9 扉の記憶Ⅱ(修正版)
次に気がつくと、ティアは夕食を摂っていた。
椅子は四つ。
食卓に座っているのは、ティアと父親とプリネイア、そしてもうひとり、母親がいた。
「お口に合うかしら」
母親の顔も影になっている。
「はい、とても」
うなずいたものの、味はわからなかった。
「今日は、お母さまの手作りなのよ。私もお手伝いしたんです」
ねぇ、と、プリネイアは母親に向かって笑いかけている。母親は、「ありがとうね」とうなずき返し、それからティアを見た。
「たくさん食べてくださいね」
ティアはごくりと料理を呑み込み、
「はい……」
と、ぎこちなく返事をした。
緊張していると自分でも思う。しかしながら、母親のティアに対する態度も他人行儀に過ぎる気がした。またプリネイアはティアと母親の会話を盛り上げようと、あえてはしゃいでいるようにも見える。
「母上は――」
しばらくの沈黙の後、ティアが口を開いた時だった。母親の銀器を持つ手が、はたと止まった。
「どうかしましたか、母上」
「すこし驚いてしまって……」
ごめんなさい、と母親は取りなすように言って、
「あなたが、母と呼んでくれたことが嬉しくて」
「え?」
さすがに予想し得なかった反応に、ティアは言葉を詰まらせた。
母親はよほど嬉しかったのか、手で胸を押さえている。
――この人たちは、いったい……。
しかし、家族の事情を直截的に訊くのはためらわれた。うかつなことを口走って問題をややこしくするのも避けたい。
結局、それから会話もなく、ティアは早々に席を立つことにした。が、自室に戻って一息つく間もなく、すぐに部屋を出ることになった。
父親から呼び出しを受けたのだ。
◇
「プリネイアと結婚する意思はあるか?」
開口一番、父親からそう問われた時、ティアは自分の耳を疑った。何の冗談かと思った。
「母親もそう望んでいる」
「ちょっと待ってください」
ティアはあわてて父親の話を遮る。
「そのようなことを、父上は本気で考えているのですか?」
「冗談で聞くべき話ではない」
ということは、やはり本気なのか。
「プリネイアは妹です」
大陸中、どこを見回しても近親との結婚を許す文化はない。ティアがきっぱり言うと、父親がこちらを見つめてきた。ややあってから、
「その気がない、ということでいいのだな?」
念押しされているらしい。父親はさらに言葉を継いだ。
「お前に娶る気がないのなら、プリネイアは外に出すことになるが、本当に後悔はないのだな?」
ティアに異論があるはずもない。適齢期の娘をいつまでも家に置いておくほうが不自然だし、プリネイアが幸せになってくれれば言うことはない。
だが、
――なぜだろう。
ティアは自問する。
はい、という一言が、なかなかティアの口から出てこない。
ティアの意思ではない。何か……もっと、ティアの奥底にあって、ティアのものではない『想い』が邪魔をしていた。
「父上は、私がプリネイアを娶るべきだと考えているのですか?」
戸惑いを隠し、自分の回答を保留してティアが訊くと、
「仕方あるまい。プリネイアはそれを望んでいるし、嫁入り修行のつもりなのだろう、母親から多くを学んでいるようだ」
「……しかし、プリネイアとは血が繋がっています」
すると、先ほど同様、父親がティアを見つめてくる。
「断る理由として、そう言っているわけではないのか?」
真剣そのものといった口調に、「ここだな」とティアは思った。どうも、父親と自分との会話の齟齬が『兄妹』という関係に集約されている気がする。
「もう少しだけ考えさせてはもらえませんか? プリネイアの一生にも関わることです」
ティアが神妙ぶって告げると、父親は「もっともだ」と鷹揚にうなずいた。
「そこまでプリネイアについて考えてもらえると、父として私も嬉しい。お前も修行が終わったばかりの身だ。いろいろ思うこともあるだろう」
ありがとうございます、とティアは頭を下げ、
――修行。
このあたりが、どうにもティアの腑に落ちない。
夢が混在している、とでも言えばいいのだろうか。ティアの夢を下地にして、別の誰かの夢が仮託されているように思えるのだ。
自分の夢でもある以上、ある部分はティア(タオ)の記憶に由来しているし、また別の部分ではまったく知らない誰かの記憶で成り立っている。
主観的に見るには覚えのないことが多すぎるし、そうかといって客観的に見ていると、不意に懐かしい景色にぶつかって、するどく斬られるような痛みを味わうことになる。
――それでも。
ティアの夢にしろ、もうひとりの夢にしろ、何かを見せようとしているのは間違いのないことらしかった。
その日の夜更け……。
家人が寝静まるのを見計らって、ティアは寝台から起き出した。
吸血鬼の力が使えるらしい、ということは黒雷で確認済みである。ティアは霧に変じ、窓から父親の書斎へと忍び込んだ。
明かりのない部屋をぐるりと見渡す。
――父上、申し訳ありません。
謝りながら、ティアは机に積まれた書類を手に取った。が、目ぼしいものはない。抽斗の取っ手をつかむと、鍵がかかっていた。
