14 神は羽をもってあなたを覆い……(前)
ティアとファン・ミリアに用意された部屋は、島の旅館のうち、重要人物用の最上級賓室だった。
室はたっぷりと広い。
立地も夜市から近く──さらに言えば──花街に近い。本当の金持ちは娼館には泊まらず、こういった高級旅館を利用するのだろう。
ティアは室内に入るや長靴を脱ぎ捨て、裸足でバルコニーに出た。
手摺りのむこうに、夜市が光の海のように広がっている。そのなかを魚が泳ぐように人が歩いく。
「──事実上の軟禁といったところだな」
室内からの声に振り返ると、ファン・ミリアが飾り棚に並んだワインを興味深そうにのぞき込みながら、
「廊下に兵が二名いる」
と、なんでもないことのように言った。
ティアは手摺りの上に腰かけた。
「気になることがある」
言った時、ちょうどファン・ミリアがバルコニーに出てきた。ワインの瓶を小脇に抱え、手にはグラスと、パンを乗せた皿を持っている。それらを猫足のテーブルに並べながら、こちらと目が合うと、
「夕食を食べそこなったのはティアのせいだぞ」
非難めいた口調で言われ、ティアは苦笑した。
「別に何も言ってない」
「──それで、気になることとは?」
「ヘインズは、『今夜』、私たちがレムに来たことを知っていた」
『……聖女殿が今宵、来島した経緯は?』
領主の館で、ヘインズはファン・ミリアにこう訊いた。
この訊き方は、おかしい。ヘインズは、『今宵』という時間帯まで指定した。ふたりがレム島に着いたのは今日の夕方だった。これは事実である。だが──。
「なぜ知っていたのか」
当然の疑問だった。すくなくとも、ティアは第三者に伝えてはいない。
「サティがヘインズに伝えたのか?」
ファン・ミリアはパンにバターを塗っている。それを口に運びながら、首を横に振った。
「では、尾行されている?」
さらにティアが訊くと、もぐもぐと口を動かしながら、ファン・ミリアは再び首を横に振った。ワインを飲み、ふう、と人心地ついた様子で息を吐く。
「私が気づかず、ティアにも気づかれない追跡者なら大したものだ」
ちぎったパンを、小皿に注いだオリーブ油につけて口に放る。
もぐもぐと食べている。
「……パンが好物なのか?」
ティアが訊くと、ファン・ミリアは「そうでもない」と、首を横に振った。ワインを飲み、
「追跡者はいなかった。この前提で話を進めていい」
「しかし、何者かが私たちの来島をノールスヴェリア側に告げたのは間違いない」
もぐもぐもぐとファン・ミリア。ワインを飲み、
「あの男は、私を聖女と呼びながら、ティアに関しての詳しくを知らないようだった。つまりその何者かも同様に、私の正体を知っていて、かつ、ティアを詳しく知らない者ということになる」
加えて、ふたりがレム島に降りた時間帯さえ把握し得る人物……。
「港にいた者……」
下船するのを、レム島で待ち伏せしていた、ということなのだろうか。しかしそれも考えにくい。レム島に降りたのは偶然に依るところが大きく、ティア自身さえ決めていなかったのだ。
予想がつく行動ではないから、常に状況を把握できる者でなければならなかったはず……。
「……船に同乗していた者?」
自問したとき、頭の中に閃きが走った。
「モシャン船長か」
「雇われ船長はこの世でもっとも賃金が安い、などとうそぶいていたな」
手でパンくずを払うファン・ミリアに、「なるほど」とティアはうなずき、
「船は、早朝に出港すると言っていたな」
その身体から、早くも黒い霧が立ち上りはじめている。
「何をするつもりだ?」
「確認するだけだ」
「外の衛兵に見つかったらどうする?」
「適当にごまかしておいてくれ。すぐに戻る」
「待て、勝手な行動を取るなと──」
ファン・ミリアが言い終わらぬうちに、ティアはすっかり霧に変じてしまった。
「まったく……」
溜息をついて、ファン・ミリアは椅子の背に深くもたれかかった。
◇
湯浴みができるのは、さすがは高級旅館といったところだろう。
潮風でべたつく身体を洗い清めると、生き返る心地がした。
客室に備え付けのローブを羽織り、髪を乾かしながら、ふむ、とファン・ミリアは思った。
戸口から寝室を眺める。
室には二人か三人用の寝台がひとつ。
同性であればひとつの寝台で眠ることに抵抗はないのだが、
──ティアは同性ではない。
という意識が、ファン・ミリアにはある。それ以前に、ティア本人が意識は男だとも言っていた。
年ごろの異性であれば、間違いが起こるのを避けるべきだろう。とはいえ、ティアの肉体が女性である以上、間違いが起こるとも思えない……いや、『間違い』の定義によっては間違いが起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。
よくわからなくなってきた。
「居間で寝るか……」
