11 扉の記憶Ⅳ(修正版)
――ミドスラトス?
にわかには信じられず、ティアは呆然とする。
ミドスラトスは、東ムラビア王国の前王の名である。
――イグナスの顔を持つこの男が、ミドスラトス?
当然ながら、前王ミドスラトスはすでに身罷って久しい。
――同名の別人か?
だが、別人があえて王名を名乗るのも只事ではない。
ティアの身体は自分の意思とは無関係に、プリネイアと呼ばれた娘を殺された男の絶望によってつき動かされていた。
男は蜃気楼を手にミドスラトスへと斬りかかっていく。その前を、生き残っている敵の兵士たちが遮った。
『落ち着け!』
ティアはもうひとりの自分へと声をかけるも、男は聞こえているのかいないのか、雄叫びとともに斬り込んでいく。
『くそ、なんとか――』
舌打ちをしたい心境で全身に力を込めると、かろうじて左腕だけが動いた。敵兵の剣を避け、男が伏せた拍子に地面に手をついたのを見逃さず、ティアはありったけの力を注いで魔法陣を発動させた。
――開かれた城門!
必死の思いでティアは叫ぶ。
『バディス、来い!』
己の眷属の名を喚ぶ。
しかし、距離が離れすぎているせいか、またここが現実ではないからか、魔法陣は輝きを宿すことなく、バディスが現れる気配もなかった。
『やはり駄目か』
さらに間の悪いことに、左腕さえも動かせなくなってしまう。
『イスラは動けるか?』
すがる気持ちで声をかけた。すると――
『動けるが、動くつもりはない』
遠くのほうから雑音まじりにイスラの声が返ってくる。
『なぜだ? そんなことを言っている場合じゃないぞ』
『徒労は好まぬ』
『私が頼んでいる』
『徒労は好まぬと言っておる。いま動いたところで何も変わらぬ』
『わからず屋。このままでは取り返しのつかないことになるぞ』
『わかっておらぬのはお前じゃ。夢のなかで何をしようと現実は変わらぬ。仮に変わったとして、この者を助ける道理が私にはない』
こうなるとイスラは梃子でも動かない。
――だからと言って、指をくわえて見てはいられない。
絶望に身を焦がし、ひとり敵の群れに突っ込んでいく男の姿が、かつての自分の姿と重なる。
『おい、聞こえるか!』
大声で、ティアは別の意思へと話しかけた。
『お前の力では、包囲を突破することは難しい』
腕は立つようだが、敵が多勢に過ぎる。このままではミドスラトスに一太刀浴びせることもできず、力尽きるのが目に見えている。
『聞こえないか! 私に変われと言ってるんだ!』
苛立ちを隠さず、ティアが怒鳴りつけた時だった。
『――断る』
男の低い声が聞こえた。だが、実際の男は雄叫びを上げながら、敵の兵士と剣を切り結んでいる。
『奴は、私の手で殺してやらねば気が済まぬ』
ティアは心の内にむかって声をかける。
『……何者なんだ、ミドスラトスとは? なぜこれほどお前を憎む』
『それは、奴が私の兄だからだ』
『なに?』
その言葉の意味を、ティアは歴史の知識を頼りに探る。
『ミドスラトスは、妾腹の子だったはず……』
『よく知っているな』
感心する口調ではあるものの、男の顔にはすでに無数の創傷が刻まれていた。出血も多い。
『国王ヴァシリウスが戯れに侍女に産ませた子は、双子だった。それが私と、兄のミドスラトスだ』
『兄が、実の弟を恨むのか?』
『実の弟だからこそ許せぬこともあるのだろう』
『……ふたりの間に何があったんだ?』
『母は、王の後宮のなかでも底辺の地位しか与えられず――王の寵愛を失った部屋は冷たく、牢屋のようなものだった。私とミドスラトスは王の傲慢によって生れ落ち、母親の愛情のみを頼りに育てられた。母は私たちのため、ウル・エピテスを出ることを望んだが、ヴァシリウスがひとつの条件を出した』
『条件?』
『当時、王には私たち以外に子供がなかった。そのため、ヴァシリウスは母に、どちらかの子を差し出すよう迫った』
『都合のよい話だ』
『王とはそんなものだろう』
男が鼻で笑った。
『母がなぜ弟の私を取り、兄を差し出したのか。その理由を明かすことはなかったが、どちらを選んだとしても、結果は同じであったろう。この身体に、呪われたムラビアの血が流れているかぎり……』
話しながら、男はミドスラトスへと視線を向けた。落ち着いた口調だが、それはあくまでティアとの会話においてであり、戦闘を続ける姿は獣のそれに近い。
男は息を切らし、蜃気楼を振り続けている。疲労は明らかだった。
『このままでは、奴に一矢報いることなく死ぬぞ?』
歯がゆいが、身体を動かせない以上、ティアは事態を見守ることしかできない。
『もはや死ぬのは構わぬが、何もせずに死んではプリネイアに申し訳が立たぬ』
『だったら――』
言いかけたティアの前で、男は強打をくらい、膝をついた。すかさず別の兵が槍の柄で男の首裏を抑えつけ、地を舐める格好を取らせる。
『言わぬことじゃない!』
ティアが声を荒げた時だった。
「これはどうしたことだ!」
悲鳴じみた声を上げて、父親が母親を伴って門から入ってくる。
父親は敵兵に捕らえられた男を見、プリネイアの亡骸を見た。それから、ミドスラトスの存在に気づくと、事態を察したのか唇を震わせはじめた。
「これでは話がちがう!」
父親が、激してミドスラトスへと詰め寄っていく。
「なぜ、あなたがここにいるのだ!」
ミドスラトスはうすら笑いを浮かべている。
「イグナシウスを引き取れば、長く封土を任せるとの御約定を陛下より賜ったのだ!」
父親が口にしたその名に、ティアは今度こそ自分の耳を疑った。
――イグナシウス?