ためらう時間が惜しい。ティアはすぐに心を決めた。
「……開かれた城門」
描いた魔法陣に手を突っ込み、抽斗の内側から難なく鍵を開けた。
まず目に飛び込んできたのは父親の日記帳だった。インク染みを防ぐための薄紙が栞がわりに挟まれている。
時間を逆に辿っていくと、不思議なことに誰かの名前が書かれているであろう箇所のすべてが黒く影になっていた。
それでも内容から推理しつつ、日記を読み進めていく。
日記は大判で頁数も多く、ティアが一通りを理解する頃には夜明け近くになっていた。
日記を閉じ、大きく息を吐いた。
やはり、という想いと、まさか、という想いが入り混じっている。
まず、この屋敷の両親は、プリネイアの実父と実母であるらしい。
では自分は何者か、という疑問が必然的に浮かぶが、これにも日記は答えている。
詳しい名前は影が虫食いのようになっているため読み解くことはできないが、王都ゲーケルンの出身らしかった。そして、その母親に当たる人が、プリネイアの父親の前妻だった。
前妻はすでに病没しているが、彼女もまた弱小貴族の出身だった。貴族とはいえ貧しく、そのため彼女は十代の半ばで高位の家へと奉公に出されることになった。
働きはじめてからさほどの日が経たぬうちに、彼女は主人の目に留まることになる。むしろ、その目的ゆえに彼女は呼ばれたのではないか。そう思わせる日の短さだった。
いずれにせよ、彼女は若くしてティア(である何者か)を身ごもることになり、この時点でティアとプリネイアはまったく血がつながっていないことが確定する。
ではなぜ、父親はそのティアの母親――前妻を引き受けたのか。
これも難しい話ではなかった。
父親が経営している領地の、その上に立つ大領主がその貴族だったからだ。前妻が主人の寵愛を失ったか、あるいは子供が成長して家督争いに発展するのを避けるためかはわからないが、ともかく、その子は前妻とともに父親の領地へと送られることになった。
下賜された、というべきかもしれない。
父親からしてみれば、子供つきの娘などもらったところで嬉しくもなんともなかったはずだ。引き受けた理由は大領主に恩を売るためで、前妻とは会ったことさえなかったのだから。
だが、父親が思っていた以上に前妻は美しく、聡明だった。自分の立場をよく理解し、父親に尽くした。自分の子に居場所を与えてやろうと必死だったのだろう。
その熱意が叶ったのか、はじめは家に置いてやっている、という程度の気分が、父親をして愛情を感じるまでになっていた。その子もまた、己の立場をよく理解しているようだった。母親が病で他界し、父親が新しい女性を妻として迎えた時も、継母に対する礼儀を失わなかった。
強いてひとつ、父親に悩みがあるとすれば、その子が継母を『母親』と呼ばないことだったが、それもまさに今夜、奇しくもティアが『母上』と呼ぶことで解消された。
これが父親にとって、よほど嬉しいことだったらしい。ティアと、実子であるプリネイアを婚約させてもいいだろう、という決断に踏み切らせるほどに――
ここまでが、ティアが日記によって得た情報だった。
つまり、とティアは思う。
「私ではない私は、プリネイアを愛していた……」
さすがにプリネイアの意見だけを尊重して、父親がふたりの婚約を認めるとは思えない。なにかしらティアのほうからも意思を表していたのではないか。
日記を閉じて、抽斗に戻した。鍵をかけた時、廊下から足音が聞こえてきた。
ティアはとっさに椅子を引くと、机の下に隠れた。霧になって書斎を出ることもできたが、廊下から聞こえてくる足音――その歩き方に、奇妙な懐かしさを覚えたからだった。
足音が、書斎の前で止まる。かちゃりとドアの開く音がして、部屋が明るくなった。手燭を持っているのだろう。
机の下で、ティアは息を潜めている。いよいよの時は霧に変じることも考えながら、ティアはふと、首を傾げたい気持ちになった。
その人は、たしかにいる。
気配から、父親だということもわかっている。もちろん、日記を読んだいまとなっては父親というより他人といった感覚が強い。
その彼はドアを開けたきり、部屋に入ろうとも、また別の場所に行こうともせず、じっと室口に立っていた。動かない。ただ静かに立っている。
――何だ……?
いよいよティアが不審に思いはじめた時だった。
「タオ……」
その声音、その呼び方。呼吸さえ忘れる驚きに、ティアは目を見開いた。
「みなを頼む。しっかりな……」
それだけを伝えることが目的だったように、足音が遠ざかっていく。
「待――」
ティアは椅子を蹴って机の下から飛び出した。
「待って!」
立ち上がり、室口を見やった。しかし、そこには誰もない。ドアは開いたまま、かすかな揺れだけを残している。
「いまのは……」
瞬きもせず、つぶやいた。
――夢のなかで、夢を見たのか。
応える者はいない。
ティアはもう一度だけ、振り返って誰もいない室口を見た。
「父上……」
窓の外に視線を移すと、すでに空が白みはじめている。
夢の終わりが近づいていた。