めた。黒刃を生み出す。床に溜まった血が、どろりと黒い液体に変じ、煮立つように霧散していく。それでもティアは黒刃に力を注ぎ続ける。すると、黒刃が通常よりも長くなった。刃先が槍の穂先のような形状へと変わり、柄の部分から闇色の旗地が広がった。
「これは……!」
イスラの琥珀の瞳がまじまじと見開かれる。
◇
『夢の旗』
作り出した旗の竿にもたれかかるように、ティアは立ち上がった。ほとんど半身をもがれた状態で、血を黒い泥へと変えながら。
「我が旗に……集え……」
ふるえる唇で、言葉を紡ぐ。
「……弱き……英雄たちよ……」
ぐらりと、ティアの足が力を失った。その身体を、受け止める者がいた。
囚人たちだった。
別のふたりが走り寄ってきて、両脇からティアを支える。
続々と、ティアの背後に囚人が集まってくる。
つい先ほどまでエクリに脅え、死にたくないと叫んでいた者たちが、その顔つきを一変させていた。
罪人たちの顔が、剽悍な戦士のそれへと変わっていた。
「……私たちの勝ちだ、エクリ」
ティアの瞳だけが、爛々と赤い。
「そうかもしれない」
認めながら、エクリに悔しがる様子はない。
「でも、そこの賢い狼が心配している通り、ここで君が死んでしまったら元も子もないのでは? 何より、君は選択をした。その結果は受け入れてもらわなくちゃいけない」
エクリはいまだホゴイの頭を離していない。
「さよならだよ」
手の力を込めた、それよりも一瞬早く、天井から何かが落ちてきた。着地するやいなや、手にした剣を斬り上げる。
「──絶禍」
深みのある低声とともに、ホゴイを掴むエクリの手が、腕ごと虚空に舞った。
「ようやく相まみえたな、首魁よ」
ヘインズだった。さらにその脇からすり抜けるように、ファン・ミリアがエクリへと向かっていく。手には蒼い軌跡を描く星槍ギュロレット。
「主よ、憐れみ給え」
天与の構え。ストロベリーブロンドの髪から、怒りの双眸がのぞく。
星槍が、エクリの胸部に直撃した。弾き飛ばされたエクリが壁に激突すると思いきや、
「神託の乙女か……」
空間でぴたりと静止した。そのまま、掌をファン・ミリアへと向ける。
「君のラズドリアの盾は、もう修復済みかな」
再び、灼熱の光が宿る。
「……逃げろ、サティ!」
かすれる声で、ティアは叫ぶ。口から黒い液体があふれた。
熱風とともに、見えない力がファン・ミリアに向けて放たれた。ファン・ミリアが星槍の十字架部分で受けようとする。
「ダメだ……! サティ、避けてくれ!」
それでもティアが叫ぶと、
「──邪魔だぞ、聖女」
予期せぬ突風を横ざまに喰らい、ファン・ミリアが吹き飛んだ。
「何を──!」
風に飛ばされただけで、ダメージはない。驚いたファン・ミリアが見上げると、もといた位置にルルゥが立っていた。
「……かきーん、ってか」
ごく面倒そうな口調でつぶやく。熱風が、その向きを変えた。
「──」
わずかに、エクリが目を瞠った。
空間に浮かぶ身体が、急速に『何か』を避ける動作を取った。時間を措いて、轟音とともに背後の壁に大穴が空いた。
「やるじゃないか」
片腕を失ったまま、エクリがゆっくりと降りてくる。
「魔導の名門『屍馬』」
ルルゥに話しかける。
「その一族において、鬼子とさえ呼ばれる『屍馬蹴り』。魔術師のはしくれとして、君に会えるのは光栄だね」
薄い笑みを浮かべるエクリに、へっ、とルルゥもまた攻撃的な笑みで返す。
「おれのことを知ってるなら、魔法で勝ち目はないってことくらいわかるよなぁ?」
「どうだろうね」
エクリの背負う蛍火が、ゆらりと揺れた。ぴくり、とルルゥが眉をひそめる。
「青瓢箪が。おれを煽るなんざ百年はえー……と、言いたいところだけどな」
ルルゥもエクリ同様、その身に蛍火をまといはじめる。
「これ以上、お前を放置しとくのもめんどくせー。てなわけで、お前の大好きなゲームだ。焼死か、凍死か、感電死か。狂死なんてのもあるぜ。好きなのを選べよ、ガキ」
赤味がかった少年の金髪が、放射される魔力に波打った。