31 エクリⅡ
「あれか……」
ティアの瞳が、ごくかすかに赤色を帯びる。まだちいさいが、波の上の一点に影が濃い。
「停泊している」
ティアが告げると、「まちがいなさそうだな」とヘインズの櫂を漕ぐ間隔が間遠になった。音を立てず、一掻きを大きくする。
船影がみるみる近づいてくる。
巨大なガレー船だった。
明かりは灯っていない。
「物見の兵は見当たらないが──」
瞳を灰褐色に戻しながら、ティアは船尾を指さした。縄梯子が下ろしてある。
ふぅん、とルルゥが楽しげに笑う。
「歓迎してやる、ってか」
そこで、ファン・ミリアが口を開いた。
「私たちが来ることを予想していたらしい。罠が仕掛けてあると見るべきだ」
「かといって、ここで退散というわけにはな」
悩むでもなく、ヘインズの口調は軽い。ティアを見て、
「どうする?」
訊かれ、ティアは肩をすくめた。
「どちらでも。ヘインズが決めればいい。個人的には、エクリが何者かは気になっている」
「では──行くか」
ヘインズは迷わず決断する。
小船を寄せ、ティア、ルルゥ、ファン・ミリア、ヘインズの順に縄梯子を上っていく。
甲板に降り立ったティアは、素早くあたりを見回した。
やはり人影はない。だが、
「人は、いる」
空気を吸い込み、その臭いを嗅ぐ。ティアは大きく顔をしかめた。
「糞尿の臭いが強い。ひとりやふたりではない」
床を見つめた。臭いは下甲板から流れてくるようだった。
「これだけの規模のガレー船だからな。人がいてしかるべきだが」
ヘインズも甲板を歩きながら、異常がないかを確認している。同じように歩いていたファン・ミリアがピクリと反応し、立ち止まった。
「サ──」
呼びかけたティアもすぐに気づいた。船外から、波音に混じってかすかな物音がする。
「こっちだ」
ファン・ミリアが足早に船尾へと戻りはじめる。短い階段を上り、操舵室を抜けると、そこにはティアたちが上ってきた縄梯子がかけられている。
その下には……。
ティアたちの小舟が漂っている。
ファン・ミリアの表情は険しく、瞳は瞬きもせずその光景を凝視していた。
小舟には四人、いずれも見知らぬ男たちが乗せられていた。
動かない。
すべてが死体だった。
無理やり押し詰められたように、足や腕が船縁からはみ出し、ドロリとした粘液が付着している。損傷がはげしく、酸で溶かされたようにあちこちが黒く焼け爛れ、欠損している部位もあった。服装から判断して、どうやら漁師らしい。
『……お前たちの成れの果てだ』
言葉なき死体がそう伝えてくる。
常人であれば取り乱してしかるべき状況である。にも関わらず、
「こえーこえー」
その言葉とは裏腹に、恐怖や悲壮感がまったく感じられない声。
ティアのすぐ隣、柵の上に、いつの間にかルルゥが腰かけていた。さらにその隣では、ヘインズが身を乗り出して小舟に視線を落としている。
「殺されてから数刻は経っているな」
「だな」
「腐蝕の理由が気になる。調べてみるか」
縄梯子を降りようとするヘインズに、ティアが声をかけた。
「やめたほうがいい」
なぜだ、という表情を向けてくるヘインズに、
「あれは、人の仕業じゃない」
「わかるのか?」
「たぶん」
ティアは瞳の動きで小舟を示す。
「ヘインズは、梯子に留め綱を結んでいたな」
ああ、とヘインズがうなずく。
「間違いなく俺が結んだ。そう、外されているな。切られたか」
鋭利な刃物で切られたように、縄が、海面に頼りなく浮かんでいる。よすがを失った小舟は波に揺れながら離れていき、やがて、音もなくゆっくり沈んでいく。
四つのあわれな死体を乗せたまま……。
波音だけが残った。
ファン・ミリアが、ルルゥを見た。
「これは詐術か?」
「どうだろうなぁ」
ルルゥはうなって首を傾けるも、表情はニヤついている。
「魔術の力はあんま感じなかったけどなぁ」
ファン・ミリアはしばらくルルゥを見つめていたが、あきらめたように甲板へと視線を映した。
「いずれにせよ。私たちは帰りの足を失った」
「その問題もあるけどな」
ついてこいよ、と今度はルルゥが先頭に立ち、甲板を進んでいく。
中央あたりでルルゥが屈み込んだ。肩越しティアが覗くと、床に取りつけられた四角い木の蓋に、真鍮の取っ手がついている。
「下へ降りる階段か」
「まだ触るんじゃねーぞ」
こちらに横顔を見せるルルゥが、意味ありげに笑う。
「こりゃ、ティア用の罠だ」
「私の?」
「退魔処理ってやつだ。ティアが触ると腕が吹っ飛ぶ仕掛けだ」
言いながら、ルルゥが蓋に手のひらを押しあてた。すると、触れた部分から青白く輝く紋様が浮かび上がってきた。
「解呪するぜ」
ルルゥの言葉をきっかけに、光が弱まった。じき、光とともに紋様も消えて見えなくなる。
