1 水面の現身
水の上に身体を浮かべた。
四肢を広げ、見上げる天蓋には月と星とが瞬いている。
本来ならば触れることさえためらわれるような水の冷たさが、肌に心地いい。
教会からやや離れた森の泉に、ティアはたゆたっていた。
夜風が吹くと、さざ波がこまかい水の粒を飛ばし、ちらちらと宝石のような光を撒く。さんざん泣いて腫れぼったいまぶたに、さぁっと水がかすめ飛んでいった。
じっと見つめていると、
「いつまでそうしているつもりだ?」
汀から、あくびまじりに黒狼イスラの声が聞こえた。
「……こうしていれば、いつか海まで流れ着くんだろうか?」
つぶやくようにティアが言うと、「知らん」とそっけない答えが返ってくる。
ティアはゆっくりと立ち上がった。底は浅い。まだ完全には扱い慣れていない身体ではあるものの、自力でこの泉に辿り着くまでには動かすことができた。
水をすくって髪をこする。ぬるぬるとした血の手触りがなくなるまで、何度もこすった。
【イラスト:あけもり様】
「ここは、どこなんだ」
「お前の領地から北へ三日ほど走った場所じゃ」
ティアは頭のなかで地図を広げる。シフル領は東ムラビアの王都ゲーケルンの北西に位置している。狼の走る速度がわからないので判断しづらいが、そこからさらに北となると、聖ムラビアとの紛争及び緩衝地帯、もしくはそれをさらに越え、北の隣国ノールスヴェリアに入っているのかもしれない。
「王都は、遠いな」
ぽつりとティアがこぼすと、
「ウラスロに復讐に行く、ということなら、いまのお前には無理じゃ」
あっさりとイスラから言われた。
黒狼は水の波打つ様を興味深そうに見つめている。
「お前は東ムラビアにおいて、もっとも信仰を集める神が何者か知っておるか?」
「バアルパード」
ティアは即答した。他ならないティア、というよりタオ自身がバアルパードを信奉をしていたほどである。もっともいまのティアはイスラの加護を受ける身になっているため、好む好まざるにかかわらず宗旨変えをした、ということになるが。
「人と人の諍いは、ある種、神と神の代理戦争の側面を持っている。仮に、本来の私とバアルパードの力が拮抗していたとしても、現状ではほぼ確実に敗北する。神は人からの祈りの力を受けるからの」
「それは、信者が多い方が勝つ、ということか?」
「必ずしもそうなるとは限らぬが、彼我の差はそれほどに大きい」
「オレは……ウラスロに復讐したいだけだ」
消え入りそうな声音で言った。
そもそもティアにはバアルパードをどうこうしたいとは露ほども思っていない。神の話など、ティアにとってはあまりに遠い。
「どのように復讐するつもりじゃ?」
イスラから訊かれるも、ティアは答えることができない。
「闇に乗じてウラスロを拉致し、拷問の果てに死にいたらしめればお前は満足か?」
「……」
ティアは黙ったまま泉を瞳に映す。
ちゃぷり、と両手を水に浸らせた。
波紋を描く水面には、見慣れない自分の顔が映っている。
瞳の色は、赤から本来の灰褐色に戻っている。だが、髪の色が変わっていた。くすんだ栗色が、鴉の羽のように黒一色になっている。髪の長さも腰と背の中間ほどにまで伸びていた。
髪だけではない。容貌も体つきも、大きく様変わりしていた。
女になった、ということであれば当然だが、それこそ見た目は女そのものだ。顔の部位も含め、体つきが一回り小さくなっている。
「……オレは、女になったのか」
自分が女になるなんて、想像さえしたことがなかった。これまで自分は当たり前に男だった。男児としてシフル家に生まれ、聖騎士を目指した。それがタオ=シフルという人間だった。
「女の身体は不思議なつくりになっている」
