23 ブリキ人形と月の雫Ⅴ
「……お前たち、蛇か?」
低く問い、バディスと呼ばれた青年は、おもむろに自身の頭部を掴んだ。
「だったらどうするの?」
対するリーザはテーブルの上で頬杖をつき、余裕の笑みを浮かべている。
「蛇は潰す……!」
次の瞬間、少年は心臓が口から飛び出すほどに驚いた。
バディスが、みずから頭を引きちぎったのだ。さらに驚いたのは、頭が憤怒を描く大盾へ、そして残る胴体が黒く重厚な鎧をまといはじめたことだった。
「そんな……」
驚きと恐怖で自失しかけた少年に、「しっかりしなさい」と、リーザがはげます。
「首なし騎士よ。普通は辺境の、森に近い村とかに出たりするんだけどね。不死系であるけれど、死霊の類ではないから見てても大丈夫。──シエラ」
呼ばれ、フードをめくり上げたシエラザードが進み出た。切り揃えた黒髪に蒼い瞳、静けさをたたえる表情に、妙齢の色香が漂う。
「力の底を見るのが目的なんだから、できるだけ長引かせてね」
しかし、シエラザードは何も言わない。
重装備に身を包んだバディスが、大盾を構えた。戦車さながらにシエラザードにむかって突進をはじめる。
シエラザードが外套から右手を伸ばした。その手が盾に触れたかと思った瞬間、突進がピタリと止まった。
片手一本で突進を受け止めたのだ。が、バディスはすぐさま態勢を立て直し、襤褸のマントが逆巻くように広がった。
「ああ、あれが死霊使いの屍衣ね。面白い具合に『強化』されてるわね」
リーザが感心しているうちに、マントが金属のように硬質化していく。刃となってシエラザードに襲いかかった。
「逃げて!」
少年が思わず声を上げたのと同時に、バディスの身体を青い雷が走り抜けた、ように見えた。バディスがその場に倒れ込み、動かなくなる。
それきり、しん、と室内が静まり返る。
「もう……長引かせてって言ったのに!」
リーザが頬を膨らませた。シエラザードはリーザの言葉がまるで聞こえていないように、寝台の脇まで歩くと、放心した様子のおじいさんに何やら耳打ちをした。はっとした表情を見せるおじいさんに、シエラザードはちいさくうなずき返す。
「でも、ま、そりゃそうか」
リーザは頬に溜めた息を吐いた。
「真祖だろうが真祖じゃなかろうが、生まれたばかりの吸血鬼の、生まれたばかりの眷属なんてこんなものよね」
言いながら、立ち上がった。椅子を横にどけ、窓から外を眺める。うーん、と背伸びをしながら、
「時間切れね。かなりヤバそうなのに嗅ぎつかれちゃったみたい」
言い終わるや否や、窓ガラスを突き破って、飛来物がリーザめがけて飛び込んできた。
──矢だ。
そう少年が認識するよりも早く、リーザの前面に青い光の盾が現出した。矢はその盾を貫くも、完全に勢いが相殺され、盾が消えると同時に床に転がった。
「私の盾を破るか……すごいわね」
つぶやいたリーザは驚くようでもあり、また嬉しそうでもあった。それから少年が抱くカホカと、バディスと、転がった矢を眺め、さらに嬉しそうに笑う。
「まったく、次から次へと……この子たち、憎らしいくらい運を味方につけてる。何より恐ろしいのは、結果的に私たちまでもがこの子たちの運に巻き込まれ、助けてしまっていること。敵に回したらと思うと、ちょっとうんざりしそう」
その言葉に、シエラザードが床を見下ろした。そこには気を失い、人間の姿に戻ったバディスが倒れている。
「……この首なし騎士、闇に属する者でありながら、邪悪な気はありませんでした。むしろ、まとう気は清冽でした」
「それだけ主人が異質ってことね」
「負の力に寄れば、楽に力を増すことも可能でしょう」
「けど、吸血鬼ティアーナはその楽な道を選ばなかった」
リーザは感慨深げにつぶやく。
「正しく、困難な道だからこそ、天は扶けないではいられない。天が彼女たちに味方すればこそ、大業を成すことだってできるというもの。……自明であり、皮肉よね。私たち人間が見失ってしまった道を、人外の吸血鬼が追い求めているなんて」