「できたぞー」
腰を叩きながら身を起こし、ルルゥが振り返ってくる。それを待ち受けるように、ティアの赤い瞳が輝いている。
「──おろ?」
ルルゥの瞳が、惹き込まれるようにティアの瞳に釘付けになった。
「どうした、ルルゥ?」
異変を感じ取ったヘインズの髪を、風が煽った。
「……なるほどな」
ヘインズは瞳だけを下に向けた。首元に、ファン・ミリアの剣が突きつけられている。
「良い連携だが──理由は?」
ファン・ミリアは答えず、ティアを示した。ティアは瞳を見開いたまま、
「ルルゥ、お前はなぜ私を知っている?」
まずティアが違和感を覚えたのが、
『照れてるんだな。おれにチチを揉まれて女に目覚めたんだな』
という言葉だった。単純に考えれば『大人の女として目覚めた』という意味に取れるが、もうひとつ、ティアに限っては『男から女に目覚めた』という意味にも取れる。
とはいえ、これだけで判断することはできない。しかし、つい今しがたの『退魔処理』の罠について、ルルゥは『ティア用の罠』と明言した。
ルルゥは、ティアが人外であることを知っている。
であれば、ティアが吸血鬼となった経緯を知っていてもおかしくはない。
「おれは……」
ルルゥは、魂が抜かれたようにティアに見入っている。
「お前を……」
口が、見えない力に操られたように動く。
「東ムラビアの……」
核心に触れようとした、その時、見開いたティアの瞳に動揺が走った。
──なんだ?
ティアは瞬きを繰り返す。
視界に映るルルゥの像が、揺れている。前に近づき、うしろに遠ざかり、天地がぐるりと一周する。
揺れるルルゥが、けけ、と甲高い笑い声を上げた。
「自分の力を自分で喰らうと、めちゃ気持ち悪いだろ? 特に精神系はな」
「貴様……」
立っていられなくなり、ティアはその場に膝を落とした。
こちらを見下ろしてくるルルゥの笑い顔が、何重にも浮かんでいる。
「おいおい、仕掛けてきたのはそっちだろ? つーかよ、そんなチンケな力で俺を操ろうなんて、ガッカリしちゃうぜ」
「ティア──!」
ファン・ミリアが足を踏み出しかけると、
「いいのか、俺から目を離しても?」
剣を突きつけられながら、ヘインズには余裕がある。ファン・ミリアが横目でにらむと、ヘインズは嘆息しつつ、笑う。
「そう目くじらを立てるな。俺たちに敵意はないと言ったはずだ。──すくなくともいまのところはな」
それでもファン・ミリアがにらみ続けると、
「こう見えて感謝しているのだぞ」
ヘインズは笑顔を返しつつ、「ルルゥ」と声をかけた。「へーへー」とルルゥが指を鳴らす。それを合図に、ティアの視界が回復した。
「俺にちょっかい出すにゃ、まだレベル不足だな」
言って、こちらに手を差し出してくる。ちいさな、子供の手だ。ティアはその手を取らず、自力で立ち上がった。逆に見下ろすと、「お」と、ルルゥは一瞬、不意をつかれた表情を作り、すぐに笑みを浮かべる。
「負けず嫌いだなぁ、ティアは」
「……私が吸血鬼だと知っている。その上で近づいてきたのか?」
「それはあっちに聞きな」
ルルゥはヘインズに視線を送る。すると、
「吸血鬼だからではない」
ヘインズがきっぱりと答えた。
「吸血鬼だからではない?」
疑問が、ティアの顔にありありと浮かぶ。
「では聞くが、ティアーナよ。吸血鬼がお前の本質なのか?」
問い返され、ティアが息を呑んだ。ヘインズはにやりと微笑い、
「ただの吸血鬼であれば興味など持たぬ。お前は、お前が考える以上に異質な存在であることを自覚すべきだ」
それにな、と付け加える。
「吸血鬼であれば無条件に悪で、人であれば正義が担保されるというわけでもあるまい」
ティアは言葉を失った。ティアだけでなく、ファン・ミリアまでもが驚いた表情を作っている。
「すべては心底が決める。そうでなくては……いや、そう思わねばこの世は退屈に過ぎ去っていくだろう」
ふたりからの視線に、ノールスヴェリアの男は胸を張った。
「俺は、熱くたぎるものが欲しいのだ。この命さえも燃やしてな」
自信に満ちた瞳でもってティアを見つめ返してくる。ルルゥは「あー、むさ苦しい」とうんざりした様子で、
「どうでもいいけど、呑気にお話してる時間はなさそうだぞ」
腕を振り、ヘインズにむかって『退がれ』の合図を送る。解呪したばかりの蓋の取っ手を掴み、開いた。
瞬間、黒い霧が噴き上がるように空中へと舞い上がった。
「さてさて、玩具箱から玩具が飛び出してきやがった」
頭上を振り仰ぎながら、ルルゥが嬉々として両手をこすり合わせる。
「人外か」
ティアもまた宙空を見上げた。
「蜘蛛……」
霧が、八本の脚をつくりはじめていた。