34 エクリⅤ
──思ったよりも高い。
それでも、ティアは難なく床に着地した。吸血鬼に備わっている能力として、闇を見通す力、平衡感覚は人間の持つそれをはるかに凌駕している。
室には人いきれが充満していた。
無数の視線にさらされながら、ティアは天井を見上げた。
いま自分が飛び降た穴が、かなり上方にある。
「女だ……」
男の声がした。つられるように「女だ」と、別の声が上がる。
視線を落としていくと、最下層の船底は大広間の様相を呈していた。
部屋は総じて暗い。壁にはガラスのない小窓が無数に開けられ、海面がのぞいて見えた。
左右の壁に取り付けられた窓口に沿って、床が桟敷のように一段低く作られている。そこに奴隷を鎖で繋ぎ止め、櫂を出して漕がせるのだろう。が、いまは一本も櫂は出ておらず、また、鎖も使われてはいなかった。
にも関わらず、最下層は人の気配に満ちている。
すでに、ティアを囲って人だかりができはじめていた。全員が男である。髪を剃り上げ、上半身は裸で、下半身にも粗末な布切れを腰に巻いているだけで、靴も履いていない。
ティアは無表情のまま、男たちの顔立ちひとりひとりをゆっくりと見回す。
「お前たちは、ムラビア人だな」
ティアが声をかけるも、返事はなかった。
「なぜ、ここに閉じ込められている?」
訊いたものの、男たちはティアを凝視している。と──
「女だ。すげぇぞ、上物だ!」
背後から、ティアの腰あたりに太い腕が回され、持ち上げられた。とたん、男たちから獣のような歓声が上がった。
「こんな女、巷間でだってお目にかかれねぇ」
欲望を一身に浴びながら、それでもティアは男たちと、部屋の様子を注視する。と、横手の壁、天井近くに、輝く文字が浮かび上がった。
エクリからのメッセージだ。
『ここには重罪を犯した囚人どもが百名。
船に仕掛けられた魔石の爆発を回避するためには……
囚人の半数をティアーナ=フィールが殺す
囚人がティアーナ=フィールを犯し、殺す
いずれかの選択によって、残りの乗員は死を免れる』
「悪趣味な奴だ……」
ティアはつぶやく。壁から視線を戻すと、抱え上げられたティアの前に別の男が立っていた。履いているズボンを脱がそうとしてくる。
「私を犯し、殺すのか?」
侮蔑の瞳を向けると、正面の男は「当たり前だろうが!」と顔を歪ませた。それ以外の男たちも、我先にと手を伸ばそうとしてくる。
服のあちこちを破られ、ズボンを脱がされ、ほとんど裸の状態で、ティアは床に引き倒された。両手首を抑えつけられる。
「抵抗するんじゃねぇぞ!」
「していない」
されるがまま、ティアは仰向けに男を見上げる。
「だが、これで本当に助かると思っているのか?」
「なんだと?」
こちらに覆いかぶさろうとしてくる男の動きが止まった。
「私は、この船に魔石が仕掛けられているのを知った上で、ここに来た。どちらかと言えば、お前たちを助けにきた側だ」
「何を言ってやがる……!」
男のみならず、ティアの身体をまさぐる別の男たちの手も止まった。
「私の力で、ここにいる半数を殺すのは簡単だ。おそらくエクリも──お前たちをここに閉じ込めた者も、お前たちを殺すことは簡単だろう。そもそも、エクリがお前たちを助ける保障はどこにある?」
男が、口を開けたまま、絶句した様子でこちらを見下ろしてくる。
「試しているんだ、エクリは。私と、そして罪人であるお前たちを」
そして、とティアはまばたきもせず、男を見返した。
「私もまた、お前たちを試そうと思う」
ティアの瞳がじわりと赤くにじむ。
「私は、化け物だ。だが、お前たちを助けようとする化け物でもある。さぁ──どうするんだ、ニンゲン? このまま私を犯したければ、犯すがいい。私がお前たちに絶望するまでは、好きなようにさせてやる」
「なんなんだ……てめぇは?」」
男のうめき声を残して、室内が静まり返った。
背中の床ごしに、波の音が響いてくる。ティアが待っていると、男の視線が、ティアの身体の上を舐め回すように這った。
「ここで助かろうが、巷間に出ればお尋ねモンだ。真っ当な生き方はできねぇ」
男の双眸に、再び欲望の火が灯る。
「死ぬまで楽しんでやる……!」
男が、ティアの腿を両脇に挟み込み、腰を近づけてくる。
ティアが視線を外して瞳を上にやると、逆さまに年若の男がのぞき込んでいた。はじめ、ティアを背後から抱え上げ、いまは両手首を床に抑えつけている男。
「お前も、それでいいのか?」
ティアが尋ねると、言葉が聞こえているのかいないのか、男はただじっと、感情の失せた瞳でティアを見下ろしてくる。いや、観察しているのだろうか?
