10 扉の記憶Ⅲ(修正版)
屋敷の裏庭に、トネリコの木が生えている。
新鮮な土の匂い。
ティアはその幹に背をもたせて座り、太陽が上る様を眺め続けていた。
「お兄様……」
呼ばれて顔を向けると、プリネイアが庭先に立っていた。直射日光がまぶしいのか、手で庇を作っている。ティアを探していたらしい。
「こんなところで何をしているんです?」
「日光浴」
答えると、「お爺さんみたい」とプリネイアが笑う。
「できるだけ長く太陽の光を浴びていたいんだ」
さすがに意味がわからなかったのだろう、プリネイアは肩をすくめると、ティアのすぐ近くに、すとん、と座り込んだ。
「お父様から、お兄様はこれからずっと、屋敷にいてくださると聞きました」
「そうだな」
話を合わせてうなずくと、プリネイアは芝生のうち、土がむき出しになっている部分に両手をついた。こちらに身を乗り出して、
「では、これからずっと一緒にいられるのですね!」
顔こそ影になって見えないものの、言葉の端々に爆発するような嬉しさがあふれている。ティアはそっと自分の胸に手を当てた。
――きっと、私もそう。
自分ではない、別の誰か。
ようやく手に入れた、平穏の場所、そんな想いが伝わってくる。
胸に、陽だまりのような幸福感が溜まっている。
自然と、ティアの手が動いた。プリネイアの頬あたりをつまみ、横に引っ張る。
「うう~」
と、恨めしそうなプリネイアの声に、ティアは笑っている。
――これは、夢。
この夢は、まさしく何者かにとっての夢だったのだろう。
だからこそ、ティアは感じずにはいられない。
幸福であればあるほど感じる、夢の終わり。
なぜなら、この夢はタオの十六歳の記憶を拠り所にしているはずだから……。
思いながら空を見上げると、灰色の雲が、巨大な手となって太陽を包み込もうとしていた。
「プリネイアに頼みがあるんだ」
ティアが視線を落とすと、頼まれることさえ嬉しそうに「はい」とプリネイアが返事をする。
「今日、一日だけでいい。父上と母上とプリネイアで、この街を離れてくれないか? もし知人がいれば、その家に泊まってほしいんだ」
「街を、ですか?」
「ああ」
「なぜ、でしょうか」
「皆を守るため。それと――」
「それと?」
小首を傾げるプリネイア。ティアはその影の顔と向かい合い、言った。
「明日、プリネイアがこの屋敷に戻ったら、その時は指輪を買いに行こう」
◇
雨が降る、灰色の世界。
──いったい、これは誰の夢なのか。
その答えはまだ出せないでいる。
ティアは門から屋敷へと続く石畳の上で、微動だにせず待ち続けた。
「あの時も、私がここにいればよかった」
過去を悔いても仕方がない。わかっていながら、二度と戻らない過去を想う。
いま、屋敷に残っているのはティアひとりだけだ。
使用人を含め、住人のすべてを屋敷から出していた。父親も母親もはじめは冗談と思って請け合わなかったが、ティアが辛抱強く説き続けるうち、納得せずとも「そこまで言うのなら」としぶしぶ家を空けることに協力してもらった。
待ち続けるうちに、雨は小降りになっていく。やがて完全に止むと、雲間から射し込む光に、葉先の雫が宝石のように輝いた。
雨上がりの匂いのなか、遠くから地響きのような音が聞こえた。それが馬の立てる蹄の音だとわかった時には庭木の枝々が震えはじめていた。
「来たか……」
馬蹄の響きが、屋敷の前でピタリと止まった。
階段を武装した兵士たちが上ってくる。兵士たちは顔面を覆う兜を身につけているが、その中で、先頭を歩く者だけが兜ではなく、仮面をつけていた。
「道化師……」
異様といえば異様だった。重々しい甲冑をまとった兵士たち、その殺伐とした一群のなかに、ひとりだけおどけ役が混じっている。とはいえ、首から下はしっかりと武装しており、大剣を背負っていた。
鞘には見覚えのある蔓草の模様が刻まれている。
――ウラスロではない?
