22 ブリキ人形と月の雫Ⅳ
壁を越えてきた蒼い瞳の女に、少年は襟首を掴まれた。
「退がっていなさい」
落ち着いた、抑揚のない声音だった。冷たさを感じさせるほどではないが、かといって温かみがあるわけでもない。淡々とした無表情を作っている。
「だけど……!」
少年は踏みとどまろうとした。カホカはまだ男に腕を取られたままなのだ──そう思った時、少年は男の手がカホカから離れていることに気がついた。だけでなく、男の腕が地面に転がっている……。
「腕が……いつの間に……?」
徒弟とはいえ、少年も武器職人の端くれである。腕の断面から、鋭利な刃で斬り落とされたのだろう、ということは想像がついた。
女は片手でカホカを支えると、ひょいと少年に渡してくる。さすがに投げるほどの乱暴さではないが、かなり無造作な渡され方だった。
──女の子なんだから、もっと丁寧に扱え!
少年が抗議するような眼で見上げると、
「あ……」
蒼い瞳が、こちらを見下ろしていた。
──笑った。
フードをかぶっている上、肩越しのためほとんど瞳しか見ることができない。
それでも、女が笑った気がしたのだ。
女の手には、背負っている大剣の柄が握られている。剣身の中あたりが節のように一度広がり、そこから剣先にむかって窄むように収斂する異形の剣だった。
鍔が、鞘と触れ合う音が鳴った。
──あれ?
少年はその異常さにすぐに気がついた。
──なんで抜剣するのに鞘が鳴るんだ?
疑問を感じたのも束の間、トン、と男の身体から何かが落ちた。いや、こぼれたと言うべきか。
少年は絶句した。
それは、肉片だった。半瞬後、男の存在を構成していたものすべてが、細かな肉片と化して床に転がっていた。
少年は悟った。
女は抜剣したのではない。納剣をしたのだ。尋常ではない剣速に、少年の目では追いつくことができなかっただけなのだ。
床に、巻き込まれて斬られた蛇がのたうっている。その蛇に向かって、女が手を開いた。直後、水の球体が蛇を包み込んだ。透明な水の膜のなかで蛇はもがいていたが、女が手のひらを掴む素振りを見せると、蛇は球体とともに跡形もなく消え去ってしまった。
はじめから終わりまで、女は無表情を保ち続けていた。
一方──
「ちょっと、シエラ! シエラザード!」
出窓に座る女が、不機嫌そうな声で呼ぶ。
「そんな斬り散らかして、服に血がついたらどうするのよ」
かぶっていたフードを持ち上げる。女の金髪が明らかになった。
ただの金髪ではなく、ところどころに黒い毛が房のように混じっている。さらに特徴的なのは、見る者の角度によって色を変える、プリズムの瞳だった。
「私は怪我人を運びます。──リーザ、残りは貴女に任せます」
シエラザードはそれだけ言うと、少年の横を過ぎ、壁の大穴から廊下へと出ていってしまう。
おそるおそる、少年がリーザと呼ばれた女を窺うと、
「ちぇ」
と、外套の裾をつまんで汚れていないかのチェックをしている。
「あの──」
たまらず少年は声をかけた。
「危ないんじゃ」
残った最後の男を指さすと、リーザはちょっと驚いたように、
「何それ? いま私に話しかけたの?」
「え? まぁ……」
少年がうなずくと、「へぇ」と、リーザは楽しそうに口元をゆるめた。蒼い瞳の女──シエラザードに比べ、こちらの表情はわかりやすい。
「君、なんで私に話しかけようと思ったの?」
「なんでって……」
少年が答える前に、リーザは「もしかして」と、瞳を輝かせた。
「私が親しみやすいってこと? それで我慢できなくなって、ついつい話しかけちゃったのよね?」
「え、まぁ……そうかな」
リーザが嬉しそうなので、とりあえず少年はうなずいた。すると、「たっはー」とリーザは首の裏を掻く。
「やっぱり私、下々の者から愛されずにはいられないのかしら。愛され体質ってやつ? 照れるわぁ」
「あの、ちょっと……」
話が一向に前に進まない。業を煮やした少年は切り出した。
「だから、あの人、危険なんじゃ?」
「ああ、大丈夫。ぜんぜん平気」
明るく言って、リーザは出窓から飛び降りた。床の血だまりを避けながら、男の前に立つ。
「この人……ていうか蛇もだけど、夢を見てるから」
「夢?」
「わかりやすく言うと、寝てるってことかな」
リーザは男の眼の前で手を振ったり、指を鳴らしてみたりするのだが、男はまったく反応を示さない。眼は開いているもの、焦点は定まっておらず、虚空の一点を見つめている。
ね? と問いかけられ、少年がうなずくと、
「じゃ、行きましょうか」
リーザは廊下へ出ていこうとする。
「そのままにしておいていいの?」
「いいの。自分で消えるように命令しておいたから、どこかで死ぬんじゃない?」
「命令……」
わからないだらけの少年に、「いいから早くしてよ」と苛立った声が飛んでくる。あわてて少年は廊下を出た。リーザはすぐ向かいの部屋へと入っていく。
