21 ブリキ人形と月の雫Ⅲ
はじかれ、脇腹に激痛が走る。それでもカホカは壁を蹴り、跳んだ。
「シャア!」
胴廻し蹴りが、敵の顔面を捉えた。頬骨の砕ける感触が伝わった。
──あと、ふたり!
徒弟の少年をのぞいて、敵は三人。すべてが男だ。
自分の速度についてこれていない、という確信があった。大した腕ではない。
──一気に片づけてやる。
素早く視線を走らせる、ひとりがカホカに、もうひとりが少年の背後に回り込もうとしている。
男を踏み台にして、再び宙を舞った。火の粉をまとうカホカが消える。次に姿を現したのは、椅子に縛られた少年の頭上だった。後方宙返りを打って、少年の背後の男──その脳天へ踵を落とし、回転する勢いで床に叩きつけた。男の頭が床を突き抜け、そのまま動かなくなる。
カホカが着地する。と、その拍子に、眩暈が起こった。足の踏ん張りが効かず、視界が左右に揺れる。その間に、胸ぐらを掴まれた。
「触ってんじゃ……」
相手の手首を掴み返した。
「ねぇ!」
関節を極め、投げる。相手の身体が宙を舞い、壁に激突する。
それを見送ることなくカホカは片膝をついた。何度も頭を振る。
眩暈が止まってくれない。
「くそぉ……!」
強く唇を噛み、意識を保つ。顔を、汗が滝のように流れ落ちていく。心臓の鼓動にあわせて脇腹の痛みが響いてくる。最初に喰らった一撃で傷口が開いたらしい。
カホカは床に手をついて、立ち上がった。脇腹を抑えながら、椅子に縛られている少年の背後に回り込む。
「じっとしてて……」
かすかに笑い、少年を結びつける布をほどいた。解放された少年が口から猿轡を吐き出し、
「カホカさん!」
「怪我は?」
顔を伏せてカホカが訊くと、少年は首を横にふった。
「宿に入ろうとしたら、突然、後ろから捕まったんだ。何が起こったのかわからなかった……あとは縛られて……」
青褪めた表情は、まだ恐怖が抜けきらないのだろう。
脇腹を抑え、顔を伏せたままカホカはうなずいた。聞いているのか聞いていないのかわからない弱々しいうなずき方だった。
「……わかってる」
もう一度、カホカはうなずいた。
「アタシのせいなんだ、ごめん」
「──え?」
少年は戸惑いを隠せない様子だった。
「事情は今度話すから、とりあえず、逃げて」
「でも……」
暗がりの中で、少年がたじろぐのがわかった。
「早く行って」
語気を強め、ぎろりと少年を睨め上げた。
その迫力に圧倒され、少年が後ずさる。
「邪魔だって言ってんの」
底光りする碧眼に、少年が押されるように部屋から出ていく。
「はぁ……」
それを見送ってから、カホカはゆるく長い息を吐いた。
壁に投げ飛ばされた男が立ち上がってくる。
顔が黒い。通常の肌の黒さではなかった。黒い仮面をかぶったように、その顔には、蛇の刺青が浮かび上がっている。下の男の瞳と蛇のそれとが重なり、虹彩を長く見せている。
男の口からうめき声が漏れ聞こえてくる。しかし、それはうめき声ではなかった。静けさのなかで、その言葉が聞こえてくる。
「痛てぇよぉ……」と。
蛇の刺青の下から、雫が頬をつたい落ちていく。それが涙だと気づき、カホカは鼻で笑った。
「蛇のギルドなんかに入るから、そんなになるんだろうが……」
「痛てぇよぉ……痛てぇよぉぉ……」
先ほど、カホカが投げた際に極めた関節が、本来とは逆方向に曲がっている。
「助けてくれよォォ……」
男が、泣きながら近づいてくる。
「しつこいなぁ」
うんざりしてつぶやく。
