29 月とアメジストⅡ(裏)
ムズムズする。
ファン・ミリアは、寝台の端に座っていた。
両手を膝に置き、はぁ、と溜息をついて……それから、下唇を噛んだ。
キスをしてしまったので、ムズムズする。
唇が。
「なぜ……」
背中から寝台に倒れ込んだ。「なぜ……」と、右に転がり、「なぜ……」と左に転がる。また仰向けになって、両腕で唇を隠した。
「なぜ、私はあんな大それたことを……」
してしまったのか。
ちがうんだ、とファン・ミリアは誰にともなく言い訳する。
──キスなんて、するつもりはなかった。
こう……なんと言えばいいか。
ティアがタオに見えたのだ。
膝枕をされて、はげましてもらった。
……恥ずかしかった。
けれど、嬉しかったのだ。
神託の乙女だ、救国の聖女だと言われながら、他人を傷つけてばかりだった自分が、誰かを救うことができるのだと認めてもらえた気がして。
嬉しいから、色々な顔が見たくなって、からかいたくなって。
すぐムキになるのが、かわいくて。
そうしたら、とても愛しく思えて。
かっと、ファン・ミリアが紫水晶の瞳を見開く。
──キスが、したくなった!
というか、気がつくとしてしまっていた。断りも入れずに。
ティアが怒るのも当然だ、と思う。
そもそも、キスとは男子からするものであって、女子から率先してするものではない。
──神託の乙女たるこの私が、相手に不意打ちを喰らわせるなど。
恥じらいが大事なのだ、恥じらいが。
ひとりの女として、そこまではちゃんとわかるのに……。
不意打ちしたくせに負けたのでは話にならない。
あるまじき失態である。
「いや、勝つか負けるとか……」
ファン・ミリアは自嘲する。
──この期に及んで、私は何を言っているのか。
身体を起こした。
キスをして以来、ティアとはぎこちない日々が続いている。こうなったのは自分に非があるし、それを認めるなら謝らなければならない。
ファン・ミリアは立ち上がった。
敢然とドアまで歩き──急速にターン。
寝台の端に座る。
ふぅ、と大きく息を吐いて、再び立ち上がった。
今度はドアではなく、鏡に向かう。
鏡に映る自分の顔はひどく緊張して強張っていた。
──戦場に赴く戦士のようだ。
鏡に映る自分が苦笑する。
謝らなければいけない。でも、謝るだけではいけないのだ。
今後もティアと良好な関係を続けるなら、相応の努力をしなければならない。
「……いくぞ、ファン・ミリア」
自分に言い聞かせ、唇の両端に指先を当てた。にぃ、と横に引っ張る。無理やり笑顔を作ってから、指を離し、表情を消した。顔中の筋肉を動かした。怒った顔をして、表情を消して、またにっこりと笑う。
ほら、できる。
──私とて、それなりに笑えるのだ。
笑顔のまま、鏡に顔を寄せていく。
よくよく見れば、捨てたものではない……のではなかろうか。
「よし」
つぶやき、背筋を伸ばした。手早く服装の乱れを直し、髪も整えた。
鏡に、顏の左側を映し、右側を映し、正面を向く。
両手を腰に当て、ポーズを取る。
「よし……!」
かわいい、けっこうかわいい……かもしれない。ちゃんと鍛えているし、無駄な肉はないし、プロポーションだって悪くない……かもしれない。
すくなくとも過去、ルクレツィアに褒められたことがあったから。大丈夫。
「よし──」
いざ、とばかりに立ち上がり、ドアの前に立つ。その時、
『妙な遊びをしているな』
今夜もヘインズが訪ねにきたらしい。居間から話し声が聞こえてくる。
──ええい、間が悪い!