忘れたくても忘れられない名だ。イグナシウスとは、イグナスの本名である。初めて会った戦場の幕舎のなかで、イグナスから自己紹介を受けたのだ。
――私ではない別の私は、イグナスだった?
驚くティアに対して、
『やはり、そういうことだったのか……』
男――イグナスはどこか腑に落ちた様子でつぶやく。そのつぶやきには、ひどく嫌な予感を感じさせる響きが篭もっていた。手に持つ蜃気楼が不気味な輝きを宿しはじめている。
『父上が私と母を引き取り養ったのは、やはり愛情ではなかったのか』
つぶやいたイグナシウスの声音が、暗く淀みはじめていた。
『それはちがう!』
とっさに、ティアは叫んで否定した。プリネイアという最愛の女性を殺されたイグナスが、憎しみのあまり父親からの愛情までもを疑いはじめている。
――この男は、私が知る蛇ではなかった。
ティアは見てきたのだ。これまで、イグナシウスの家族に対する想い――プリネイアに対する愛情は、決して嘘やまがい物ではなかった。
そのイグナシウスが、なぜ蛇になったのか。
嫌な予感が止まってくれない。
『父上は、お前を本当に愛していた。愛していたからこそ、プリネイアとの婚約を認めたんだ!』
父親は動顛しているのだろう。そしてイグナシウスも。どちらもが、冷静な判断や、口にすべき言葉を見失っている。
――なぜ、こうも負の連鎖が続いていく?
思った刹那、ぞくり、と。ティアの首筋を這うような悪寒が走った。
――まさか。
イグナスの持つ蜃気楼が、脈打ち、胎動するように光を強くさせている。それに呼応して、イグナシウスの首に当てられた槍が徐々に押し上げられていく。
――蜃気楼が、イグナシウスに力を与えているのか。
ミドスラトスが所持していたはずの魔剣が、なぜイグナスに力を貸すのか。
疑問が疑問を呼ぶ最中にあって、
「なにをする!」
父親の狼狽する声に顔を上げると、ミドスラトスが懐から短剣を取り出したところだった。
『イグナス!』
あわててティアが呼びかけるも、イグナシウスにも異変が起こっている。
雨上がりの水たまりに映った顔は、プリネイア同様、顔を覆う影が消え去っていた。呼吸を求める口は大きく開き、のぞく歯が、鋭く尖っている。皮膚には鱗が浮かんでいた。
喘鳴がうなり声へ、そして咆哮へと変わっていく。
『私に身体を譲れ、イグナス! 蜃気楼の力を頼るな!』
だが、イグナシウスからの返事はない。
『イグナス、頼む!』
懇願にも似た気持ちで声をかけた。
『イグナス、蜃気楼なんかに負けるんじゃない!』
ティアは大声で呼び続ける。しかし、ミドスラトスの短剣が父親の血で赤く染まり、その刃にさらに母親の血が降り重なった時、イグナシウスから伝わる黒い波動に、ティアは弾き飛ばされた。
「くっ――!」
木の葉のように翻弄されながらもなんとか歯を食いしばって宙に静止した時、ティアは肉体から抜け出て、精神体とも言うべき透明の傍観者になっていた。
イグナシウスは槍を押しのけると、蜃気楼を振った。軽い動作にも関わらず、兵士が真横に両断される。
瞳には銀光とともに狂気が宿っていた。
対するミドスラトスは、そんなイグナシウスの様子にひるむどころか、ますます愉しげに笑う。
――何を狙っているんだ、あの男は。
蜃気楼を奪われ、短剣一本でなぜ余裕を見せる?
敵兵をなぎ倒し、イグナシウスがミドスラトスへと向かっていく。イグナシウスが近づくほどに、ミドスラトスの邪悪な笑みが強くなる。
――こいつ……!