寝室から戻りかけたファン・ミリアだったが、ふと気になって寝台の上に乗った。思った通り、弾力があった。藁や綿ではなく、羽毛なり、獣の毛なりが詰められているようだった。二度三度、寝台の上で足踏みをした後、満足して降りた。
「寝台は羽をもってあなたを覆い……」
ふふ、と本人にしかわからない冗句を口にしながら、飾り棚のワインを吟味する。大小さまざまな瓶が並んでいる。どれも上等品だった。さんざん迷った挙句、ワインはやめて水にした。
浅く長椅子に座り、卓に置いたグラスを眺める。
──気持ちが浮ついている。
考えなければいけないことが山ほどあるはずなのに、レム島に着いてから、気持ちがふわふわと落ち着かない。
落ち着かない心の、どこか楽しいような気分。
しかし、その気分も長くは続かなかった。
夜風に、バルコニーを境するカーテンレースが躍り上がるように舞った。
リラックスしたファン・ミリアの表情が、するどく引き締まった。
「……闖入者か」
幕が上がるように、そこには仮面をつけ、黒い衣装に身を包んだ女が立っていた。髪は白く、短い。平均よりも小柄だろう。両手にやや剣身の曲がった短剣を提げており、柄の先にリングが取りつけられているのは、結んだり、投擲をするための造りだった。
グラスを戻し、ファン・ミリアは静かに立ち上がった。
「人違いではないのか? この島に知り合いはいないはずだが」
言ってみたものの返答はなかった。闖入者はまったく足音を立てない歩法で室内へと入ってくる。
「それ以上近づけば敵意ありとみなすぞ」
最後通告のつもりで伝えると、ファン・ミリアの背後でドアが開いた。
──衛兵が異変に気づいたか。
そう思ったのも束の間、気配に違和感を感じた。見ると女の闖入者と同じ格好をした大男がふたり、それぞれが大振りの片刃剣を持ち、衛兵を肩に担いでいる。床に放られても、衛兵たちはぴくりとも動かない。
──三対一か。
ファン・ミリアは、両の手を握り、その手のうちに力を注いだ。しかし。
──まだ、練り上げることができない。
星槍ギュロレットを現出させることができなかった。ラズドリアの盾も同様である。
ヌールヴ河に落ちたティアを助けるため神力を全開にした反動だった。さらに間の悪いことに、ここは海に囲まれた孤島である。ティアの活動が鈍るように、ファン・ミリアもまた星神の加護が届きにくい状態にあった。
すでにファン・ミリアを取り囲む三人の円は狭まりはじめている。
やれやれ、とファン・ミリアは腰を落とした。臨戦態勢に入る。直後、三人が床を蹴った。
手練れである。動きは悪くない。
ファン・ミリアはまず小卓を足首に引っかけ、正面の女に放った。女がかがんで避けたのを見届けぬうちに、即座に振り返った。迫るの男ふたりのうち、最初のファルシオンを躱す。続く男の剣をも身をひねって躱したところへ、背後の女が短剣で突いてくる。ファン・ミリアは後ろをちらとも見ず、二本の短剣を両脇で挟み込んだ。後頭部をつかって相手の顔面に頭突きを喰らわす。
ぐらり、と一瞬だけ仮面の女はふらつくも、両腕を挟まれたまま、跳び上がってファン・ミリアの背中に蹴りを見舞った。
強制的に前に押し出されたファン・ミリアめがけて、男のファルシオンが振り下ろされた。ファン・ミリアは臆することなく逆に間合いを詰め、剣を振る男の手を掴んだ──ものの、ふたり目の男の蹴りを横腹に受け、吹き飛ばされた。家具をなぎ倒しながら、それでも手をついて踏ん張り、立て直そうとする。そこへ、追い打ちに女の蹴りがファン・ミリアの顔面を捉えた。さらに勢いが増し、壁に叩きつけられる。
「……!」
次の瞬間、ファン・ミリアの目が見開かれた。女が投げ構える短剣のリングに、いつの間にか宝玉がはめ込まれている。
──魔石。
壁に背をつけたまま、とっさに両腕を交叉して身を丸めた。
室内に爆発が起こった。
◇
旅館ぜんたいが揺れ、粉塵が煙となって窓から吐き出されていく。
視界の閉ざされた室内において、仮面の者が三人、爆心部を見据えている。常人で即死する威力の魔力爆発を直撃させたにも関わらず、三人の緊張は解かれていない。
油断はできない。
なぜなら相手は──
その時、三人がほぼ同時に身構えた。
「貴様ら……」
薄くなりはじめた煙のなかで、崩壊した壁を背に、ひとりの影がゆらりと立ち上がった。
視界が回復していく。
「なっちゃいない」
ファン・ミリアの姿が明らかになっていく。焦げつき、はだけたローブを着直し、帯を締める。
髪には煤がにじんでいた。こめかみを、ひとすじの血が伝い落ちていく。
「魔法道具などに頼らず、私の首を踏み折るべきだった」
血をぬぐい、それから両腕を持ち上げ、構えた。その手に一切の武器はなく、ただ拳を握り込む。
「体術は得意ではないのだが」
闘志を宿した紫の瞳が、商品を値踏みするように、三人を順繰りに見回す。
「団長に叩き込まれた宮廷拳闘術だ。お前たち程度の相手なら遅れは取るまい」
かかって来い、とばかりに指を立て、手招いた。
サブタイトルは日本聖書協会『聖書』詩編91より。