16 苦艾の公女Ⅱ(前)
東ムラビア王国北部。聖騎士団支部、ビストリツェ砦。深夜。
にぎわう食堂の長テーブルの上に、ひとりの男が立っている。金髪に灰緑色の瞳。まだ二十代前半の若い聖騎士である。その青年は杯に並々と注がれた酒を一気飲みすると、仲間の聖騎士を指さした。
「ここにゃ、団長もいねぇ!」
また別の聖騎士を指さし、
「筆頭もいねぇ!」
青年は杯を投げ捨てた。今度は自分に親指を向け、
「だったら俺が脱ぐしかないでしょがぁ~!」
大声で叫び、自分の服を掴んだ。
おお、脱げ脱げ、と、聖騎士たちからも囃し立てられ、青年はテーブルの上で上衣を脱ぎはじめた。けっして巨体でこそないが、聖騎士らしく引き締まった体躯を持っている。
彼の名はラヴィン=エッジ・ハズ。
そのラヴィンが、身体をくねらせながら少しずつ上衣を脱いでいく。食堂内にどっと笑いが起こった。
「いいぞ、いいぞ!」
他の聖騎士たちも、酔っている。
仲間たちと杯を酌み交わし、騒ぎ、笑い合う。
しばしの別離を前に、激励を飛ばし合う者もいる。
一年に一度の酒宴だった。
冬が終わって春が訪れると、異動の辞令が下る。聖騎士団支部とは、つまるところ僻地における人外の化け物、魑魅魍魎を相手にした本来の任務であり、もっとも過酷な現場とさえ言われて久しい。
それだけに団員たちの紐帯も強く、一蓮托生といった趣がある。
その、共に食べ、共に戦った仲間のうち、ある者は本部に戻り、ある者は残り、ある者は別の支部へと配属される。
別離を惜しむように、飲み、騒ぐ。前後不覚になる者が続出するのも、一年のうちこの夜だけだった。
「フルッフー、フゥーアー!」
と、もはや言葉にならない奇声を発しながら、上半身裸になったラヴィンが、先輩格にあたる騎士の頭に服をかける。
爆笑する騎士のあちこちから「脱げ! 脱いじまえ!」という言葉が飛び、調子づいたラヴィンがとうとうズボンにも手をかけた。下着もろとも脱ぎはじめる。
「ヒーハァー!」
腰を悩ましげに振りながら、ラヴィンは脱いだズボンを蹴るように放り、下着を別の先輩格の頭にかぶせた。
ここで隆々たる筋肉を見せつけ、ポージング。
「あの馬鹿、本当に脱ぎやがった!」と、騎士たちからさらに爆笑が起こるなか、ラヴィンの昂奮も最高潮に達し、素っ裸で腰を回しはじめた。
「オラァ!」
頭の後ろに両手をやり、腰の回転数を上げる。
「オラオラオラァ~!」
ぶるんぶるん腰を回していると、食堂の入口に、誰かが立っているのがラヴィンの視界に入った。
「オラ……ァ……アァ?」
ラヴィンの腰の動きがピタリと停止する。眉を寄せ、よくよく見直した。
その顔には、見覚えがあった。
煙管を手にしている。
冷めた視線で、じぃっとラヴィンのモノに見入っている。
憂鬱と頽廃を宿したハシバミ色の瞳、毛先まで手入れの行き届いた黒金髪。ドレスに近い黒い礼服に、軍服らしい外着を羽織っている。
公女アルテンシア=ペシミシュタークが立っていた。
「げぇ! アルテンシア!」
ラヴィンの口から悲鳴じみた叫びが漏れた。その驚きは当然だった。この支部──ビストリツェ砦には若い女性はいない。女人禁制というほどではないが、見かけるのは掃除や食事のために雇い入れた年配の女中ばかりで、しかも、今夜に限っては食堂に入ってこないのが暗黙のルールになっていた。
断じてペシミシュターク公爵家の令嬢が姿を現していい場所ではない。
さらに悪いことに、ラヴィンとアルテンシアは旧知の間柄でもあった。
さらにさらに悪いことに、アルテンシアの背後には、眼鏡をかけた軍服姿の従者プラム=リーが控えている。恥ずかしそうに顔を逸らしつつ、時折、伏し目がちにこちらをチラ見してくる……しかしこれはまぁ、ラヴィンにとって嬉しくないこともないので良しとする。
一瞬にして氷室と化した食堂内で、ふぅ、とアルテンシアが煙を吐きだした。
「何が、げぇ、よ。私、いっつも思うんだけど、アービシュラル系の人間って頭の中湧いてんじゃないかしら」
「アービシュラル……って」
その言葉にプラムが反応する。
「三公爵家のですか?」
主人のアルテンシアに訊くと、「分家の小せがれだけどねぇ」とちいさくうなずいた。
「誰がアービシュラルだとぉ?」
ラヴィンはそう呼ばれたことが不快といった表情でアルテンシアを睨んでくる。が、一方のアルテンシアも飄々としている。
「うるさいわねぇ、粗チンのくせに」
涼しい顔で煙管を振って示すと、長手袋をした指先で煙管の半分以上を覆い隠してしまう。