タオ=シフルは女を知らなかった。下を向くと、まず胸の膨らみがあり、内側に曲線を描くように腰があり、再び尻にむかって膨らんでいく。
男は直線で、女は曲線でできているものらしい。
自分の身体とはいえ、見慣れぬ女の身体だ。なんとなく気恥ずかしいうえに、そわそわと落ち着かない心持ちがした。
「これは、赤子に乳をやるものだ」
自分に言い聞かせ、指で乳房に触れてみる。つつくように押すと、弾力があった。何度かつついた後、手のひらで掴んでみた。もちろん、掴んでいるのは自分の肉で、自分の肉が掴まれている感覚がある。
ぎゅう、と、さらに指に力を入れてみた。痛みを感じるほどに強く掴む。指と指の隙間から、ふくらんだ胸の肉がこぼれるようだった。そうしてぱっと手を離すと、一度揺れて、再び元の位置まで戻ってくる。当たり前のことかもしれないが、強く掴んだ程度では胸の形は崩れることはなかった。
白い肌が月光に照らされると、青白い輝きを帯びるようだった。胸の、さらに下の方を見れば、あるべきものがない。消失してしまっていた。
こちらは、さすがに触れるのはためらわれた。触ってはいけない気もした。
「自分の身体なのにな……」
戸惑いつつ、ティアは苦笑をこぼした。これ以上は、追々慣れていくしかない。
あきらめ、水面に自分の顔を映した。両の指先で自分の顔をゆっくりとたどる。
大きく丸い瞳に、鼻筋が通っている。顔の配置はいいように思えた。唇の色も悪くないようだ。
ただ、それだけ見回しても、欲情するような感覚は皆無だった。あくまで自分の身体は自分の身体、ということらしい。
むしろ、この細腕で剣を振ることができるのか心配だった。
……剣か。
ティアは目線を上げると、足取りを確かめながらイスラの前に立った。
「なんじゃ?」
「イスラ……手を」
伏せの姿勢から立ち上がり、怪訝に顔を傾げる狼の前脚を取る。
「これを、お手、という」
「それが?」
ティアは一度、にやりと笑みを作った。そしてイスラの前脚を引っ張る。
「何をするか!」
あわてるイスラをよそに、思い切り引っ張ってやった。イスラの顔が水のなかにつっこんでいく。ガボガボと吐き出された空気が気泡となって水面に上ってきた。
「イスラは水が怖いと見た」
ティアはイスラの背後に回ると、胴体を目いっぱいの力で押し込んだ。
「オレを女にしたのはイスラのせいだ」
言いながら、自分ごと水の中に飛び込んでいく。
「貴様、難癖をつけよるか!」
ガァ、とイスラが水面から顔を跳ね上げる。牙を剥き出し威嚇をしてきたので、ティアはその口がより大きく開くよう、真横に引っ張ってやった。
「何がしたいか!」
怒声を発するイスラに、ティアは笑いながら水をすくって何度もかける。
「えぇい、錯乱しよったか!」
イスラの体当たりをくらい、ティアは水の深いところに沈んでいく。水のなかで肺に空気を溜めると、身体が自然に浮上していった。
逆さに映るイスラが、呼吸を荒らげてこちらを見下ろしている。
水が耳を打つ。
ちゃぷちゃぷと、優しい音を立てている。
「……わからないんだ」
ティアは静かな視線をイスラに向けた。
「ウラスロに復讐ができないのなら、オレはどうすればいい?」
「ふん」と鼻を鳴らし、イスラは陸に上がると、体躯をブルブルとふるわせて水を払い落とした。
「お前はまだ何も知らぬ。この世を知り、神と人とを学べ。そして己を見定めよ」
「……イスラもついてきてくれるのか?」
「私以外に、誰が教えてやれる?」
イスラは自分の体躯を舐めながら、
「それと言っておくが、私は水が怖いのではない。嫌いなのじゃ」
負け惜しみのように言うのが、おかしかった。