そう思う一方で、兵士たちの身にまとう鎧兜は、どことなくウラスロの特務部隊を髣髴とさせる意匠だった。
――どこまでが自分の夢の影響で、どこからが別の者の夢か。
判然としないうちに、道化師がひょいと人差し指をティアに向けてくる。それを合図に、左右の茂みから兵士たちが飛び出してきた。
「挨拶もなしか」
事前に回り込ませていたのだろう。左右の兵士はともに槍を構え、こちらめがけて突っ込んでくる。ティアは避けず、身体を貫かれるままに両手を伸ばした。それぞれの頭を掴み、互いにぶつけあわせる。
石畳に崩れ落ちていく兵士たち。その兜が割れ砕け、下から顔がのぞく。
――こいつらの顔は見えるのか。
はじめて見る顔だが、どういうわけか影にはなっていなかった。
道化師がさらに指を動かすと、今度は斧槍を振り上げた兵士が迫ってくる。ティアは手首を回した。その動作だけで、手には黒刃が握られている。
刃を横に、振り下ろされた斧槍を受ける。ずしりと重い体重がかかり、靴が石畳にめりこんだ。
下から、力任せに斧槍を弾く。ひるんだ兵士の首と鎧の隙間を狙って黒刃を突き刺した。
「……!」
無言の絶叫。
ティアは刺した黒刃を左右に振った。鋸で削るように、手に、肉の筋がぶちぶちと断裂する感触が伝わってくる。
そこからひょいと剣を引けば、兜をかぶったままの首が飛んだ。
首を掴み、杯を掲げるように高く持ち上げる。首の断面からとめどなく血が滴り落ちるのを、ティアは舌を伸ばして受け止めた。
ごくり、ごくり、と。ひとしきり飲み終えてから、
「味がしないな」
力を消費しない夢であれば、血を補給する意味もないらしい。
ティアは、道化師めがけて生首を放り投げた。
道化師は首を横に倒し、飛んでくる生首を軽くかわす。
ティアは笑い、
「人違いなら悪いが、私の八つ当たりに付き合ってもらう」
その場にしゃがみ、地に手をついた。その触れた部分から亀裂が走り、黒い筋となって兵士たち一団に向かっていく。
最初に反応したのは道化師だった。足元に亀裂が届く前に地を蹴り、高く飛び上がる。それに倣って続々と周囲の兵士たちも飛びはじめた。
「逃がさない」
ティアの赤い瞳がぎらりと光る。
亀裂を起点として、無数の黒槍が突き上がった。黒い花が咲くように、一瞬で針山と化した黒槍が、逃げ遅れた兵士たちを次々と串刺しにしていく。
そのうちの一本が道化師へと狙いを定めて伸びる。
「……」
道化師は、近くを飛ぶ部下の兵士を掴むと、ぐいと自分の身体の前に引き寄せた。身代わりとなった兵士の胸元に槍が突き刺さる。
ティアの攻勢はそれだけでは終わらない。直後、道化師の背後で魔法陣が描き出されたかと思うと、中からティアが飛び出してくる。
道化師の首を斬り落とそうと黒刃を振る。
しかし――
ティアの手に、硬い金属を打つ痺れが走った。
「やはりな」
ティアは冷静につぶやく。
「その剣は、蜃気楼」
青白い剣身は、まぎれもなく東ムラビア王国に伝わる宝剣だった。
黒槍に突き刺された兵士を踏み台に、蜃気楼を振りざま、道化師がこちらに向き直った。
ティアは仮面を見据え、
「お前は、イグナスでいいんだな?」
問うも、道化師からの返答はない。かわりに蜃気楼を振ってくる。
対するティアは黒刃を消した。蜃気楼に斬られるにまかせ、ティアは両手を持ち上げる。人差し指の先に、黒い液体が溜まっている。
――いけるか?
指先を道化師の仮面の裏、耳の穴に突き入れた。躊躇なく黒い水を注ぎこむ。嫌がってか、道化師がティアの腹を蹴った。
地に落下し、倒れ伏したティアの身体が即座に再生をはじめる。
そこへ好機とばかりに生き残った兵士たちが群れ集ってきた。ティアは霧へと変じ、いったん距離を取った。
屋敷を背にティアが姿を現した時、すでに傷は癒えている。
一方の道化師は、どうやら苦しんでいるようだった。
「グ……グ……グ……」
切れ切れにうめき声を漏らしながら、身体を震わせている。
がくがくと震える道化師の動きに合わせ、蜃気楼がうすく明滅をはじめた。
ティアは前面に魔法陣に描き、飛び込んだ。視界が転換し、目の前に道化師の仮面が迫っている。
「いい加減に正体を晒せ」
爪を硬質化させ、引っ掻くように腕を振った。半瞬遅れて道化師が後方に跳ぶ。
仮面が、カツリと石畳の上を転がった。
男は手で素顔を隠そうとするも、ティアははっきりと見た。
思ったとおり男はイグナスだった。ただ、ティアが知る顔立よりもかなり若く、髪の色も銀ではなく暗い茶の色をしている。
「のうのうと……」
暗く、負の感情をのぞかせる声音だった。
「お前だけが、のうのうと……」
言葉は、ティアにむかって吐き出されている。
「許さん!」
突風のような憎悪に、握りしめた蜃気楼が応えて輝く。その力によってティアの支配を跳ねのけたのか、イグナスがこちらめがけて斬りかかってきた。人の顔でありながら、獣相を宿している。鬼気迫る形相だった。
荒々しい剣筋だが大振りのため、ティアは軽々とかわす。
――怒りで我を忘れている?
