18 カホカの悩みⅢ
王都ゲーケルン、鷲のギルド。客室。
もぞり、もぞり、と。
寝台の上で、カホカはイモ虫のように上掛けから顔だけを出した。頬が、風邪を引いたように熱っぽい。
「……つらい」
脇腹が、ズキズキと痛んでいる。しかし、つらいのはこれではない。
ごろりと横向けになった。
「……つらい」
さらに、ごろりと転がって仰向けになる。
なんなんだろう、このつらさは。
首のないバディスに運ばれ、レイニーともども鷲のアジトに連れて来られた。
けれど、ティアは戻ってこない。イスラも。
心配と言えば心配だが、無事でいるのはまちがいないらしい。バディスいわく、
「もしティアさんが死んだら、俺も生きてはいませんから」
そういう仕組みらしい。その仕組み自体はまぁ仕方がないとして、「え、当然でしょ?」みたいな言い方をされたので、カホカはイラッとした。
──なんで、アタシにはわかんないんだ?
ごろり、と転がって横向きになる。
不服だった。
大いに不服だった。
──離れていてもバディスはティアのことが理解できるのに、アタシにはさっぱりわからない。
さらに、ティアはファン・ミリアと一緒なのだ。
──嫌な予感がする。
びりびりと。これ以上ないくらい嫌な予感が止まらない。
招待された屋敷で感じたことだが、ファン・ミリアはタオのことが好きらしい。
そして、だ。
ファン・ミリアは力を使い果たしたティアを追って、ヌールヴ河へと落ちていった。いくら心のお優しい聖女サマといえ、わざわざ自分の身をなげうって、吸血鬼を助けたりするものだろうか?
「これもう、バレてんじゃねーの?」
さらにごろりと転がって一周する。うつ伏せにもどった。
──嫌な予感で感電死しそう。
もしゃもしゃとシーツを噛みながら、
「……つらい」
しかも、つらいのはこれだけではない。
ティアがいない。
単純に近くにいない、というそれだけの事実が妙に心を重くさせるのだ。
恋ではない。
これは断じて恋などではない。──そう、これは懐郷病なのだ。誰がなんと言おうと懐郷病だし、懐郷病以外の何物でもないのだ。よくわからないが、そういうことなのだ。
カホカは口のなかのシーツを、んべぇ、と吐きだした。
「くそぉ……なんでアタシがアイツのことばっか考えなきゃいけーねんだ」
枕に文句を言うように、碧い瞳でにらみつける。
そもそも、ウル・エピテスでピンチになったのは、ティアがイグナスを前にして突然日和り出したからだ。自分の脇腹が痛いのも、ぜんぶあのヘタレ吸血鬼のせいなのだ。
「そうだ、ティアが悪い!」
ぜんぶティアのせいだ!
こんなにわけがわからなく苦しいのも、ティアが悪い!
次に会ったら二、三発、いいのを叩き込んでスッキリしてやる。
「顔はバレるからな……腹にしといてやる」
へへへ、とカホカは暗く笑う。
「……コイツぁ楽しくなってきやがったぜ」
再び、もしゃもしゃとシーツを噛んでいると、
「悪だくみかい?」
見ると、部屋の戸口に鷲のギルドの長レイニー=テスビアが立っている。いたるところに包帯を巻きながら、ゆったりした襟ぐりの広いワンピースに、太めのベルトを巻いていた。
「……聞いたな?」
シーツを噛みながら瞳だけで見上げると、
「怖いねぇ」
言葉とは裏腹に、レイニーは白い歯をのぞかせている。
「飯だよ、おいで」
「……ういうい」
カホカは上掛けを羽織ったまま立ち上がった。そのままレイニーの後に続く。
「なんだい、それ? 持ってくるのかい?」
レイニーが、不思議そうに振り返った。カホカはずるずると上掛けを引きずりながら、
「や、なんか心強いから」
「仲がいいんだね。ま、好きにしな」
レイニーは多くの傷を負いながらも、致命傷はなかった。ノールスヴェリア人のレイニーは、平均的なムラビア人よりも背が高い。回復力も高そうだった。ちなみに、ルーシ人(正確にはムラビア人とのハーフ)のカホカはムラビア人よりもさらに低い。なので、レイニーとカホカにはかなりの身長差があった。
「レイニーと話してると、なんか懐かしい気分になるんだよね」
カホカは前の背中に声をかけた。
「へぇ、なんでだい?」
「リュニオスハートの、クラウディアって友達に雰囲気が似てるんだよ」
「へぇ、そりゃ、さぞかしいい女なんだろうねぇ。──何をしてる人なんだい?」
「遊女」
