30 エクリⅠ
夜の海は広漠として、のっぺりとして……。
ティアは座ったまま身体を傾けた。手を伸ばし、指先を水面にすべらせる。
「暗いな」
月は雲に隠れ、けれども波は立たず、暗い。
ティアを乗せた舟が沖を目指して出港してから一刻ほど。
出港と呼ぶにはあまりに密やかで、船は小さかった。
ヘインズ曰く、
「現況での最高戦力だ」
ということらしい。
「それはいいんだが……」
夜目が利くという理由で先頭に座らされたティアは、改めて船上を振り返った。
「人数が思ったよりもすくなかった」
誰もそのことに触れないので、仕方なく話題にすると、
「何を言っている?」
ヘインズが平然と言ってくる。両手で櫂を漕ぎながら、
「この船の定員は四人だ」
「そこじゃない」
たしかにこの小舟に乗っているのは四人だが、そういうことが言いたいわけではない。
「四人はすくなすぎるんじゃないのか、と言ってるんだ」
「たしかに多くはないな」
ヘインズは認めて、
「だが、多ければいいというものでもあるまい。隠密行動だからな」
ひとり櫂を漕ぎながら、涼しい顔を作っている。汗ひとつかいていなかった。にも関わらず、船速は速い。
小舟に乗っているのはティア以外として、ヘインズ、ファン・ミリア、そしてもうひとり。
「──エクリは詐術が得意って噂だからな。使えねぇ奴らを集めたところでかえって足手まといなんだよ」
ティアのすぐ後ろで少年の声がした。かなり乱暴な口調である。
「詐術?」
ティアが振り返ると、「幻術のこった」と、あくびまじりに返してくる。
「人を幻惑したりだまくらかしたりする魔法の類だ」
見た目は十歳ほどの容姿ながら、ずいぶんと舌の回る少年だった。反面、仕草は子供らしく、「あー、ねみぃ」と何度も目をこすっている。
これから隠密行動をするとは思えないほどの軽装に、魔術師ふうのマント。赤味がかった金髪の巻き毛。
「──ルルゥ」
ヘインズからそう呼ばれている少年だった。
「到着するまで寝ていても構わんぞ」
「おう」
うなずいたものの、小船の幅は狭い。縦に長い作りのため、四人が一列になって座ることはできるが、横になるのは難しかった。すると、
「おい、ティア」
なれなれしく、服の背中あたりを掴んでくる。
「……なんだ?」
不審に思いながらティアが振り返ると、
「抱っこだ。子守唄も忘れんなよ」
臆面もなく言ってくる。
「わかった」
言いつつ、ティアは指先で掬った海水を、ぴしゃりとルルゥの顔にかけてやった。「うわっ」とルルゥは顔を拭いながら、
「何すんだよ!」
「これで目が覚めただろう」
ぷいとティアは前方の闇を見据えた。しかし、
「おい、ティア」
懲りずに服を引っ張ってくる。
「お前、自分が美人だと思ってるんだろう?」
「思ってない」
「ブスって言われたこと、まだ根に持ってんだろ?」
「何の話だ?」
ティアは前方を見据え続けている。
このルルゥという少年に会うのは、はじめてではない。二回目である。一回目はレム島に上陸直後、花街の路上で立っていたティアの背後から、彼がぶつかってきたのだ。これによってティアとヘインズが出会うきっかけになったわけだが──どこまでが偶然で、どこからが作為だったのか。
「ブスとか、ブスじゃないとか……」
その初対面時、たしかにティアはルルゥから『どブス』と言われた。別にティアは自分のことを美人とは思っていないので、たいして気にはならないが、ただ、『どブス』というのは悪い言葉、つまり悪口なので、子供が悪口を言うのはよくないと思っただけなのだ。別に根には持っていないし、自分が美人と思っているわけではない。別にショックではない。ぜんぜんショックとかそういうのではない。笑わせてくれる。
「じゃ、あれか」
はっはーん、とルルゥはしたり顔を作り、
「照れてるんだな。おれにチチを揉まれて女に目覚め──」
言い終わらぬうちに、ヘインズの櫂がルルゥの脳天に直撃した。
「たわけが! ねちっこいわ!」
「ぐうぅ……くそ、またしても児童虐待を……!」
ルルゥは頭を押さえて悶絶している。
ティアはふたりのやりとりに溜息をつき、ちらりとルルゥの後ろに座るファン・ミリアを見た。ファン・ミリアは館を出てから会話の一切には参加せず、感情の読めない瞳で海を眺めている。