リーザと入れ替わりにシエラザードが窓際に立つ。そのシエラザードがふと、外套から腕を持ち上げ、外に向かって手招きをした。
「あれ──、もしかしてシエラの知り合いなの?」
リーザの質問に答えるよりも先に、何者かが、破壊された窓の桟に足をかけ、半身をのぞかせた。
「誰かと思えば、語り部のシエラザードではありませんか」
「久しぶりですね、頌弓姫」
友人同士が再開した時のように、くだけた雰囲気で挨拶をかわしている。
少年が驚いたことに、部屋に入ってきたのはエルフの女だった。白金の髪に濃緑の瞳。シエラザードの蒼い瞳が深海を想わせるように、こちらのエルフは深い森を想わせる緑だった。
「うそ。頌弓姫って……あの頌弓姫? エルフ郷の第三皇女、シィル=アージュのこと?」
リーザが話に入ってくる。と、そのエルフのシィルが顔つきを豹変させた。怒りをあらわに「そこのあなた!」と、リーザに詰め寄っていく。
「シエラザードのお知り合いでありながら、なぜ不用意に殺気を飛ばしてくるのです! 間違えて射殺してしまいそうになったではありませんか!」
「ああ、ごめん、ごめんなさい」
どう、どう、とリーザは苦笑する。
「しょうがないじゃない。あなたが敵か味方かなんて、私にはわからないし。シエラを知ってるのなら、彼女が無口で説明下手ってこともわかるでしょう? ……そりゃ、すこしはちょっかい出してみようかな、とか思ったりなんかしちゃったりするけど」
「む、たしかに。彼女には言葉足らずなところがありますわ」
頌弓姫シィルはあっさり納得したらしい。仕方がありませんわね、と嘆息しているところへ、
「ね、それでさ、あなたがシィル=アージュなのよね。大陸最高の射手と誉れ高い頌弓姫」
「最高ではありません」
シィルは、きっぱりと否定した。
「私の父ドゥールバの方が巧者ですし、お姉さまもおります」
「あなたのお姉さまってことは、義姉のダークエルフ、第二皇女のユイガスティンね。第一皇女は弓がお嫌いと聞いているから」
「ええ、よくご存じで。そうでなくても、私は一日、弓に触らないと技能の一割が逓減していきますので、いまはヤバいくらいド下手になっておりますわ」
「謙遜するのね。仮にあなたの話が事実だったとしても、頌弓姫の腕に、ドワーフの名鍛冶師ソトの鍛えたシルヴィハールが加わればどうかしら?」
したり顔で笑い、リーザはシィルの背負った大弓を見やる。
「ご想像にお任せします。それにしてもあなた、人の身にしては本当にお詳しいですわね。いったい何者──」
そこで、シィルの瞳が驚きで丸くなった。リーザの六色の瞳、それから黒い房の入った金髪をまじまじと見つめる。
「あなた、ひょっとして……」
「おおっとぉ、待って待って」
リーザは自分の唇に指を当てる。
「私たちはお忍びで行動してるの。いまはただのリーザで通している」
リーザは茶目っ気たっぷりに笑い、
「皇は御息災であらせられて?」
と、話題を強引に換えてしまう。
「それは……つつがなく」
とりあえず返事をした、という様子のシィルだったが、やがて「あなたがそう仰るのでしたら」と、納得したようにうなずいた。
「かくいう私も高貴なる使命を帯びて人界に降りて参りましたので」
「頌弓姫がわざわざ出張ってくるなんて、よほどの問題?」
「問題になるか、ならないかを調査中ですわ」
そう、と何やら考え込む様子でリーザは眉根を寄せた。
「この時期に私と貴女がゲーケルンで居合わせる、ってのも捨て置けないめぐり合わせよね。──よかったら、情報交換しない?」
「情報交換、ですか。構いませんが、私はまだ交換できるほどの情報を持ち合わせておりませんわ」
「エルフは正直者ね。でもいいわ。こちらが持っている情報を伝える」
「では……こちらからは?」
「私が、頌弓姫の知遇を得る」
リーザはにやりとたくらむような笑みを浮かべ、
「シィル=アージュには、情報以上の価値がある」
その言葉に、シィルは意表をつかれた表情を見せたものの、すぐに笑い返した。
「願ったり叶ったり、ですわ」