「……この話は終わりだよ」
カホカは上掛けの下で肩をすくめた。
◇
レイニーの部屋には多くの料理が並べられていた。前回の──サスを救出した日の晩餐よりも品数が豊富だった。
「前もかなりの量を用意させたつもりだったが、お前さんがほとんどひとりで平らげちまったからなぁ」
部屋には、禿頭の大男ディードリッヒ──ディータが待っていた。ギルドのナンバー2のサーシバル──サスもいる。
「バディスは?」
「まだ寝てる。よくわかんねーが、寝てるほうがティアに迷惑をかけねぇとかなんとからしい」
「ふぅん……」
つい苛立ちそうになる自分を抑えながら、カホカは長椅子に腰をかけた。前回は隣にティアがいて、蟹の殻をむいてもらった。今はいない。そう思う自分にさらにイラついた。
乾杯をした後、カホカは手あたり次第に料理を食いまくった。
「すごい勢いだねぇ」
レイニーがあきれたように杯を傾けている。その空いた杯にサスが酒を注ぎながら、「相変わらずの食欲だな」と口元をゆるめている。
「アンタらを助けて腹が減ったんだよ」
皮肉を言ってやると、レイニーとサスが顔を見合わせた。
「機嫌が悪いらしい」
すかさず、ディータがレイニーとサスに伝えた。
「俺が最初に会った時もそうだった。お頭も兄貴も気をつけてくれ、手あたり次第に噛みついてくる」
「へぇ。あんたも噛みつかれたのかい?」
レイニーがディータに尋ねる。
「ああ、けど、その時はティアがいてくれたからな」
「今はいないねぇ」
「大丈夫だ、俺に任せてくれ」
自信満々に胸を叩き、ディータは「おおい」と、部屋の外に大声で呼ばった。すぐに入ってきたギルド員に「牛乳に凍った葡萄を……」と説明をはじめ、飲み物を持って来させる。
「それをどうするんだい?」
レイニーが尋ねるのを「まぁ、見ててくれ」と、ディータは得意げに笑い、カホカに近いテーブルの上に置いた。
「こいつがあれば、カホカの機嫌は戻る」
「へぇ」
レイニーが驚いた声を上げた。
「そんなのでいいのかい?」
「ずいぶんと安上がりじゃねぇか」
レイニーとサスから言われ、「まぁな」とディータは嬉しそうに笑う。
「とにかく、騙されたと思って見ててくれよ」
どれどれ、とレイニーとサスがカホカの観察をはじめた。
「お、さっそく手を伸ばしたねぇ」
「こりゃあ、飲むんじゃねぇか、ひょっとして」
「おっと……ああ、なんだ、料理かい。歯がゆいねぇ」
「おいおい、焦らしてくれるじゃねぇか」
などと、レイニーとサスが話し合ってる。
「ぜんぶ聞こえてんだよ!」
フォークを握ったままテーブルを叩き、カホカは怒鳴り声を上げた。わはは、と三人の鷲の面子から笑いが起こる。
「なんだよ、もう! 馬鹿にしやがって、アタシは犬猫かっての」
「しょうがないじゃないか、ひとりで勝手にイラついてるんじゃ」
言い、それで? と、レイニーがカホカに笑いかける。
「何をそんなにムカついているんだい?」
「別に……」
真正面から尋ねられ、カホカは口ごもった。見ると、サスも、ディータも、カホカの話を聞こうと耳を澄ましている。一言も聞き逃すまいといった真剣な面持ちで、身体を前のめりにしていた。
「……別に、大した話じゃない」
「そうかい? ならいいんだけどね」
レイニーはにっこりと笑う。
「私たちはね、あんたとティアに命を救われたんだよ。正真正銘の大恩人さ。どんなちいさな話だろうが馬鹿な話だろうが、あんたの気が済むまで喜んで聞こうじゃないか」
「別に、何もしてない……」
まっすぐに見つめられ、カホカは逃げるように視線をそらした。
「そんなにも瀕死になって助けてくれたのにかい?」
言って、レイニーはカホカの脇腹あたりを軽く見やる。
「私たちはお天道様にゃ顔向けできないはみだし者だけど、だからせめて、自分で納得できるように生きていたいのさ」
「……」
カホカは、おそるおそるレイニーを見返した。ダークブロンドの髪を流し、足を組むレイニーには大人の色香が漂っている。
「……笑わない?」
カホカがぽそりと訊くと、レイニーはおだやかな笑みを浮かべたまま、無言でうなずいた。カホカはすこしだけ黙り込んだ後、ちらりとサスを、それからディータを見た。所在なげに唇を噛む。
それに気づいたレイニーが、サスに対して指で外を示した。うなずいたサスが、ディータを連れて部屋から出ていく。