かすかに息を吐き、ティアがうつむきかけた時、
「すまんな」
ヘインズに謝られ、「いや」とティアが頭を振ると、
「これには俺も手を焼いているところだが、魔術の腕は確かでな。この一点においては信頼できる」
「おいて『も』だろうが……!」
ルルゥはまだ頭を押さえつつ、うらみがましくヘインズを睨んでいる。「そうだな」と、ヘインズが苦笑したところへ、
「ルルゥは魔法使いなのか?」
ティアが訊くと「おうとも」とルルゥが得意そうに胸を張った。
「こんなに超愛くるしい上に超優秀な魔法使いだからな、自分の才能が怖すぎて夜も眠れないぜ。昼寝はするけどな」
けっけっけ、と高笑いするルルゥに対し、
「そうか、大変だな」
いい加減、面倒くさくなってティアは前方へと目線を転じた。「雑だな、おい」というルルゥの不満げな声が聞こえてきたが、完全に無視した。その後も「なぁ、構えよ」と髪や服を引っ張られたが相手にせず、
「どこまでも闇が続いているようだ」
注意深く闇の先をうかがう。どれだけ進んでも、ぬらぬらと、闇の中で蠢くような黒い海が広がっているばかり。
黙り込む一向のなかで、
「ここは『黒き海』だからな」
ふと、ヘインズがつぶやいた。
ティアが顔を向けると、
「約束の海とも言われる。この海には、『黒の魔女』の伝承が伝わっている」
「黒の魔女?」
つい尋ねていた。その呼び名から連想されるのは、紫の魔女だ。
「この海──エギゼルの海は、東と西の大陸を境している。昔、その東の大陸から、一柱の神と、ひとりの人間がやってきた。住んできた土地を捨て、別大陸の移住を願う者たちだった」
ヘインズの説明に、ティアだけでなく、ファン・ミリアも耳を傾けている。すでに知っているのか、ルルゥだけが退屈そうにあくびをかみ殺していた。
「だが、こちらの大陸はすでに多くの神が支配しており、この神に譲る土地がなかった。それゆえある神が言った『東より来たりし神よ、汝がエギゼルの海を渡ることまかりならぬ』と」
「人間の縄張り争いのようだな」
ティアが感想を漏らすと、「そうだな」とヘインズも認め、
「すると別の神が言った。『だが──人間よ。神ではない汝ひとりであれば、エギゼルの海を渡ることを許可しよう』と」
「神どもの縄張り争いに人は無関係だからな、本来は」
ルルゥの言葉にヘインズがうなずき、続けた。
「断る、と。人間はそう答えた。『私とこの神とは一心同体である。断じて別れることはできない』」
「交渉決裂ってわけだ。そこで颯爽と現れたのが──」
「黒の魔女、というわけだ。彼女が東と西の間に入って仲裁をしてやった。もともとの話の発端が土地の問題だからな。では新しい土地を作ってそこに女神を封じて(任せて)やればいい、ということで、大陸の西の西、その突端に、ひとつの山を創造した。女神の名にちなみ、その山をゲイゼンという。霊峰として、いまも近在の村々から崇拝されているらしい」
「山を創造する魔法があるのか?」
ティアが訊くと、
「あるわけねーだろ」
あきれ顔を作りつつ、「もっとも」とルルゥが付け加えた。
「魔法で土砂を盛り上げるくらいなら不可能じゃねーからな。それをありえない魔力で発動させりゃ、山っぽく見せることができるかもな。けどまぁ、あくまで理屈の話であって、まず無理だ。おれにもできねー」
そういうものか、とティアがうなずいたところへ、ヘインズが話を戻した。
「この差配によって西の大陸への移住を許された女神と人間は、たいそう黒の魔女に感謝してこう言ったらしい。『黒の魔女よ。顛の魔女よ。我々は、其方の恩を忘れることはないだろう。ゆえにこの海にかけて約す。其方に危難の刻あれば、ただちにこれを救おう』と。──この由来から、エギゼルの海は『黒の海』あるいは『約束の海』とも言われる」
「……黒の魔女は、顛の魔女とも呼ばれている?」
「彼女が魔法を創ったとか」
「それほどの者なのか」
ティアは驚く。紫の魔女からも甚大な力を感じたが、やはり黒の魔女も人並みではない。
──紫の魔女と、黒の魔女に関係はあるのか?
その質問を呑み込む。
誰かに口止めされたわけではないが、紫の魔女について、おいそれと語るわけにはいかないという意識がティアにはある。
考えているうちに、ティアの視界に影が映った。