あきらめ、ティアは目を閉じようとした、その時、ティアに迫ろうとする男の後頭部を、別の囚人が蹴り飛ばした。蹴られた男はティアを飛び越えるように、反対の年若の男と激突した。
「総意じゃねぇ」
たくましい身体つきの、二十代後半といった年齢の男だった。この男も髪を剃られ、腰布を巻いた同じ格好だが、その表情には理知の光が見て取れた。
「クソはクソなりに、意地ってもんがある」
ティアに向けて手を伸ばしてくる。
「お前がリーダーか?」
ティアが訊くと、「そんなのはいねぇ」と、男は鼻で笑い、
「お前が、俺たちを助けるって?」
「そのつもりだが、できるかどうかはわからない」
「うまい案があるのか?」
ティアは首を横に振った。
「生き延びる方法を、これからお前たちと考えなければならない。──お前の名前は?」
「ホゴイ。家の名は忘れた。お前はティアーナ=フィールだな」
先ほどのエクリのメッセージからだろう。ティアはうなずき、ホゴイの手を掴んで立ち上がった。
「ティアと呼んでくれ。──礼を言ったほうがいいか?」
「いるものか」とホゴイは唾を吐き捨てた。
「俺も、お前の言う通りだと思っただけだ。俺たちをここに閉じ込めやがった野郎は、俺たちのことなんざ虫けらとさえ思っちゃいねえだろう。お前が船底に来るまで、エクリって野郎が、何をしたと思う?」
ティアが黙って話の先を促すと、
「何もしなかった。ただ俺たちを閉じ込めただけだ。目的も告げず、強制もせず……そしていま、お前が降りてきた。俺たちはお前をどうこうするための駒なんだろう。それぐらいは俺たちにだってわかる。──なぁ?」
ホゴイは囚人たちに声をかける。うなずく者と、そうでない者が半々。それでも表立って異を唱える者がいないのは、ホゴイの周知の仕方が巧みなのだろう。
「ホゴイは人を束ねていたことがあるのか?」
「覚えてねえな」
否定ではなかった。それで十分だった。
「まだ質問をしたい」
「なら早くしろ」
「ホゴイたちは、なにも強制されなかった。しかし、このガレー船を漕いできたんだろう?」
「俺たちは漕いでない」
忌々しそうに、ホゴイは親指で小窓の外を示す。
「この船は何かがおかしい」
「……というと?」
「風か波かを味方につけているのか、勝手に自走しやがる」
「魔法か?」
「知るか。この船に閉じ込まれてから数日して、泳ぎの達者なひとりが、海に飛び込んだ。一応、櫂と布を使って命綱は作っておいたが」
「結果は?」
「死んだ。海の底に沈んでいった。何かが起こったにはちがいねぇ。だが、何が起こったのかは誰にもわからなかった。そいつは抵抗する暇もなかった。驚いた顔をして、何かに吸い込まれるように、消えた。俺たちには何も見えなかった。そいつと海以外は」
ティアが黙り込むと、ホゴイから尋ねてきた。
「……ここはどこだ、どこの海だ?」
「エギゼルの海。レム島に近い」
周囲で、ざわめきが起こった。
「俺たちは、ここがどこかさえ知らなかった」
「ホゴイたちは、なぜこの船に連れられてきたんだ?」
「知るか。ただ、さっきの光る文字にも書いてあったが、俺たちが重罪人なのは事実だ。俺も含め、それぞれが東ムラビアのどこかの牢屋に放り込まれていた。それが、この船に集められた」
「重罪人か……」
「そうだ。俺たちが怖いか?」
「いや」とティアは笑う。「私も似たようなものだ」
その時、階上で爆発が起こった。衝撃で船ぜんたいがきしむような音を立て、床が大きく揺れた。ほとんどの囚人たちが倒れるなか、一部の者は揺れに持ちこたえ、立ち姿勢を維持している。
ティアは早口でホゴイに伝えた。
「時間がなさそうだ。いま倒れなかった者が、ホゴイを含めて十人いる。それぞれを隊長として、十人一組にまとめさせろ」
「わかった。──ティア、お前は?」
「道を作る。出入口は、私が降りてきた穴だけか?」
「いや、同じような穴が船首のほうにもある」
「見てくる。その間、他の者たちには室内に異常がないか調べさせてくれ」
「とっくに調べ終わってる」
「もう一度だ」
ティアは天井を見上げながら、足早に船首へと向かう。ホゴイが言った通り、天井に、ティアが降りてきた穴とは別の昇降口が四角く切られていた。
「……無駄だろうが」