その不自然さが、ティアにありえない考えを閃かせた。
「はじめから死ぬ気か!」
言ってからティアは確信する。ミドスラトスは手に持つ短剣をさえ、構えようとしない。
『イグナス、ミドスラトスは死ぬ気だ。お前に殺されるのを狙っているぞ!』
だが、もはやどれだけティアが叫ぼうと、イグナシウスに届くことはなかった。
『やめろ! 復讐では変わらない!』
叫んだ言葉が、自分自身の胸を刺す。
『……復讐では、救われないんだ』
ティアの言葉が虚しく宙をさまよい、蜃気楼がミドスラトスの心臓を貫いた。
「クク……」
致命傷を受けてもなお嗤うミドスラトスの瞳が、焦点を失っていく。
「……実の兄を殺すとは、人とは思えぬ」
口から鮮血がこぼれ落ち、己を殺す剣を赤く濡らす。
「……兄を殺した次は……誰を殺す?」
ミドスラトスの身体から力が抜け、イグナシウスにもたれかかっていく。先ほどまでの獣の相貌が嘘のような、奇妙なほどに安らかな死に顔だった。
対照的に、イグナシウスの顔こそが、ミドスラトスを殺してもなお、憎悪を宿し続けている。
――呪いが移った……。
おぞましい言葉がティアの脳裏に浮かぶ。
イグナシウスとミドスラトス、本当に生き残ったのはどちらで、死んだのはどちらか。
ただ、蜃気楼だけが青白い光をたたえていた。
◆
屋敷が燃えている。
赤い焔がすべてを焼き尽くしていく。
夢も、家族も。
蜃気楼を片手に、もう片方の手には道化師の仮面を。
銀の瞳が、炎の照り返しを受けてギラギラと輝いている。同様に、髪の色も銀に変わっていた。
――イグナスの憎悪が、蜃気楼を呼び寄せたのか。
あるいは蜃気楼がイグナシウスの憎悪に油を注いだのか。
いずれにせよ、イグナシウスは人ではない別の何かに変わっていた。
西の空、濃紺の雲間に、沈みゆく夕日がのぞいている。屋敷が燃え落ちる様を見つめ続けるイグナスの背後で、馬のいななきが高くこだました。
イグナシウスが振り返ると、そこに、貴族の身なりをした男が階段を上ってくる。恰幅がよく、急いで来たのか額には汗を滲ませていた。
「ミドスラトス様、ご無事でしたか」
うやうやしく頭を下げてくる男に、イグナシウスはわずかに首を傾げる。
「お前は、誰だ?」
「は?」と、貴族の男はぽかんとした表情を作る。「何をおっしゃって――」
「誰だと聞いている」
イグナシウスが蜃気楼を突きつけると、あわてて男が両手を上げた。
「コードウェルです、ラシード=コードウェル。ミドスラトス様、いかがされましたか?」
この名もまた、ティアを驚かせるには十分だった。
――コードウェル……。
現在の東ムラビアにおいて、もっとも名声を得ている三公爵家の一家である。
だけでなく、ラシード。
ラシードはコードウェルを男爵家から公爵家へと大躍進させた人物である。現王デナトリウスより二代前のヴァシリウス王の御代、圧政に苦しむ王都を解放するため、ミドスラトスとともに武力蜂起した人物として歴史に名を残している。
「――まさか……」
そのラシードが何かに気づいたらしく、目を見開いた。
「貴方は……イグナシウス?」
蜃気楼を向けられ、ラシードがおびえるように後ずさった。彼もこの場に居合わせた以上、事情を知っているのかもしれない。
「何を言っている? イグナシウスは死んだ。あそこで燃えているのが見えるだろう?」
イグナシウスが、顎先で燃える屋敷を示す。
「私がミドスラトスだ」
落ちていく夕日が影を伸ばすように、瞳の虹彩が不気味に伸びていく。
「私には、殺さねばならぬ者がいる。壊さねばならぬ物がある」
「それは……」
ごくり、とラシードの喉仏が大きく動いた。
「ラシード=コードウェル、お前にも付き合ってもらう」
「……付き合う、とは?」
おびえるラシードに、イグナシウスはくぐもった笑い声を上げ、
「なあに、心配するな」
蜃気楼を下ろした。かわりに、
「私の目的が成就したあかつきには、好きな地位をくれてやる」
そして仮面を持ち上げていく。
「王殺しの王も、面白い」
仮面を顔にかぶる直前、ちらりと宙を――透明に浮かぶティアに視線を走らせたのは、気のせいだったか。
――そして、イグナスはミドスラトスになった……。
歴史の影に隠された真実。
この後、ミドスラトスに扮したイグナスは遊学と称してコードウェルに身を寄せることになるのだろう。
来たるべきその日を待ち続けて。