「粗チンじゃねーだろうが!」
叫び、ラヴィンは自分の股間に視線を落とした。それから再度、アルテンシアをにらむ。
「粗チンじゃねーだろうがぁ!」
二回言いましたね、とプラムがつぶやくのが聞こえた。
「そうね、あんたは粗チンじゃないわ」
アルテンシアは素直に認めた。
「だから元気を出して。大事なのはボーチョーリツだってことを忘れないで」
「ざっけんな! なんでてめぇに慰められなきゃいけねーんだ!」
「慰めてなんかないわ。でも、思い出しちゃったのよ……」
アルテンシアはふと悲しそうに目元に指先を当て、涙をぬぐうふりをする。
「あんたのはボーチョーリツも大したことなかったなぁ、って……」
「ぐ……ッ」
「人生って残酷なものだけど、その粗チンだか蜉蝣だかわかんないモノを後生大事に握りしめていてね、2カール(約1m20cm)以上離れると視認が困難になってくるけど、太陽の光があれば影ができて明度差でなんとか存在だけはわかるから、夜の外出はなるべく控えるようにしてね、あ、あと、人間の毛って大事な部分にしか生えてないみたいだから、そこに毛があれば、『あ、なにか大事なものがあるんだろうな』って──」
「黙りやがれ! つーか、なんでてめぇがここにいるんだよ!」
「あら、言ってくれるじゃないのぉ」
アルテンシアはカリカリと煙管に歯を立てる。
「あんたんとこの団への寄付金、どの家が一番負担ってやってるか、言ってみなさいよぉ」
「う、ぐ……ッ」
「私の領民も、自分たちの血税があんたの粗チンを風車みたいに回すために使われてると知ったら、さぞ喜んでくれるでしょうね」
「おい、やめろ! 心が折れるだろうが!」
「──アルテンシア殿」
通路から呼ばれ、アルテンシアが振り返ると、そこに中年の騎士が立っていた。
「部下が無礼を働いたようだ」
さすがに落ち着いている。男は、この支部の責任者だった。すでに夜も深い時間にも関わらず、まだ制服姿なのは執務中だったのだろう。
「ご機嫌うるわしゅう」
アルテンシアはあご先を持ち上げ、流し目をするように一瞥した。目礼に近い。この挨拶の仕方は独特だった。通常の女性がするのは『カーテシー』と呼ばれるお辞儀で、背筋を伸ばしたまま膝を曲げる姿勢を取る。けれど、アルテンシアはしない。あまりにもカーテシーせず、目上に対してもしないため、過去に大問題となったことさえあった。
『ネーン・カーテシー』
カーテシーをしない女、という意味で、アルテンシアの代名詞ともなった言葉である。最近では認知度が高くなりすぎて、彼女からカーテシーされないことを喜ぶ者さえ現れるほどになっていた。
「こんな夜更けにいかがされましたか?」
「別段、用事があるってわけでもないの。なにか面白いお話でも聞ければなって思って」
「面白い話、ですか」
さすがに意表を突かれたのか、支部長がやや目を丸くした。
「でも、もう面白いものは見れたから、満足してるわぁ」
言って、アルテンシアは食堂内を、そして、ラヴィンを見た。
「聖騎士団って楽しそうなところなのねぇ」
ほくそ笑むようにアルテンシアが言うと、ラヴィンが「皮肉かコノヤロー」と、裸で詰め寄る素振りを見せたので、あわてて支部長が間に入った。
「返す言葉もありません……ですが、彼らが羽目を外すのは一年に一度、今夜だけなのです」
しっかり返してますね、というプラムのささやきを聞きながら、
「あら、そうなのぉ。ごめんなさい、私ったらぁ──」
にこやかにアルテンシアが返す。
「聖騎士の皆様は毎夜、こんなふうに酒宴を開いては楽しまれているのかと先走ってしまって……粗チンだけに」
「コロス!」
ラヴィンが飛び出してくるのを「よさんか!」と太腕で押し戻し、
「ここでは騒がしくて落ち着いた話もできんでしょう。応接室にご案内します」
「あら、恐縮ねぇ」
では、とアルテンシアの前に立って歩きはじめた支部長が、ちらとラヴィンに振り返った。
「悪いが、後で私の部屋に来てくれ」
口早に告げられ、ラヴィンが怪訝に思いつつ、「はい」と返事をすると、
「あら、ここって暗いわねぇ」
松明の明かりに皓々と照らされた通路を歩きながら、アルテンシアがキョロキョロと首を振っている。
「見えないわぁ、暗くてぜんぜん見えないわぁ」
言いながら、しっかりとした足取りで通路の先を曲がっていく。それでも「見えないわぁ」という言葉が反響して聞こえてくる。
「あの野郎……!」
ラヴィンは全裸のまま、屈辱で全身を震わせた。