カホカは、この男を知っていた。すでに二回会っている。一回目は、はじめてこの王都に入った日だった。中央広場で鷲のギルド員が逃げているところを助けた時だった。二回目は、ルクレツィアと立ち回りを演じた後。路地裏の袋小路に逃げ込んだバディスを追いかけてきたのがこの男だった。他のふたりもその時の仲間だ。
三人ともが、蛇の刺青を顔に浮き上がらせている。
操られているらしい。
痛みに泣きながら、顔の蛇に無理やり引っ張られるように、カホカに向かって歩いてくる。
憐れだとは思うが、助けるつもりはない。その術も知らない。
──こいつらが、おじいさんとおばあさんを傷つけた。
その怒りが和らぐことはないし、カホカの優先順位がブレることもない。
曲がっていないほうの腕で、男が拳を打ち込んでくる。
──何より……。
ふ、とカホカは息を吐いた。脱力する。
相手の拳に、自分の右拳を打ち合わせた。ひとつ目の波を起こす。さらに左の拳を打ち合わせた。ふたつ目の波。
『──双波』
同じふたつの波が、男の腕のなかで重なり、増幅された。腕のあちこちから裂傷が走り、破裂した。赤い飛沫が噴く。
「ぎゃああぁぁ!」
男の悲鳴を無視し、カホカは跳び上がった。悲鳴を上げる男の顔を、両手で挟む。両手に、火の粉が集まってくる。
『炎上』
瞬時に男の顔が燃え上がった。肉の焼ける不快な臭いとともに、男の悲鳴が止んだ。どうと後ろに倒れる。
──何より……。
カホカは、脇腹を抑えた。その場に両膝をつく。正座になった。
「アタシの……負け……」
顔を落とし、つぶやいた。
背後で、床に頭をめりこませた男が、立ち上がってくる気配がした。同様に、はじめに顔の骨を砕いた男も蛇に引っ張られるように立ち上がってくる。
──逃げるわけにもいかないし……。
おじいさんとおばあさんを置き去りにすることはできない。
正座をしながら目をつむる。呼吸を整えた。
修行が足りない、──のかもしれない。
もっと冷静になっていれば、部屋に入った直後の初撃だって防げたはずだ。
──でも……。
あんなに幸せそうな老夫婦を傷つけられて、冷静でいられるような自分でいたいとは思わない。
背後の男が拳を打ち込んでくる、カホカは正座のまま身体を傾けた。腕を取り、相手を投げ飛ばす。正面から来る男に衝突させた。
足腰が、萎えて思うように動かない。
投げるだけでは威力が低い。が、関節を取る余裕さえなくなっていた。間髪入れずに男が起き上がってくる。正面からの蹴り。同じように足を取り、投げ飛ばした。また、次。男ふたりが起き上がっては襲い掛かってくるのを、正座のまま投げ続けた。
──捌き続ければ……。
じきにバディスが戻ってくる。正直、あの男に頼るのは業腹だが、この命の瀬戸際ではどうしようもない。
が、しかし──
はっと、カホカが顔を上げた。
「馬鹿!」
ドア口に向かって叫ぶ。
徒弟の少年が立っている。へっぴり腰で全身を震わせながら、その手には台所から持ってきたようなナイフが握られていた。
「逃げろって──!」
立ち上がりかけたカホカの首根っこを、背後の手に掴まれた。額を床に打ち据えられる。
「くっ……!」
「カホカさん! いま──!」
少年が、ナイフを構えて男に向かっていく。対する男──蛇も少年を敵と認識したらしい。反撃の構えを取った。
「ぬぅ……!」
カホカの全身が、再び火の粉をまとう。その姿が消えた、直後、少年の間近に姿を現したカホカが、その服を掴み、部屋の隅へと投げた。男が迫ってくる。再びカホカの姿が消えかかった。だが……。
──残像にならない!
