12 夜市Ⅲ(修正版)
燃え崩れる屋敷の、柱が倒れる衝撃に、灰燼が舞い上がった。灰は夕陽の光線を受け、白く輝いたかと思えば、雪のように空から降ってくる。それが本物の雪だと気づいたとき、ティアは城の外に立っていた。
正面に建つ城の、緑青の大扉がひとりでに閉まっていく。
──夢が終わった……。
閉じていく扉を見つめていると、敷居の向こう側で、ちいさな影が身を起こした。黒く細長い胴体に頭部を持ち上げたのは、まだ生まれたばかりらしい蛇の赤子だった。ティアをずっと誘導していた黒い影の正体だった。
「これを、私に見せたかったのか?」
閉まりゆく扉の隙間から、その蛇へと尋ねる。生まれたての蛇は雪の寒さが身に応えるのか、ぷるぷると全身を震わせている。
『──残しておくのか?』
隣で声がした。見ると、イスラがお座りをしている。
「弱っているようだからな」
『奇特なことよ』
「悪さをするようには見えない」
ティアはかすかに唇をゆるめ、そのちいさな蛇にむけて声をかけた。
「また会おう」
扉が完全に閉じられ、振り返ると、雪のなかに馬車が待機している。馭者台には来たときと同じ老人が座っていた。
「ずっと待っていたのか」
ティアが言った時、はじめて馭者が反応した。ぐるりと首を回してこちらに顔を向ける。
「良いものを見せてもらった」
雪の下で、老人の声が響いた。
──この老人、どこかで……。
見た気がする。
老人は、黒の上下に外套を羽織っていた。地味ではあるが、古びてはいない。むしろ新品同様の服装だった。年経る白髪は逆立つように、瞳の光が強い。
往路では何度見ても記憶に残らなかった老人の顔が、いまは強い存在感を放っている。
──どこだったか……。
考えていると、甘い匂いが鼻腔をくすぐった。まだ記憶に新しい匂いだった。レム島の夜市で、男を追いかけて路地裏に入る直前、どこからか漂ってきた匂いだ。
その香りに誘われるように、ティアの記憶が蘇ってくる──小広間で花街で出会った男から依頼を受け、その前はファン・ミリアと会話をしていた。食事を摂りながら……そのテーブルの近くに、ひとりの孤独な老人が座っている。
そう。
あの孤独な老人。
「お前は、広場にいた……」
「当たり」
雪景色の中央で、馭者の老人がにやりと口の端を上げた。手袋をはめた指をぱちんと鳴らす。瞬間、ティアの視界が暗転し、地面の底が抜けたような感覚に襲われた。
──落ちる。
次に目を開くと、まさにティアは落ちていく途中だった。視界いっぱいに、地面がぐんぐん近づいてくる。建物の三、四階ほどの高さだろうか、その落下点あたりに、男が駆け込んでくるのが目に入った。誰かに追われているのか、後ろを振り返り振り返りしながら走ってくる。
──あの男は……。
背格好から、ティアが追いかけていた男だとわかった。
「ちょうどいい」
ティアは空中で態勢を立て直すと、勢いを殺しつつ、男に肩車される格好で着地した。男が事態を把握できないうちに、すぐさま両足で首を絞めにかかる。
「ぐ……ぇ……」
苦しむ男をそのままに、ティアは顔を仰がせた。
建物の屋根を超えたむこうに、晴れた夜空が見える。その黒から染み出すように、一匹の蝙蝠がティアの元へと降りてくる。
「戻ってきたか」
ティアがこの男を追いかけている最中、先回りのため分離させた蝙蝠だった。この蝙蝠が戻ってきたということは、いま目にしている世界が現実でまちがいないのだろう。
「ティア!」
呼ばれて見ると、ファン・ミリアが路地をこちらへと駆けてくる。
「サティ……」
ファン・ミリアは立ち止まると、「こら」と腰に両手を当て、しかつめらしい表情を作る。
「いきなり勝手な行動を取るな」
「悪い」
ティアは苦笑するしかない。
「サティに聞きたい。──ここに来るまで、どれくらいの時間がかかった?」
「時間?」
ティアの質問に、ファン・ミリアは腕組みをした。
「正確にはわからないが、五分そこいらじゃないのか」
「ということは、ほとんど私とは時間差がない?」
「あれば見失っていた」
「そうだよな……」
ティアはひとりごちる。
──つまり、夢を見ていた時間はごくわずかだった。
考え込んでいると、首を絞められていた男が意識を失った。泡を吹きながらその場に倒れ込む。
ティアはふわりと地面に降り立つと、男には目をくれず、
「さっきの広場で、私たちの近くに座っていた老人を覚えているか?」
「覚えている。男性で、食事をしていた」
即答だった。さすがに抜け目がない。
「あの老人に、異質な力を感じなかったか?」
「……何も感じなかった、と思う。しかし、いまの私の勘は当てにならない」
なぜかを聞こうとした時、ファン・ミリアに続いて別の男が路地を抜けてきた。
「おお、うまく捕えたようだな」
黄褐色の瞳に、灰がかったブロンド。職業不明の姿に、声は大きい。
ティアの依頼主の男だった。
「やはり、俺の眼に狂いはなかった」
満足そうにうなずきながら、昏倒した男の脇にしゃがみ込んだ。どこからか縄を取り出すと、後ろ手に縛り上げる。活を入れて気を取り戻させた。
縄を引っ張ってむりやり男を起こし、
「よし、行くぞ」
上機嫌でティアたちに声をかけてくる。
「ちょっと待て」
ティアが呼び止めると、「ん?」と男が振り返った。
「どこに行くつもりなのかは知らないが、まだ約束の金をもらっていない」
ティアが不審そうに男を見据えると、それよ、と男は白い歯をのぞかせた。
「残念ながら、いまは手持ちがない。が、こいつを引き渡せば懸賞金が手に入る。その半分を譲るつもりだ」
「……なるほど」
まったく悪びれない口ぶりに、ティアはつい納得してしまっていた。
ファン・ミリアに振り返り、
「聞いたとおり、金をもらってくる。サティは広場にでも待っていてくれ」
「いや、私も行こう」
「金をもらうだけだ」
「構わない。ティアは危なっかしい。放っておくと何をするかわからない」
この短時間でよくも評価を落としたものである。
ティアが苦笑してうなずくと、「そうしてもらえると助かる」と、なぜか男までもが同意を示してくる。
「聖女殿には確認したいことがあるからな」
男が気楽そうに吐いた一言に、ティアとファン・ミリアの全身に緊張が走った。
ふたりからの厳しい視線を浴びてなお、男は涼しい笑みを浮かべている。
「そう刺々しくするものではない。俺がお前たちの敵だと決まったわけではあるまい」
「では、味方だと?」
ファン・ミリアが進み出ると、男は「さて」とゆるく肩をすくめた。
「美女ふたりを敵に回したいとは思わんが、──お前たち次第だろうな」
「私たちがどうするかを決める前に、そちらが何者なのかを知りたい」
「一部の者からはヘインズと呼ばれている。愛称というより偽名だが」
「正直者か嘘つきか、判断に迷う」
「たしかに。だが、隠すのはお前たちのためでもある。余計な面倒に巻き込まれたくはないだろう?」
「もう巻き込まれているのではないか?」
真顔で告げるファン・ミリアに、
「たしかに」
くっくとヘインズが笑った。