ティアの手から黒雷が放たれた。天井に向けて迸る黒い閃光は、しかし穴を通過することなく見えない力にぶつかり、ひしゃげ、そのまま消滅した。
「やはり、結界か」
「今のは魔法か?」
指示を出し終わったホゴイが、ティアの後を追いかけてくる。
「そのようなものだ。が、だめだ。簡単には破れない」
「どうする?」
「私の仲間が外から結界を解こうとしてくれているが、船の爆発までに間に合うかはわからない」
ティアは、腕組みをした。
「──私たちが生き延びるためには、どうすればいいと思う?」
「どうしようもねぇが」
ホゴイも同じように腕組みをする。
「まずここから出なくちゃ話にならねぇ」
「いや──」
ふと、ティアは気づく。
「……必ずしも出る必要はない?」
「何言ってる? 逃げるにしろ、魔石を探すにしろ、ここから出ないことには話にならねぇ」
「そうなんだが……」
ティアの頭の中で、何かが引っ掛かっている。
すると、囚人たちのまとめ役たちが集まってきた。結界が張られている、ということ以外の異常はないようだった。
「お前たちの知恵も借りたい。私たちが生き延びるためには、どうすればいい?」
ティアが同じ質問をすると、みなが腕組みをする。そのうち、他の囚人たちも集まってきて、同じように頭を悩ませはじめた。
気がつけば、みなが一様に同じ姿勢でうんうんと唸っている。
くすり、とティアが笑い声を漏らした。
「何がおかしい?」
耳ざとくホゴイが訊いてくる。「いや」と、ティアは満面の笑みを浮かべ、
「楽しいな、と思って」
「……自棄になったのか?」
「そうじゃなくって」
くすくすと、ティアは笑い声を上げた。笑いが込み上げてくる自分がおかしくて、さらに笑う。
ひとしきり笑ってから、ティアはちいさくつぶやいた。
「生かしてやりたいな、お前たちを」
さらりとした言葉に、男たちは息を呑んだ。視線がティアへと釘付けになる。
その、偽りのない心に触れた気がしたからだった。
「……なんで人殺しを助けたいと思う?」
ホゴイもじっとティアを見つめてくる。
「仲間だからだ」
迷いのない口調で告げるティアに、ホゴイは理解しかねるといった表情を作る。
「いまさっき会ったばかりだ」
「だが、同じ目的のために悩んでる」
「今だけだ。もし助かれば、どいつもこいつも勝手なことをはじめる」
「そうか」とティアはうなずき、
「では、私だけが勝手に仲間だと思うことにする」
そう言った時だった。
「いや、仲間だ」とひとりの囚人が手を挙げた。すると、「俺も仲間だ」と別の囚人も手を挙げる。
俺も仲間だ、と続々と手が挙がりはじめた。最後には、ティアを襲ってホゴイに蹴り飛ばされた男さえ、バツが悪そうに手を挙げていた。
「こいつら、馬鹿か」
ホゴイが声を荒げるのを、ティアはにっこりと見上げた。
「ホゴイは馬鹿ではないのか?」
「付き合ってられるか」
手を挙げるタイミングを逃して、ホゴイは明らかに照れている。
「ホゴイは仲間ではないのか?」
ひどいな、とティアがつま先を立て、顔を寄せると、ホゴイは不自然なほどに顔をそらしてしまう。
「私の仲間になってはくれないのか?」
「……うるさいぞ」
ティアは白い歯をのぞかせ、
「ホゴイが仲間になってくれたら、私はとても嬉しい」
期待を込めた瞳で見上げる。けれどもホゴイは頑として首を縦に振らない。
「意地っ張りだな」
これ以上、ティアが顔を近づけるとホゴイの首が折れてしまいそうだ。ティアはつま先立ちから直ると、右手をくるりと回転させた。それだけの動作で、手には黒刃が握られている。
「しかし、おかげで活路を見出せそうだ」
まじまじとホゴイが見下ろしてくる。
「何かわかったのか?」
「ああ」とティアはうなずき、
「私たちが助かるために、ここから出る必要はない──正確に言えば、私たちが助かるためには、ここでやらねばならないことがある」
説明しながら、ホゴイと、囚人をまとめさせた隊長たちを見回す。
「お前たちの組のなかで、10人ではなく、9人の組はあるか?」
ティアの問いに、返事をする者はいなかった。
「なに──?」
ホゴイの目が驚愕に見開かれる。
次の瞬間、ティアは床を蹴り、彼我との距離を一気に縮めた。
刃が、空を斬った。
「……避けたな」
ティアが着地した。ほぼ同時に、離れた位置で着地する人影があった。
「お前が、エクリか」
ティアの瞳が赤く煌めいた。