「……ありがと」
礼を言って目線を落とすカホカに、「どういたしまして」とレイニーが杯の酒を口に含む。
「アタシ、変なんだ……」
「そうかい?」
うん、とカホカはちいさくうなずいた。
「レイニーはさ、男の……どんなとこが好きなの?」
「男?」
もう一度うなずいたカホカに、レイニーは「そうだねぇ」と瞳を天井に向ける。
「ずいぶん昔になっちまうけど、頼り甲斐のあるところかねぇ。その時は心強いと思ったのかもしれないね」
「今も……」
「ん?」
「好きになるとしたら、男でしょ?」
「どういう意味だい?」
「……女は、好きにならないでしょ?」
「女?」
訊いたものの、今度のカホカはうなずかなかった。かわりに、長椅子の上で足を抱え、羽織った上掛けを頭からかぶってしまう。
「女……ねぇ」
つぶやき、レイニーは布団のかたまりになったカホカを眺めた。カホカの意図を探りながら、ちびりちびりと酒を飲む。そうしながら「あ……」とようやく思い至った。
「ティアかい?」
布団のかたまりは何も返してこない。けれど、否定もなかった。
「そういうことかい」
こらえきれず、レイニーは笑い声を上げた。ピクリとかたまりが反応した。
「……笑ったな?」
くぐもって聞こえる声に、殺気を感じた。
「ごめん、ごめん」それでも、レイニーは笑いを止めることができない。「でも、安心しておくれ、変だから笑ったんじゃない。馬鹿にしたわけでもないよ。カホカがあんまり可愛かったからさ」
声をかけると、殺気がしおしおとしぼんでいく。
「恋か、いいねぇ」
レイニーは背もたれに片肘をついた。頭を支えてかたまりを眺めていると、
「……ぜんぜんよくない」
「そうかい?」
「わかんない」
「ん?」
「本当に好きか、わかんない」
レイニーが何か言う前に、カホカが続けた。
「でも、好きになりたくない」
「なんでだろうね」
「なんか、つらいから」
でも、とカホカの消え入りそうな声が聞こえてくる。
「……ティアと離れてるのも、つらい」
「それは、苦しいねぇ」
遠くに光るものを見るような瞳で、レイニーはカホカを眺める。
「ティアは無事なんだってね」
訊くと、かたまりがちいさく上下した。うなずいたらしい。
「サスから聞いた話じゃ、ティアは元々タオってご貴族らしいね。カホカは昔、タオと許嫁同士だったって」
カホカはうなずき、
「でも……タオのことはぜんぜん好きじゃなかった……レンアイ的なやつでは」
「ティアになってから好きになったのかい?」
「……かも」
「あんたがティアを好きになったとして、何か不都合があるのかい?」
「……アタシがおだやかじゃない。あと──」
「あと?」
「サ……」
「さ?」
「……なんでもない」
「悩みは尽きないねぇ」
レイニーの瞳はやわらかい。そうさね、とつぶやいて、
「私だったら、まずは頑張ってみなさい、ってあんたの背中を押すかね」
「どうして?」
上掛けから、カホカがそろそろと顔をのぞかせた。
「誰かを好きになるって、理屈じゃないだろ? 好きになろうと思ってなれるものじゃない。そんな気持ちを自分で止めるのは寂しい気がしないかい? 相手が男だろうが、女だろうが、人だろうが、吸血鬼だろうが」
「……うん」
「どっちにしても、まずはティアに会わなくちゃだねぇ。あんたの悩みはティアに会わない限りは解消しないだろうし、好き嫌い以前に、ティアと一緒にいたい気持ちは変わらないんだろ?」
「……うん」
「やってみて後悔するより、やらないで後悔する方がつらいみたいだよ、人生ってのは」
うん、とカホカはうなずき、
「……寝る。ごちそうさま」
カホカが、長椅子から立ち上がった。
「もういいのかい?」
ずるり、ずるりと上掛けを引きずって出ていくカホカに声をかけると、
「もういい」
カホカはちいさく答え、
「早く傷を治したいから」
「ああ、そうだね。そうするといい。──おやすみ」
「……オヤスミ」
カホカが部屋を出ていった後も、レイニーは口元に笑みを浮かべていた。しばらくして、サスとディータがもどってくる。
「終わったのか?」
サスに訊かれ、「まぁね」とレイニーは残りの酒をあおると、
「お前たちからじゃ、一生聞けそうにない話だったよ」
きょとんとするサスとディータを尻目に、懐かしい気分で天井を見上げた。