待っていたらしく、中央あたりにはシエラザードが立っていた。傍らに置かれたふたつの寝台には、それぞれ老夫妻が寝かされている。おじいさんには意識があり、痛みに顔をしかめつつ、驚いた表情でシエラザードを見上げている。おばあさんは気を失っているようだった。
「眼が……」
失明しているかもしれない。少年が声を強張らせるも、リーザは気にしていないらしく、
「そこの椅子に腰かけて」
窓際に置かれた椅子を示しながら、自分もテーブルの椅子に腰を下ろす。
「その前に、カホカさんは怪我をしてるから」
「いいから私の言葉に従って。その大切なカホカさんを抱いたまま、さっさと椅子に腰かけて」
「でも……」
少年が渋ると、リーザが鬱陶しそうな顔を作る。
「口答えとかほんと勘弁して。君のせいで私の機嫌が悪くなったら、損をするのは怪我をした三人なんだからね?」
理不尽きわまりない言い方をされた少年だったが、言葉の内容につられ、仕方なく椅子に腰を下ろした。気を失ったカホカを膝に乗せ、身体が落ちないように背中を支える。ほんのすこしだけ落ち着くと、カホカを抱いている自分を意識して、顔が熱くなった。
「好きな子に触れるのが嬉しいのはわかるけど、私の質問に答えてね」
「好きだなんて……!」
思わず声を荒げた少年を、リーザはうるさそうに手で制す。
「口答えしないでね。いい? もう言わないからね。次、口答えしたら廃人にしてやるからね。ちょっと時間がなくなってきたみたいなの」
リーザの瞳が物騒な光を宿しはじめる。その迫力に押されて少年が唾を飲み込むと、リーザはテーブルの上に両腕を立て、あごを乗せた。六色の瞳が少年を映し出す。背後にはシエラザードが立ち、同じように蒼い瞳を少年に向けてくる。
「紫の魔女。イスラ。そして、ケセド。──この中で、君の知っている言葉、もしくは、聞いたことのある言葉はあるかしら?」
少年はすこし考えてから、首を横に振った。本当に知らなかった。
リーザはうなずくと、テーブルの本に手を置いた。紫色の表紙には、見たこともない文字で題名が書かれている。同系色の宝石によって飾り立てられた豪華な装丁だった。頁数も多く、かなりの厚さがある。
──本?
けれど、少年は不思議に思う。リーザはいつの間に本を置いたのか、どこから取り出したのか、まったく気づかなかった。
「そのルーシっ娘の顔をこちらに向けて」
なぜ、という言葉を少年は呑み込んだ。黙ってカホカの身体を傾け、リーザに向ける。歯向かわないほうがいいと思った。彼女は明らかに異質だ。
その時、開いた本の頁がにわかに輝きはじめた。紫の光。本ぜんたいが輝いているようにも見えるし、文字だけが輝いているようにも見える。あるいはその両方。
光は本の上でちいさな球体を作ったかと思うと、一瞬にしてはじけた。部屋ぜんたいが紫の閃光に満ち、少年の視界を染める。光はすぐに消え、少年の視界が戻るころには、机の本もなくなっていた。
「──へぇ、そういうこと」
リーザが、なるほどといった様子で何度もうなずいている。
「リーザ」
背後に立つシエラザードが、声をかけた。
「なかなかの収穫だわ。マイヨールの情報ともほぼ一致してる。ていうか、それをさらに詳しくした感じね。……ティアーナか」
ふうん、と楽しげにリーザは腕組みをした。顔を仰向かせてシエラザードを見上げる。
「吸血鬼ティアーナ。今後は彼女も対象に入れておきましょう。基本的にイスラと行動を共にしてるみたいだから、手間にはならないわ」
シエラザードはうなずいた。
「有益な情報をくれたお礼をしなきゃね」
上機嫌のリーザが、テーブルの本を開いた。やはり、少年の目にはいつ本が置かれたのかわからなかった。先ほどの紫の本と同じ大きさ、厚さの本だが、今回のは装丁が青い。その本から発せられる光も、紫ではなく青色だった。
「リーザ」
再びシエラザードに呼ばれ、リーザは振り返った。見ると、シエラザードは無表情のまま、老夫妻のほうに顔を向けている。
「わかってるわよ」
リーザは笑う。
「相変わらず守護者サマの偏愛ぷりったら、とどまるところを知らないわね」
茶化すような口調にも、シエラザードに大した反応はない。やがて、青い光が空中に浮かぶ。が、今度のは部屋ぜんたいを照らすのではなく、三つの光に分裂した。それぞれの光がカホカと老夫妻へと注がれ、その全身が青白く輝いたかと思うと、やがて肌にしみ込むように消えた。
「しかし、思ったよりも早かったわね」
リーザが言った時、ちょうど廊下をこちらに走ってくる物音がした。いきおいよくドアが開き──
「カホカさん!」
青年が飛び込んできた。青年はカホカを見、それから寝台に寝かされている老夫妻を見た。怒りに顔を染めながら、リーザと、シエラザードと、少年を見回す。
「お前たちがやったのか……!」
「ちが──」
否定しかけた少年に、リーザが黙れという合図を送ってくる。そして、
「あなた、首なしバディスね」
椅子に座ったまま、リーザは口の端を上げる。
「ちょうどいい。試してみましょうか、吸血鬼の眷属の力を」
その言葉に応えるように、背後のシエラザードがフードをめくり上げた。