出鼻をくじかれ、ファン・ミリアは苛立つ。そんな苛立つ自分に愕然とした。
自分の感情に振り回されている。
冷静になれ、そう口のなかでつぶやく。
ヘインズに応対して、その後でゆっくりとティアと話す。謝って、ぎこちない空気を払拭してしまおう。
──自然に、自然に。
ファン・ミリアはドアノブを掴み、開く。
「……サティは、友人ではないのかもしれない」
落ち着けた心のなかに、さざ波が起った。動悸がして、ファン・ミリアは拳を握りしめた。
平静な表情を作った。つい先ほどの百面相とは逆に、顔の筋肉を硬く……石膏のように硬くする。
ファン・ミリアはティアをちらりと見た。そうしたほうが自然な動きに見えると思った。すると、ティアはどこか気まずいような、強張った表情で顔をそらした。
ファン・ミリアはすぐにヘインズに身体を向けた。自分のせいでティアを気まずくさせているかと思うと、やるせなかった。
「……ヘインズか。何かわかったのか?」
ファン・ミリアは席にはつかず、いますぐにでも寝室に戻りたい気持ちを無理やり封じ込め、なんとかドア横の壁に背中を預けた。
ヘインズの話を追うことだけに集中した。それなのに……。
明日の取引の話。
『エクリ』の話。
ティアとヘインズが話を進めるうちに、言葉がファン・ミリアの耳を素通りしていくようだった。
──友人ではない。
どれだけふたりの会話に集中しようとしても、その言葉ばかりが頭の中を回っている。
棘を呑み込んだように、胸が痛んだ。
そして、ヘインズから助力を請われた時──
ありえないことに、ファン・ミリアは自分の立場を考えていなかった。
「その言い方では彼女は動けない」
ティアがヘインズに告げるのを、ファン・ミリアは内心でひやりとした。だから重ねて乞われた時、
「心遣いには感謝するが、やはり私の一存では動けない」
ごまかすようにそう答えた。答えながら、いかにもしかつめらしい表情を装っている自分が、滑稽でならなかった。
ファン・ミリアは逃げるように寝室へと戻った。
ドアを閉じ、力のない足取りで寝台の端に座り、すぐに仰向けに転がった。
もう、鏡を見る気にはなれなかった。
ひどい顔にちがいない。
ついさっき、笑顔などを作っていた自分はなんだったのか。あんなに浮かれた気分で、自分はティアに何を言うつもりだったのだろう。
そのまま指一本動かさずに横になっていると、やがてヘインズが居間を出ていく気配がした。
ファン・ミリアは動かない。すると、今度は寝室のドア越しに、気配を感じた。ファン・ミリアの上半身が跳ね起きた。
「もう寝てしまったか?」
ごく控え目に聞こえたティアの声に、数秒あけて「いや」と、ファン・ミリアは答えた。声がかすれないよう、気をつけながら。
「サティに頼みがあるんだが」
ファン・ミリアが無言でいると、
「明日の取引にサティもついてきてもらいたい。ヘインズは悪人とは思えないし、学ぶところのある男だが、信用できるかどうかはわからない。相手が何かを企んでいた場合、二手に別れているのは避けたほうがいいと思う」
ファン・ミリアが応えるよりも先に「もちろん──」と、ティアは続けて、
「ヘインズの要請を断った以上、サティは何もしなくていい。あくまで私を見張るという名目で、たまたまその場に居合わせた。何より私の監視を優先した。それでいい」
「……そう、だな」
つぶやくようなファン・ミリアの返答が聞こえたのか、ティアがドアから離れていく。
ふ、と。
ファン・ミリアの唇から弱々しい笑いが漏れた。
──私は、ティアのどんな言葉を期待したのか。
あの夜以来、ティアとまともに会話したのはこれがはじめてだった。
いや、とファン・ミリアは思い直す。
果たしてこれはまともな会話といえるのだろうか。扉を隔て、対面さえせず。
寝台の端で両膝を抱える。ぼんやりと、正面の壁を見つめた。
『友人ではない』
ティアの言葉が泡沫のように浮かんでくる。
心にさざ波が立つようだった。