躱しきれず、相手の拳が頭をかすめた。それだけで、ぐらりと視界が回る。別の男からの蹴りを喰らった。再び、脇腹に激痛が走る。意識が遠ざかる。
カホカもまた隅へと弾かれ、背中が少年にぶつかった。
「カホカさん!」
痛そうに顔をしかめながら、少年がカホカを支えようとする。
「……無事?」
荒い呼吸をついて、カホカが尋ねる。
「俺は大丈夫……だけど、カホカさんが!」
「いいよ、もう」
少年に支えられ、もたれながら、なぜか怒りが湧いてこない自分に驚く。
ただ、馬鹿だなコイツ、と思った。
──アタシには、好きな人がいるのに。
カホカは、高く結い上げている髪を掴んだ。
「一か八かだけど……神様にでも祈っといて」
結び目を手刀で切り、断髪した。
「え……」
と驚く少年に、
「私の力が消えるより先に、仲間が戻ってきたらアンタは生き残る。でも間に会わなかったら……その時はなんとか逃げて」
「どういうこと……?」
少年が応える前に、男たちが迫ってくる。
すぅ、とカホカは息を吸い、
「……竜の頸の珠取らむとて」
言葉を紡ぎはじめる。
「……竜を殺さむと求め給ふるも……」
歌うような、高く澄んだ声。
「……え取らざりしかば……今より後は……毛の一筋をだに動かし奉らじ……」
手に持った髪の束が、その言葉に反応して赤く燃えはじめた。髪は燃え尽きることなく複雑に組み合わされ、それが骨格となって竜を形作っていく。
炎の小竜は、やがて意思をもったように翼をはばたかせはじめた。
近寄ってくる男たちに威嚇音を発する。竜自身は真剣に威嚇しているのだろうが、その音はひどくかわいらしい。
それでも効果はあるようだった。炎を嫌がってか、男たちは一定の距離を保ったまま、踏み込んでこない。
「すごい……!」
少年が感激していると、支えられていたカホカの身体から、力が抜けた。のけぞるように、頭が少年にもたれかかってくる。
「わ……わ……!」
と、右肩を出して後頭部を受けようとするも、かえってその顔が少年に近づいた。閉じた瞳から睫毛がのぞいてる。
この状況にも関わらず、少年はカホカから目をそらすことができない。唇から漏れる苦しそうな呼吸さえ悩ましげに聞こえる。
不謹慎な考えが一瞬、頭をよぎったものの、竜の威嚇音で少年は我に返った。意を決したように腕を伸ばした男の腕に、竜が噛みつこうとする。それを嫌がって、男が再び距離を取った。
そこで少年は気がついた。
「炎が、弱くなってる……」
カホカの言葉に思い至る。
「──私の力が消えるより先に、仲間が戻ってきたら、アンタは生き残る」
でも、間にあわなかったら……?
いまが非常に危険な状態であることを、少年はあらためて認識した。
なんとか逃げて、とカホカは言った。それは、実際に逃げることがどれだけ困難かを告げているのではないか?
考えるほどにあせりは募り、竜の炎が弱まっていく。待ち構えるように、蛇の男たちが距離を詰めてくる。
「どうすれば……!」
少年は周囲を見回した。だが、前方は塞がれ、後方は壁を背負っている。
そうこうしているうちに、竜は形さえも維持できなくなり、ただ炎が浮かぶだけになってしまう。
カホカが言っていた『仲間』はやって来ない。
「く、来るな!」
とうとう炎を払いのけ、男の手が伸びてくる。
「来るなよぉ……!」
泣きそうな表情で、少年はカホカを掻き抱いた。
男の手が、カホカの腕を掴んだ。引っ張り、少年から奪い取ろうとする。
引っ張られたカホカの腕が、ギリギリと軋むようだった。奪われまいと、少年も必死になってカホカを引く。
「やめろぉ……」
半べそをかきはじめた少年の腕の中で、カホカの苦痛が吐息のように漏れた。悪夢にうなされた時のようにまぶたがぴくぴくと痙攣する。そして、引っ張られるカホカの腕ががくりと伸びた。
「肩が……!」
脱臼したのだとわかった。
「よくも……!」
怒りが、わずかにおびえを上回った。少年に瞳に立ち向かう意思が宿る。
「やめろって言ってるだろぉ!」
目を腫らしたまま、少年が男の腕に取りつこうと飛び出した。
その時──
「そう」
バチリ、と。
「それでいい」
少年の頭のなかに紫電が疾った。
気がつくと、出窓に女が座っていた。外套に身を包み、フードを目深にかぶっている。
「よくぞ立ち上がったわね、テオドール君、って感じかしら」
「……なんで俺の名前を」
呆然としていると、今度は背後で何かが崩れる物音がした。振り返ると、壁に四角く切り取られたような大穴が空き、こちらもフードをかぶった女が立っている。
そして、少年は見た。
そのフードの下からのぞく、深い──深海のような蒼い瞳を。