さながら狂戦士のように。ティアは両手から黒雷を放つと、イグナスを兵士もろともはじき飛ばした。
仰向けに床に倒れたイグナスを、ティアは冷たい瞳で見下ろした。
「なぜ、私を恨む?」
しかし、イグナスはティアの声にまったく反応を示さない。ただにらみつけてくるばかりだ。
「なぜ、この屋敷を訪れた?」
重ねて訊いたティアの鼻先を、煙の臭いがかすめた。
「まさか――」
顔を上げると、屋敷の塀のむこうのあちこちから、幾筋もの黒煙が上りはじめている。
「……街に火を放ったか」
構えたティアの手に、黒刃が握りしめられている。その時だった。
「お兄様!」
ありえない声が耳に届いた。はっと息を呑み、ティアは屋敷を振り返った。
扉の前に、プリネイアが立っている。
「馬鹿な! なぜ……!」
プリネイアは、両親と一緒に屋敷から出したのだ。この街にいるはずがない。
その疑問は、ティアだけではなかった。
プリネイア自身が、いま自分が出てきた扉と、ティアを交互に見ている。
「どうして……私はお屋敷にいるの?」
意味がわからない、といった様子が、その仕草からありありと伝わってくる。
ティアも驚きながら、イグナスの殺気を読み取った。
イグナスがティアを見、プリネイアを見て嗤う。蜃気楼を持ち変え、投げるような姿勢を取る。
――外道!
ティアはイグナスの前に立ちふさがった。
蜃気楼が放たれた。その剣尖がティアの胸に触れた、瞬間、ティアの胸にぽっかりと穴が空き、蜃気楼がすり抜けていく。
――これは……!
驚愕に青褪めながら、ティアは飛び過ぎる蜃気楼に手を向けた。
「城へと続く深い森!」
蜃気楼とプリネイアの間に黒い霧が発生する。霧に呑み込ませ、逆にイグナスに反撃するつもりだった。
しかし――
『無駄じゃ』
残酷なほどに冷静なイスラの声が、頭に響いた。
『過去は誰にも変えられぬ』
その言葉を証明するように、蜃気楼はティアの霧を掻き消し、
「プリネイア!」
手を伸ばしたティアの口から、自分のものではない声が発せられた。同時に、雷撃を受けたような激しい感情の衝撃が走り、身体の芯が揺さぶられる感覚が起こった。これまで、ぴったりと重なっていた自分の精神と肉体が半分だけズラされ、その空いた領域に別の精神が入ってくる。
「プリネイア!」
ティアではない声でもう一度叫び、少女へと駆け寄った。
「お兄様……」
痛みに顔を歪める、プリネイアと呼ばれた少女。その少女の胸に、蜃気楼が深々と突き刺さっていた。
ティアではない何者かが、弱々しく持ち上げられた少女の手を掴む。
「しっかりしろ、プリネイア!」
何度も呼びかける、ティアではない男の声。しかし、男の言葉を待たず、少女の全身から力が抜け落ちた。事切れると、少女の顔の影に、光のヒビが入った。
影が音もなく粉々に砕け、その素顔が明らかになる。
ティアがはじめて見るプリネイアの顔は、死に顔になってしまった。
怒りと悲しみ。
内より、男の絶望が、ティアの肉体を動かしはじめた。
――これは……。
ティアの意思ではなく、男の意思によって。
プリネイアの胸から蜃気楼が引き抜かれていく。
男は、視線を石畳の先へと向けた。
そこに、イグナスが立っている。満足げに口の端を持ち上げ、嗤う。
「お前が悪いのだ」
イグナスが、嗤い声を上げはじめた。
「先に奪ったのは、お前だ。すべての原因はお前なのだ」
嗤い狂うイグナスに、男は蜃気楼を突きつけた。
「……黙れ」
そしてティアは悟る。続く男の言葉に、自分が思い違いをしていたことに。
「錯乱したか、ミドスラトス。それほど死にたいなら殺してやる」
参考:ミドスラトス→第三章『40 王都後景』