「交渉成立ね。それにしても意外だったわ。シエラと頌弓姫が昵懇の間柄だったなんて」
「ええ」とシィルはうなずき、
「一度、語り部がエルフ郷を訪ねに来たことがあるのです。滞在中、私たちは彼女から多くのことを教わりました。この世界の成り立ちから、神と人、そして魔法の在り方について」
「語り部かぁ。いつも一緒にいるから実感ないけど、ほとんど神話の世界よね」
リーザはしみじみとシエラザードを見つめる。
「『王の寝所に侍る者』……王サマが長い夜を退屈しないよう、千の話を聞かせたり、伽をしてあげるなんて、最高のぜいたくじゃない? まさに男の夢って感じ」
その言葉に、じろりとシエラザードがリーザを睨む。
「わかった、ごめん。もう言わないから許して」
明るく笑い、「じゃ、行きましょうか。ささやかな宴でも開きましょう」と、三人で部屋を出て行ってしまう。
「……」
残された少年は、ただ呆然としていた。すると、閉じたドアがすぐに開いた。隙間からリーザが顔をのぞかせ、
「ああ、テオドール君。素直に質問に答えくれたお礼と君の勇気を讃えて、恋の助言をしてあげる」
よく聞いてね、と一方的に話しはじめた。
「あなたの恋のライバルね。なかなかに手強いから、本気でそのルーシっ娘を手に入れたいなら、相当頑張らないと見向きもしてもらえないわよ」
「え、待っ、それって……!」
突然のことに、少年はどう反応していいかわからない。
「とりあえず、世界一の鍛冶師にでもなってみればいいんじゃないかしら。そのためのヒントはもうあげたわよね?」
手をひらひらと振りながら、ドアが閉じられた。と思いきや、
「あ、そうそう、言い忘れてた」
再びリーザが顔を出してくる。眠っているカホカを指さし、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ルーシ人の女性って、美人な上に情が深い性格が多い、ってよく言われてるの、知ってる?」
「情が深い?」
「一度好きにさせちゃえば、とぉ~ってもよく尽くしてくれるってこと、ずっと側にいてくれるってことよ。あと、その子、ルーシ人のなかでもかなり特別な存在みたいだから、頑張ってみる価値はあると思うわよ。典型的なルーシっ娘で、特別なルーシ人って感じね」
じゃあねぇ、とリーザは部屋を出ていく。
しばらくドアを見つめていた少年は、抱いているカホカを食い入るように見下ろした。
いつもの勝気そうな碧い瞳はまぶたの裏に隠されて、今はただ規則正しい寝息が聞こえてくるだけ。
女の子らしい甘い香りと、かすかな汗のにおい。
少年は、ちらりと寝台のおじいさんを盗み見た。おじいさんは隣の寝台で気を失っているおばあさんを起こそうと、揺すり、何事かを話しかけている。
──誰も見ていない。
絶好のタイミングだ、と少年は思った。
思ってしまったのだ。
少年の唇が、眠っているカホカの唇へと近づいていく。
そして……
「そうだそうだ、完っ全に忘れてたわ!」
再々リーザが顔を出してくる。少年は光の速度で顔を跳ね上げた。
「これから王都は夜が近くなるから、気をつけなさい」
「よ……夜が近くなるって?」
どきどきどきどき、と心臓が暴れる少年に、
「さっきの蛇の男たちみたいなのが、これから頻繁に出てくるかもしれない、って意味よ。できれば王都を離れるのが一番だけど、それが無理なら夜は外出しないようにしなさいね」
それじゃ元気でね、とリーザはドアを閉じた。今度こそ足音が遠ざかっていく。
「これから……」
リーザの言葉を頭の中で反芻しながら、けれども少年はすぐに唇を突き出した。
──これからのことより、俺には今やることがあるんだ、と。
──今、この瞬間にしかできないことなんだ、と。
──親方すいません俺は今から大人の階段を上りはじめます駆け足で、と。
そうして「いざ!」とばかりにカホカに唇を向けると、
「何してんだ……オマエ?」
いつの間にか、碧い瞳がばっちりと開かれていた。
「……ごめんなさい」
少年は、死を覚悟した。